第58章 そしてもみじは赤く咲く
「ね、ねえ、綾乃!わたしはどうしたらいいのかしら?」
もみじ姫はまだ混乱から抜け出せないのか、縋るように綾乃を見つめた。
円らな瞳を輝かせ、自分を見つめる顔はいつも通りに愛らしい。
心満たされるもみじ姫ならではの柔らかな優しさに溢れている。
でもいつも以上に艶やかで、匂い立つ美しさに包まれているのは、知らぬ間に一歩大人へと変化を遂げたから。
守られ、悲しみや苦しみから遠い所で生きていたもみじ姫が、心を揺らし、時に涙を浮かべ、そして自ら動き出したのだ。
その心に応えるように、あの日から花を咲かすことのなかった桜の古木が満開の花を咲かせた。
―紅の方様はずっと高い空から見守っていらっしゃったのね。
懐かしい人を想い、綾乃は表情を緩めた。
自分に生きる道を示したあの人は、その優しさをそうとは気づかせないように与えてくれる。
今もそう。
季節を飛び越え桜が咲いただけ。
でも確かに人の心を動かす。
あの人の意図など知らぬ間に、人々は自分自身の道を歩み始める。
さりげなくて、粋な計らい。
そしていつもさも自分は関係ないという顔をして、楽しげにこちらを見ているのだ。
―紅の方様、私は貴女の期待に応えられていますか?
貴女ならこんな時、どんな風に愛しい娘に声をかけるのでしょう?
煌々と月の光を照り返す満開の桜を見上げて、空高くにいる人に問いかけた。
その横ではもみじ姫が先ほどの春香の歌を思い返しては真っ赤になり、春香の身分を思い出しては自分の置かれた立場に真っ青になっている。
その横顔をそっと見つめ、綾乃はいつもと変わらないもみじ姫に思わず、頬を緩めた。
―紅の方様、私は貴女のようには振る舞えませんが、でも、私らしく姫をお守りいたしますわ。
綾乃の心に応えるように、桜の古木がざわめいた。
星降るように、花びらがきらきらと舞い落ちる。
まるで微笑み頷いたように揺れる木に、綾乃は誓いを新たにする。
そしていつも通りにすました顔を作ると、厳しい声を上げた。
「しっかりなさいませ!他の年頃の姫君は求婚の一つや二つ、当たり前に受けておいでですわ」
しかし今日のもみじ姫は一枚上手。
いつもなら綾乃の一喝で冷静になるもみじ姫だが、今宵はまだ浮き足立っている。
無理もないこと。
やっと恋心を抱いた相手が恐れ多くも皇族で、しかも次代の帝であるなんて。
もみじ姫は綾乃に助けを求めるように抱きついた。
「で、でも綾乃〜。東宮様は、わ、わたしに会いたがっていたの。みんなは東宮様がわたしと結婚したいんだって言ってて、でもわたしは断るつもりで、でも実は春香君が東宮様で……どうしよう!わたしは誰の求婚を断りに行けばいいの?」
「いえ。どこにも行かなくてよろしい」
もみじ姫の訳の分からないボケに冷静に突っ込みをいれると、綾乃はもみじ姫の肩に手をかけ、その体を自分から引き離した。
そして諭すように微笑みかけた。
「落ち着きあそばせ。そんなに焦らなくとも、姫の心にはもう答えが出ているのではないですか?」
「こ、答え?どんな?」
恐る恐る綾乃を見つめ、声を上ずらせる。
綾乃に答えを出してもらおうと期待して、円らな瞳を揺らした。
しかし綾乃はぷいっとそっぽを向いた。
そう簡単に教えるわけにはいかない。
こればかりはもみじ姫本人しか分からないのだ。
「それ以上は教えられません」
「ええ!困るわ!わたし、今心がぐにゃぐにゃなのよ。真っ赤になったり、真っ白になったり…いろんな色に染まっていて」
珍しい大声を上げる。
本当に焦っているもみじ姫があまりに愛らしくて、綾乃は思わず頬を緩ませた。
くすくすと肩を震わせながら、真っ赤になったもみじ姫の頬に手を添える。
「もみじというお名前に通りではありませんか」
「でも染まると葉っぱは散っちゃうのよ!」
よく分からないことを言うもみじ姫を落ち着かせるために、その長い髪を優しく撫でる。
「散る葉なのか、芽吹く葉なのかは、姫次第ですね」
「へ?」
意味深なことを言う綾乃にもみじ姫はきょとんと首を傾げた。
綾乃は一呼吸置くと、世間話でもするかの調子で答える。
これがただの世間話になるか、それとももみじ姫を導く切欠になるのかはもみじ姫次第。
「秋の紅葉は有名ですが、春にも真っ赤に染まった葉があるのですよ?――春もみじ、芽吹きの色が情熱の紅なのです」
「春もみじ……」
聞きなれない言葉に、もみじ姫はその言葉の意味をかみ締めるように繰り返しつぶやいた。
「芽吹きの葉……春に咲くもみじ葉……」
それが答え――。
冬の季節に終わりを告げ、暖かな季節に戸惑う。
でも確かにもみじ姫の心に芽吹いた小さな種。
それは今までそこにあったのに、気づかなかった名もなき花。
でも今まで見たどの花よりも色鮮やかで美しい。
心に芽吹いた想いを大切に育てていきたい。
今、胸にうちに広がったこの情熱はどうすれば形となって春香る彼の元に届くのだろうか。
もみじ姫はそっと瞳を閉じた。
そのまま意識を自分の深いところに向ける。
心の奥底にある、悠久の花園。
真っ白な花々の中に一本際立って咲き誇るのは、鮮やか紅の花。
―やっと見つけた。わたしの恋心。
優しくその花に触れ、もみじ姫はゆっくりと目を開けた。
そして祈るように手を組むと、爛漫と咲く桜を仰ぎ見る。
ちはやぶる 君に染まりし 春もみじ
紅の夢 今咲き誇らん