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コイハナ〜恋の花咲く平安絵巻〜  作者: 秋鹿
もみじ愛ずる姫君
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第56章 寒月宮の黒幕

 もうずっと昔から、僕は雪の中にいる――。

 手を伸ばしても誰も掴めない、真っ白な闇。

 全てを失った虚無感だけが胸の内に吹き荒ぶ。

 お母様、何故僕をおいて行ってしまったの?

 貴女の為に今まで恥辱を感じながらも生きてきたのに。

 ああ、僕にはもう、生きる希望がない。


 それが彼が覚えている最後だった。

 後はむっとするほどの甘い香りに包まれた。



 八重にも九重にも守り囲まれたその奥――。

 都の中心である内裏は、今宵にあっては常の喧騒が嘘のようにしんっと静まり返っている。

 全て御簾も格子も下ろされ、何者をもよせつけようとしない。

 残雪に響くほどの静寂に包まれ、人影どころか気配さえなかった。

 ただ煌々とした月明かりに照らされ、まるで月にあるという寒月宮のような美しさだ。


 その内裏の一角、後宮の入り口にある清涼殿の階で微かな物音がした。

 気のせいかと思うほどに細やかな、しかし月影に浮かぶ朧げな影が薄暗い簀の間に落ちていた。

 一部分だけ格子が上げられ、御簾も上までめくりあげられていたそこから一人の男性が今宵の月を見上げていた。

 線の細い、どこか俗世から離れた雰囲気を醸し出しす男性。

 年のころは三十代だろうか。

 年齢のわりに幼く見えるのは、苦労などとは無縁の中で生きてきたからだろう。

 庇の間にはだらしなく腰掛け、見るともなしに月を見上げている。

 今宵の輝く月をその瞳に映していても、その顔には何の色も浮かんでいなかった。


 「霰もない格好だな。貴方でもそんな崩した格好をされるんですね」


 不意に声をかけられ、男性はぼんやりとした表情のままそちらに目をやる。

 幾重にも重なった闇が動き、ささやかな衣擦れの音と共に一人の男が夜から抜け出した。

 月に照らされた優美な顔はどことなく、相対している男性と似通っていた。

 浮き世離れしている、という点で。


「こんばんは。お約束の品をお届けに来ましたよ」

 男性の前まで進み出ると、男――梔子宮はにまりと口の端を歪めた。

 その両腕には白い衣で包まれた、一抱えもあるような大きな物を抱えている。

「君は、相変わらずだね。師宮」

 相対した男性はふにゃりと表情を緩めた。

 優しげに見えて、しかしどこか心ここにあらずといった空虚な感じがする笑みだった。


「それは貴方でしょう?御今上」

 御今上――それは位を極めた者への敬称。

 しどけない姿で月を見上げていたのは、春香や紫苑の父親であり、梔子宮の兄、この悠久の都に君臨する為政者である帝本人である。

 皮肉げに笑みを浮かべた帥宮は手に抱えた包みを慎重におろすと、帝の前に差し出した。

 底の知れない、乾いた笑みを湛えたまま帝は白い包みを受け取る。

 そして愛しそうにそっと、その包みを撫でた。

 その姿をじっと見つめながら、梔子宮はため息を吐いた。


「私などが言えることではありませんが……そんなに愛しいなら何故手元に置かなかったのですか?いや、後宮に住まわせなくても方法はいくらでもあった。大納言に任せ、放置し、そして今更優しく抱きしめるなんて、虫が良すぎですよ」

「ははっ辛辣だな。まさか君に指摘されるなんて思わなかった。私にこういうことを苦言するのは大体が麗景殿の女御だと決まっているのだが……」

 乾いた笑い声を上げると、帝は白い包みを捲った。

 捲られた中身が月影に晒されて、その容貌を現す。

 優美で、そして繊細そうな面持ちの少年。

 淡い紫色の花に似た儚げ雰囲気を纏っている。

 固く閉じられた瞼の下には悲しげな瞳があるのだろう。

 深い眠りについている今も、その表情は悲壮感に溢れていた。

「紫苑…そう呼ばれているそうですよ?」

「そうか。あの人の名と共にあるのだな」

 ぽつりと呟いた瞬間だけ、帝は切なげに眉を寄せた。

 しかしすぐにまた空虚な面持ちに変わる。

「ありがとう、帥宮。こういうことは君に頼むに限る。君は情などというものには惑わされないからな」

「高いですよ?この私を利用したんですから」

 妖艶にして邪悪、帥宮の本性がにじみ出た笑みに帝は飄々と微笑んで見せた。

 

 

 紫苑がもみじ姫に目をつけていることは早い段階で分かっていた。

 そして東宮である春香がもみじ姫への興味を示せば、早急に行動にでることも容易に想像できること。

 分かっていながら、春香ともみじ姫の逢瀬を邪魔したり、綾乃の心に揺さぶりをかけたりと色々計画を乱したのは、すべてこの瞬間の為。

 全面的に春香の計画を支えていると見せかけ、実はこの瞬間のためだけに梔子宮があの場にいたなどとは誰も思わないだろう。

 夜陰に紛れ、眠り香で眠らせた紫苑を内裏に運び込んだ。

 春香も寒菊もまさか内裏に紫苑がいるなど思うまい。

 春香が紫苑の行方を知ろうにも真実は闇の中。

 内大臣家を襲った不貞の輩は数人をおいて取り逃がし、羅生門あたりで見失ったと検非違使には伝えてある。

 その数人もその場で帥宮の私兵に討たれたか、生きて捕まった者も自分の生に覚悟を決め自害したと。 その他の辻褄あわせもすでに行っている。

 春香が紫苑の行方を知ることは永遠にない。

 そう、梔子宮と帝以外には誰もこの計画の全容を知らないのだ。

 内大臣邸が桜の花びらに白く染まった瞬間、哀れな身の上の皇子はこの都から姿を消した。


「貴方のお陰で私は可愛い甥っ子にも最愛の人にも嫌われる役目を負わさましたよ」

 やるせなさそうに肩をすくめて見せる梔子宮に、帝は苦笑して答えた。

「それは全て私の所為かな?だいたいは君自身の問題だろ?」

「春香君についてはね」

 彼の計画を邪魔ばかりしたのだ。

 彼は面白く思っていないだろう。

 いくら東宮が内裏の外に出ても違和感がないように取り計らい、彼の身の安全のために色々気を回していたとしてもだ。

「春香…というのは?」

「ふふ…ただの文使いの童ですよ。幼いころの初恋の君が忘れられずに彼女の心を得るために頑張って拙い暗躍をしているちいさな子ども」

 帝は不思議そうに目をぱちくりさせ、そして柔らかく微笑む。

「それは、羨ましい話だ。私にはそんな感情は存在しないから。誰かを愛しいなど、どうすれば思えるのだろう。どうすれば心のままに行動できるのだろう。生まれた時からそんな感情とは無縁で、形式の中だけで生きてきた。いつも空虚で、心満たされることはない」

 心の底から羨望している、そう思わずにはいられない表情を浮かべた帝は、切なげな表情をふにゃりと緩めた。

 同意を得ようと、意味深な笑みを梔子宮に向ける。

「君もそうだろう?尊く、人々から敬われる血筋故の孤独。所詮心から分かり合えない」

「貴方と一緒にしないで下さい。私もその文使いの童同様に手に入れたくて仕方ない人はいます」

 その梔子宮の言葉に帝は目を見開いて驚いた。

「君に?」

「貴方の言うように心から分かり合えませんがね」

「信じられないな。世を食ったような、人を小馬鹿にして一線引いているような君が……」

 月に照らされた青白い梔子宮の顔を呆然と見つめると、小さく呻いた。

「ひどい言いがかりですね。まあ、否定はしませんが。その人だけなんです。空虚で無色な私の世界に鮮やかな色をつけるのは。でもどんなに愛しくても、私と一緒にいては彼女が不幸になる。そんなことは百も承知です。……もう分別のつかないあの頃とは違う。今は心から彼女の幸せを願っていますよ。――ただ、このまま忘れられたくはない。他の大勢の中に埋没したくない。だから愛とは違う感情でも彼女に想われていたい、彼女の中に私という存在を刻み付けたい、時々そんな衝動に駆られて意地悪をしてしまいます」

 自嘲気味に寂しげに口の端を歪めた梔子宮に帝はただ驚き、なかなか言葉がでてこない様子だった。

 腕に抱えた紫苑の頭を無意識に撫でながら、しきりに感嘆をあげている。

「君にもそんな感情があるなんて、いや、それ以上に君が私に心の内を明かすなんて、全てが信じられない。夢なのだろうか?もし夢ならどうして私にもそんな心を与えてくれないのだろう」

 愛への憧憬。

 位を極めたがための孤独。

 世界はどこまでも無色で、虚無感に溢れている。

 泡沫の夢なら、どうして甘い感情に酔わしてくれないのか。

 どんなに渇望しても得られない感情に想いを馳せ、帝はどこよりも華やかで洗練された、そして形式と欺瞞に満ちた地上の宮殿から夜空に浮か寒月宮を見上げた。

 眩い月華は静かに都に微笑みかける。


「夢じゃないからですよ。本当に虫がいい。貴方が抱えているものの重み、それが現実です」

 そう告げた梔子宮の声はどこまでも冷たかった。

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