第5章 思いすぎて…
恋も知らない純粋なもみじ姫。
未だ色付かぬもみじ葉はその日、赤く頬を染めた。
幼き姿の童はもみじ姫の唇を奪い、そして艶やかに微笑んだ。
「お姫様だって俺にバレちゃダメなんでしょ?だから、ナイショにしてあげる。でも約束する代わりに俺のお願いも聞いてくれるよね?」
もみじ姫は笑顔でも脅迫はできるのだとぼんやりと感心したが、さすがに事は自分に掛かっている。さすがに慌てて春香の袖を引いた。
「お、お願いって?」
「ずばり俺のものになって!」
え…ー。
言葉の意味が分からずにもみじ姫はポカンと春香を見詰めた。人が人のものになるとはどういうことだろうとその言葉を頭の中で反芻する。
「あなたのものって言われても、わたしはわたしだからそれは無理よ。どんな従者だって全てを主人に捧げたりはしないでしょ?」
幼い子を諭すようにもみじ姫はほにゃりと微笑んだ。
先ほどまでの緊張がほぐれ、何時も通りの柔らかい笑顔。
今度は春香が目を見張り、その言葉に言葉詰まらされる番。
「もみじは本当に無垢なんだね。何時見ても変わらない。」
春香はふふっと笑みを漏らすと袖で口元を覆った。
今までの大人びた笑いではなく、年相応に見える純粋な心からの笑い。
そんな笑みが思わず出たのが恥ずかしかったのか、春香はすぐにもみじ姫を惑わす笑みを浮かべた。
「でも何時までもそのままではいられないよ。誰かがあなたを変えるかもしれない。それじゃダメなんだ。変わるなら俺が変えたい。」
そう言うと不敵に笑い、もみじ姫の黒々とした髪を一房取った。
そして自分の方に引き寄せるように口元に持っていくと、目を瞑る。
「もみじのこの髪も、この香りも誰にも渡したくないんだ。」
薄く笑った口から赤い舌を出すともみじ姫の髪を慈しむように舐め上げた。
これにはもみじ姫も言葉を失い、ただ頬を真っ赤に言葉を失う。
俺のものになって。その言葉がひしひしともみじ姫の中で意味を成した。
「どうしたの?ダメだよ。これぐらいで呆けちゃ。身も心も俺のものにしたい。俺のことで頭を一杯にして、俺なしじゃ眠れないように一つ一つ体に刻み込んでいくんだ。俺のものってそういう意味。分かった?」
コクコクと首を大きく振ることしかもみじ姫は出来なかった。
あまりに直接的で、それでいて過激な言葉にもみじ姫は頭が混乱する。
そんなもみじ姫の気持ちを知ってか、試すような顔で春香はもみじ姫の手を取り手の甲に口を付けた。
次は掌にもそっと。柔らかな髪がもみじ姫の手に係り掛かり、こそばゆく甘い感覚が手に広がる。
春香が何をしたいのか、先が読めずにただおどおどと春香にされるがままのもみじ姫。
抵抗できないもみじ姫に満足げに春香は微笑むと、次は手首を掴み腕に唇を沿わせる。
次第に体のほうに近付いてくる春香から逃げるようにもみじ姫は体を引いたが、そんな簡単にこの状況から逃がしてくれる春香ではない。
せめてもの抵抗に体を翻し、もみじ姫は春香に背を向けるが、春香は一向に構わずもみじ姫の体に自分を刻み込む。
「ダメよ!春香君!そういうことは!大人になってからするものなのよ!」
意を決して、もみじ姫は春香を突き放した。
「なんで?」
子どものようなもみじ姫の理由に大人のような笑みを浮かべて、からかうように春香が聞いた。
「な、なんででもよ。そういうことは結婚なさった方がされることなのよ。だからしちゃダメ!そ、そういうことは本当に好きな方としなくちゃいけないの。」
「もみじは俺とこういうことしたくないの?」
「し、したくありません!大人をからかうのもいい加減にしないとお空の神様に怒られるわよ!」
もみじ姫はもみじ姫にしては精一杯頑張った。
しかし春香のほうが一枚上手で、ショックを受けたように潤んだ瞳で切なげにもみじ姫を見詰める。
「もみじは、僕のこと嫌い?」
「き、嫌いじゃ…ないわ。でもね。」
「ぼ、僕少しでももみじに近付きたくて。もみじが怒るなんて、僕思わなかったから。」
春香の大きな瞳がゆらゆらと揺れる。
さすがのもみじ姫も子どもを泣かしたという罪悪感が胸に広がる。
「ごめんね。でも春香君、していいことと悪いことも世の中にはあるのよ。」
普段は幼いもみじ姫が精一杯を尽くして、お姉さんらしく春香を諭そうとした。春香の頬に手を添え、優しくその頭を撫でる。
「も、もみじは僕のこと嫌い?」
「嫌いじゃないわ。」
「じゃあ、好き?」
「ええ、もちろんよ。可愛らしい弟が出来てとても嬉しいわ。」
優しく慈しむ微笑を浮かべるもみじ姫。どこまでも心清く、優しい姫の言葉に春香は愛らしい頬を膨らませた。
「弟じゃやだ〜!」
「じゃあお友達は?」
先ほどの春香の態度などころりと忘れて、にこやかにするもみじ姫。
「お友達でもいいよ。でもね。」
「あっ。」
自分の頬を撫でるもみじの手を取ると、春香は自分の方へ引き寄せた。
「僕のこと好きなら、口に出して好きって言って?」
ぎゅっともみじ姫の華奢な体を抱きしめると、魅惑の笑みでもみじ姫を見つめた。
「えっ?」
「さっき好きって言ったじゃない。友達でもいいから好きって言って?」
そう言いながら細い首筋に唇を添わせ、もみじ姫の耳朶に熱い息を吹きかけた。
「何っ?」
「もみじがイジワルするから、僕もお返し。僕はもみじと仲良くなりたいのに、もみじはダメしか言わないから。」
冷たい首筋に熱く、唇は熱をもってもみじ姫の肌に新たな感覚を与える。
「あっ。」
すっと顔を離し、春香はにやりと笑った。
もみじ姫の首筋には赤い花のような唇の痕が付いていた。
「これ、友達の印ね。」
ビックリして声も出ないもみじ姫は体を硬直させ、ただただ春香を見詰める。
「今は友達でも許してあげる。もみじにももみじの心の準備があるもんね。でも、そう長くは待ってあげないよ?」
春香は床に落ちたもみじ姫の袿を拾い、その肩に優しく掛けた。
そして、春香は自分の唇に当てた指をもみじ姫の唇にあてる。
「身も心も蕩けて俺のことしか考えなくなればいい。俺からは絶対に逃さないよ。だから覚悟してね。」
軽く身を翻し、春香はもみじ姫の傍を去っていった。
一人残されたもみじ姫は、目をぎゅっと瞑り熱い頬に手を当てた。
「こ、これは夢かしら?こ、こんなこと。」
心臓は早鐘を打つ。
こんなに誰かに振り回され、心を揺らすのは初めてのこと。
胸から溢れる熱い動揺に、体がついていかない。
未だ首筋に残る春の花が、春香の残り香のようにもみじ姫に残った。
「はあ。」
春香の重いため息に傍にいた青年は不思議そうに首を傾げた。
「どうしたんだい?今朝は楽しそうに出て行ったじゃないか。それとも先方で何かあったのかい?」
「別に…。」
「別にって事はないだろう。君が嫌味を言わないなんて。どこか体が悪いのかい?」
心配げにする青年に、春香はぽつりと呟いた。
「恋って難しい。今すぐ自分のものにしたくてたまらないのに、急ぎすぎると傷つけてしまう。」
その言葉に青年は扇で口元を隠し、にやにやとした。
「恋患いかい?一丁前に交野少将だ。」
「ふざけんな!」
「まあまあ、私にも君の気持ちは分かるよ。やっと会えた運命の人を前に自分を押さえるなんてできないよ。今まで胸の奥で静かにくすぶらせていたものが勢いよく燃え盛る。簡単に鎮めることなんてできない。」
青年の言葉に春香はただため息で答えた。恋に燻された熱い吐息。
「して、私の彼の方にお文はいったのだろうか?」
青年は少しそわそわしながら、期待の籠もった眼差しを春香に向けた。
「ああ忘れてた。」
その言葉に青年は持っていた扇を落とし、愕然とする。
「君って奴は…。いつも自分のことばかりで…。私の思い人に手紙を届けるのが君の役目でしょう!」
自分の袖を掴んで涙を浮かべ訴える青年を振り払うと春香は苛ついたように叫んだ。
「知るか!だいたい名も姿も分からぬ人にどうやって文を届けるんだよ!そんなにその人が気になるなら自分で行けよ!」
その言葉にいつもへらへら笑っている青年もぶすりと憤慨する。
「行けるものなら自分で行くさ!行けぬから君に頼むのだろう。童姿の君だから、御簾に邪魔されず何処へでもいける。」
「俺はこんな姿嫌だけどね。」
憮然と答えた春香だが、童姿という言葉にしばし思案する。
「まあ、いきなり冠姿で行くよりもみじにはこっちの方がいいかな?一緒の御簾にいても誰も咎めはしないだろうし。」
満足げな笑みを浮かべる春香に青年はため息をつく。
「君って奴は本当に前向きだな。」
「今まで会えなかったんだ。会えるなら、落ち込む時間も惜しい。それに…俺には時間がない。少ない時間でもみじには都一の女になってもらわないとね!」
立ち上がって部屋を出ようとした春香は少し振り返って、軽く片目を瞑ってみせた。
自信溢れたその笑みに青年は春香の強さを感じた。
まるで冬の寒さに負けず雪の下で賢明に耐える花の蕾のよう。
早く花を咲かせようとする生命力の強さには感服するしかない。
御簾を捲った春香がふと思いついたように振り返った。
「ねえ、あんたの思い人、あんたはなんて呼んでたの?」
「ん?本名は知らない。ただ髪の美しさから藤波と呼んでいた。あの人は嫌がってたけどね。周りは竜胆のような美しさだとその姿を称えて、りんちゃんと呼んでいたよ。そのあだ名もあの人はあまりよく思ってなかったらしいが。」
「ふ〜ん。まぁ、もみじを落とす片手間にあんたの思い人も探してやるよ。」
「早くしてくれよ?もみじ姫は一筋縄ではいかなさそうだから、心配だな。待ってる間に私は年老いてしまう。」
「ばーか!俺を誰だと思ってるんだよ。」
ふんっと鼻を鳴らすと春香は御簾の向こうに消えていった。
「フフッ。あの行動力が私にもあればよいのだけどね。年を重ねれば重ねるほど、怖くなってしまうなんてね。情けない話だ。恋に臆病なまま。愛しの人の名も簡単に口にできない。彼があの方に文を渡してしまうのが怖い。今はただ渡される時を夢見て、仮初めの幸せに酔っていたい。」
おかしそうに、そして切なそうなに青年は独り言た。
ただただ切ない板の間に、季節に似合わない甘い香の香りがした。