第57章 心に咲く花
清かなる月の光が降り注ぎ、心が震えるほどの静寂が支配する。
見詰め合ったままの二人は時が凍りついたかのように動かない。
ただ時折通り過ぎる風だけが、時の流れを教えてくれる。
まるで呪われてしまったかのよう。
沈黙を破って、視線を逸らしたのは帝だった。
「この重みから逃げていたから私には愛がないのだろう。今まで憧れてやまなかった。でも、心のどこかで諦めていたんだ。愛などなくても生きていけると……」
自分の膝に乗せてあるわが子を見下ろし、帝は眉を寄せた。
「帥宮、今からでも遅くはないだろうか?」
「何がです?」
「この重みを抱えるのは。この子には可哀想なことをした。この子だけじゃない。東宮も、二の宮も、姫宮もみんな。そして、私の妻となり、この内裏に囚われている女御たちもだ」
悔恨の念に駆られた声に、梔子宮はしばし思案した。
幼い頃から見知ったこの男性は常に周りから傅かれ、ただ帝という役目を全うするためだけに育てられていた。
それゆえに普通の人とは一線を引いた、いや他の親王達とも違った雰囲気を纏っていた。
彼はただ与えられるものに満足して、与えられた役割を卒なくこなすことだけを生きる意味としていた。
その男がまるで幼い子どものように顔を歪め、もがき苦しんでいる。
まるで、もみじ姫に見合う男になるためにがむしゃらに行動して、壁にぶち当たっては苦しんでいた春香のようだ。
―まったく親子でそろいもそろって、青春真っ只中って顔するんだね。そんな顔されると……。
帝に気づかれないように心の中でほくそ笑むと、梔子宮は楽しげに口を開いた。
「知りませんよ」
しれっと告げると、帝の表情が哀愁に変わる。
「や、やっぱり、手遅れか」
「だから、手遅れかどうかなど私には分かりません。無駄だったかどうかなどは、貴方が死ぬ前にその床の中で考えて下さい。私の知っている文使いの童は、報われなくても何度もその女君の元に向かっていきましたよ。時に嵐が吹き、時に灼熱の風に晒されても、彼は立ち止まりません。彼の努力が無駄だったかなど、今はまだ分かりません。無駄だと分かるのは彼が諦めた瞬間です」
まるで雷に打たれたかのように、呆然としたまま帝は梔子宮を見つめる。
「しかし彼の情熱は人の心に小さな火を灯した。女君だけじゃない。彼を包む環境全てが彼の心に巻き込まれ、その姿を変える。貴方も結果を考える前にその童のようにひたむきに努力してみたらいかがですか?」
「……とは…」
ぽつりとこぼれた帝の独白に、梔子宮は首を傾げた。
そんなことに気づかないまま、帝の独白が続く。
「まさか、帥宮からこんなまともな言葉が聞けるなんて。あの帥宮が私に向かって助言をするなんて何か裏があるのだろうか。彼が何の思惑もなく、私のためを思って発言するなんて信じられない。やっぱり夢なのだろうか」
「いい加減怒りますよ」
まさかの評価に流石の梔子宮も苦々しい表情を浮かべた。
お互い心に一物持つ者同士の兄弟は、その兄弟愛に手放しで喜べないようだ。
「ああ、すまない。初めてのことばかりで、私の心の許容範囲を超えてしまって。しかし、今日は君らしくないな。内大臣家で何かいいことがあったのかい?」
いつものように柔らかく微笑むと、帝は取り繕うように話を変えた。
「いいこと、なんてありませんよ。まあ、不思議な光景を見ました。摩訶不思議な情景です。私が常と違うなら、それは心がまだその夢に酔っているからでしょうね。今宵の私の言葉はただ戯言で、気まぐれです」
ごまかすように月を見上げた梔子宮はあの瞬間を思い返していた。
綺紅殿から離れた場所で待機していた梔子宮の視界を一瞬で白く染めた無数の桜の花びら。
まだ雪が残り、梅の枝についた蕾も身を固くしているのに。
雪と見まごうばかりの柔らな花弁が自分に降り注ぐ。
まるで心の隙間を埋めるように、音もなく全てを埋め尽くす。
季節を先取りした満開の花々に、心を締め付けられた。
―いや、それ以上に周りにほだされたのかな?
ひたむきに情熱を傾ける春香、真摯な思いでもみじ姫の身を案じる綾乃。
乾いた地面に雨が染みるように、あの二人に感化されたのかもしれない。
「何があったか気になるね」
常に余裕に満ちた弟が見せた僅かな隙に、帝は何故だかこのふてぶてしい弟が可愛らしく見えた。
父母も知らない顔をお互い見つけ、これこそ摩訶不思議な光景だと思った。
「まあ、また気が向けば話して差し上げます。それでは私はこれで。まだまだ、貴方の思いつきの尻拭いをしなければなりませんからね」
「ああ。よろしく頼むよ。それにしても私は何に感謝すればいいのだろう。今宵の月か、それとも」
「何言ってるんですか?感謝する相手は目の前にいるでしょう?」
「いやいや、君は本当に感謝しているよ。でも、君の心を打つような摩訶不思議な光景を作ったものに感謝をささげたいんだ。今宵の君はいつもと違う。今の君じゃなきゃ、きっと私はこの子を抱きしめても何も感じなかっただろう。だから、感謝するのさ」
愛しげに紫苑を抱えなおす。
簡単に歩み寄れるほど、この親子の間にできた溝は浅くない。
その溝に橋を渡すには離れていた時間以上に長い時間が必要だろう。
しかし、この重みは二度と手放さないと心に決めた。
「この子の母は不幸のうちに亡くなった。この子の側には誰もいない。だからこれからは私がこの子の母の分もこの子を愛そう」
厳かに告げた決意。
それは確かに梔子宮の心に届いた。
空虚な兄の言葉とは思えない、力強い意思に溢れていた。
「まあ、思いつめずに。それと、感謝するなら……一途な文使いの童に。彼の行動が、天からずっと見守っていた美しい人の心をも動かしたのです」
帝に背を向けると、梔子宮は月を見上げた。
どこにいても変わらずに降り注ぐ月影に目を細める。
「私たちと違って屈折していない、まっすぐな心がね」
そして、そのまま内裏を後にした。
その背をいつまでも見送っていた帝は、闇に消えた梔子宮から腕にいるわが子に視線を移した。
「こうやって抱きしめたのはいつぶりだろう。生まれてきた時はあんなにも小さかったのに」
壊れ物に触れるように、そっと紫苑の顔を撫でる。
その頬は月に照らされ青白く、悲しげに見えた。
その上にぽつりと一滴の涙がこぼれた。
「こんな父ですまない。いくら謝っても時が戻る訳ではないが、それでもこれだけは伝えたい」
いつの間にか自分に近づき、男らしくなった息子の体を強く抱きしめた。
「君が生まれた瞬間は本当に嬉しかった。君を愛しているよ」
後から後から帝の瞳から溢れる感情が流れ出る。
凍りついた心が溶け出したかのように。
そして、眠りについた紫苑の固く閉ざされ瞳からも一縷の涙が頬を滑った。
その瞬間、真っ白な闇に包まれた彼の心が光に満ちた。
冬の季節は終わりを告げ、芽吹きの月へと動き出した。
雪月の桜は、都中を包み、どこかしこも桜の木々は花をつけた。
都全てを包んだ珍事に人々は驚きつつも先走った季節を笑い、話の種に、酒の肴にし、そしていつしか忘れ去った。
桜が咲いても人はそう簡単には変わらないものだ。
どんなに心打たれる光景も日常に埋没してしまう。
でも、その光景は確かに人の心にある。
心の奥底で咲き誇る満開の花が今日も人々の心に小さな火を灯す。