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コイハナ〜恋の花咲く平安絵巻〜  作者: 秋鹿
エピソード1~久方の光のどけき春の日に~
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過去を振り返り

 慌ただしく行ってしまったもみじ姫の背を見送り、春香は一人綺紅殿の簀の間に立った。

 綺紅殿で一人になるのは初めてだ。


「本当に一人きりにさせるなんて……」


 何の持て成しもなく、更に一人放置されている今の状態に苦笑した。

 仮にも東宮である春香をここまで適当に扱うのは、何も考えていないもみじ姫と、あえてそう振る舞う綾乃ぐらいだ。

 抜け目のない綾乃のことだから、何かしら迎えの手はずは整えてくれているだろう。

 それまでしばし、この綺紅殿を一人堪能しようと、春香はその場に腰を落ち着かせた。

 庭の木々はそれぞれに輝かしい緑の葉をつけ、気持ちよさそうに緩やかな春の風に揺れている。

 光降り注ぐ空は吸い込まれそうなほどに澄んでいて、緑の葉との色の調和が絶妙だ。

 ところどころに咲く名も知れぬ花々は色の濃淡はあれど、ほとんどが赤色だ。

 時折、庭の端にある古木に咲く桜の花びらがその赤い野花の上を舞っていく。

 何故だろう。懐かしさに胸を締め付けられる。

 春香は愁いに頬を緩ませた。


「あの日もこんなに穏やかだったっけ」


 そっと庭の端に根を下ろす古木に目をやった。

 今はわずかに花をさかせるばかりで、あの夜の爛漫さが嘘のようだ。


「あの時も……あの夜のように桜が咲いていた」


 ぽそりと呟いた春香の目には、眩い光の下、咲き誇る桜の花が映っていた。

 それは心締め付けられるほどに清浄で、怖いほどに美しい光景。

 過去に見た桜に思いを馳せ、春香は感傷に眉を寄せた。


    **

 それはまだ春香が凍える季節の中にいた時のこと。


 春香は広い広い御所の中で一人だった。

 今まで東宮の位にいた兄が突然その位を降ろされ、その地位が急に春香のものになった。

 それまでは右大臣家で乳兄弟の寒菊や寒菊の妹である柊と、それなりに楽しく過ごしてきた。

 皇族は成人するまで、後見の屋敷に住まうもの。

 春香もその慣習に従って、祖父である前右大臣家で育てられてきた。

 祖父や伯父からは末は東宮だ、御今上だとまるでお題目を唱えるように言われてきた。

 春香自身もそれが自分のあり方だと信じていた。

 東宮になれば母親や父親の側にいれる。

 そして自分はその位に登れる選ばれた者だと……。


 でも現実は、彼を孤独に追い込むだけ。

 華麗で雅を尽くした内裏での生活は、幼い春香の心を一瞬で凍りつかせた。

 幼くても聡い春香の目から見たそこは、上辺だけの付き合いと欺瞞ばかり。

 会いたいと望んだ父親はまるで紙に書いた絵のようで、手を伸ばしても温もりはおろか、その存在自体が掴めない。

 母親は春香のお陰で中宮という位の昇り、その地位に酔いしれていた。

 春香にとっての母親は無償の愛をくれる存在ではなく、この内裏という伏魔殿で共に高みを目指す同士のようなものだった。

 親に対する愛というものはなかった。

 年の離れた姉のような存在。

 それでも、この世界で生きていく術や為政者としての考え方を教えてくれた母親に尊敬の情は持っていた。

 ただそれだけ。


 しかし別れは突然やってきた。

 春香が東宮になり一年ほどが経った冬の始まりの日。

 元気で病ひとつかかったことのない中宮が倒れた。

 その彼女が伏した状態のまま春香のことをしきりに呼んでいると聞き、軽い気持ちで見舞いにいった。

 しかし対面した彼女は今までのあくの強さや意思の強さを微塵も感じないほどに情けない顔をしていた。

 起き上がれぬ中宮は、それでも力の限り春香の方に手を伸ばした。

 頬にそっと手を添え、そしてほろりと涙を流した。

 初めて見る母親の表情に幼い春香は戸惑った。

 どうしていいか分からずに目を見開く。

 その目に映る母親は春香の知っている高飛車で傲慢な顔ではなかった。

 綺麗な顔を台無しになるほどくしゃくしゃに歪め、止めどなく涙を流している。

 それは春香が見た最初で最後の母親の、母親らしい表情。

 

「ごめんね」


 そう言うと頬に当てられていた手は床に落ち、うつろな目からは涙も流れなくなった。

 贅沢の極みを尽くし、誰よりも精力的だったのに。

 人生は無常で、あっという間にその可憐な人の命を奪っていった。



  ** 

「涙も出ないや」


 一人、東宮御所の階に座った春香は何もない夜空を見上げ呟いた。

 母親である中宮がいなくなったと分かっても涙は溢れることはなかった。

 それでも心にぽっかりと穴が開いたような喪失感が広がる。

 

 意識を失った母親の側から春香は無理やりに引き離され、そして一刻もたたぬ間に、彼女は臨終を迎えた。

 息子にも自分の夫である帝にも看取られることなく、中宮は悲しく逝ってしまった。

 側にいれば死の穢れに触れてしまう。

 極みの地位にいる二人を中宮の側に寄せないのは当たり前のこと。

 父である帝も、中宮の死を離れた清涼殿で知らされ、ぽつりと呟いたと言う。


「それは寂しくなりますね」


 取り乱すことなく、まるで萎れてしまった花を惜しむように。



「憎まれっ子世にはばかるって言うのに、こんなに早くいなくなってどうするんだよ?僕を帝にして、国母として女としての最上の地位を得るんだろ?」


 問いかける相手はここにはいない。

 星さえ瞬くことのない漆黒の闇に、それでも問わずいられない。

 彼女だけが春香と目的を共にする仲間だったのに。

 思い出されるのは最後に見せた母親の顔。

 匂いたつ美しさが影を潜め、余裕の微塵もないくしゃくしゃの泣き顔。

 彼女の、彼女らしくない顔が春香の心を締め付ける。


「最後の最後でそんな顔すんなよ」


 感情に任せて、冷たくなった板の間を叩く。

 自分の胸を占める感情が何なのか、幼い春香には分からなかった。


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