第55章 春に咲く紅の花
本来、こんな場所にいてはならない身。
だからこそ今までは色々な手を使い、抜け出したことがばれないように偽造工作を行っていたのだが、今回は話が違う。
もみじ姫の危機を直感した瞬間から、そんな些細なことはどうでもよくなった。
その位に相応しくない、軽率な行為であると批判されても甘んじて受け入れるつもりだ。
そして出来るならもっと側にいたいと願う。
それが立場故に許さない願いであると分かっていても。
「本当はこのまま攫ってしまいたいな」
寂しげに微笑むともみじ姫に頬に手を当てた。
事態についていけないもみじ姫は不思議そうに首を傾げるばかり。
その澄んだ瞳に映る自分を見て、春香はにこりと微笑んだ。
「春香君?」
そっともみじ姫の耳元に近づくと、春香は甘く囁く。
「今は我慢する。今は日の出と共に姿を消してしまう、哀れな月の兎でいい。俺は俺の立場に関係なく俺を見てくれるもみじが好きだから。でも……」
熱い吐息がもみじ姫の耳朶をくすぐり、甘い痺れが広がる。
春香は祈るように瞳を閉じた。
そのまぶたの裏に浮かぶのは今までの思い出たち。
自らの願いを叶えるために、あえて何も持たない文使いになった。
地位や権力などなくても、もみじ姫の心を得られると信じていたから。
「忘れないで。春はもうそこまで来ているから、春になれば必ずもみじを迎えに来る。もみじなしではもう俺は生きていけないから」
そして、そっともみじ姫の手を取るとその指先に口をつけた。
艶やかな眼差しをもみじ姫に向ける。
「雪溶けて 春めきたる わが宿に
紅の花 いつ咲きにける」
春を待ちわびる歌。
でも、それは間違いなく恋しい思いを詠んだ歌。
もみじ姫の心が俄かにさざめき立つ。
鮮やかに染まった心が愛らしい顔を真っ赤に染める。
もうこの感覚を知ってしまったから、知らない頃には戻れない。
「返事はもみじが宮中に来た時でいいよ。でも……」
頬を赤らめ、春香に見蕩れているもみじ姫に春香はいたずらっ子ぽく口の端を歪まして見せた。
「絶対に断らせないから、覚悟してね」
極めつけとばかりに片目を瞑ってみせる。
「え?宮中?断らせない?」
ぽかんとしたもみじ姫を置いて、春香は寒菊と共に走り出した。
二人はあっという間に見えなくなってしまった。
取り残されたもみじ姫は混乱に混乱を重ねて、助けを求めるように綾乃に救いの手を求めた。
大きな瞳がこぼれそうなほどに震えている。
「綾乃……わたし、今とんでもないことを考えているの。まるで物語のような話なんだけど……。でもまさかそんな……」
「多分、そのまさかだと思いますが……」
綾乃は至極冷静に答える。
でももみじ姫はうろたえて、まだ現実を受け入れられない。
あわあわと意味なく口を動かし、池の鯉のようだ。
このままほっておくのも面白そうだが、狼狽して挙動不審になっている主人のために綾乃は簡単に状況を教えてやった。
「つまり姫は恐れ多くも東宮ご自身から結婚の申し込みを受けられたのです」
「東宮……結婚の申し込み……」
赤い頬が一気に蒼白になる。
事の重大さに、今まで気づけていなかった分の反動は大きい。
「つまり、あのもっともらしい文の相手探しから始まる一連のことは全て仕組まれたこと。もみじ様のお心を得るための作戦の一部だったのです。あの文は目くらかしのようなもの。行き着く先は元からありませんし、春香の君がもみじ様と知り合うきっかけのためだけに用意されたのでしょうね」
説明を受けてもまだもみじ姫の頭に全ては理解できないようで、茫然自失のまま、問いかけのようにつぶやき続ける。
「宮中って……」
話の大きさに事実を受け止めたくなかったのだろう。
もみじ姫にとって春香は梔子の宮の文使いで、これからゆっくりと心を育てていこうと思っていたのに、それがまさかの結婚まで話が進んでいるなんて。
「結婚の申し込みって」
現実がじわりじわりともみじ姫に染みこんで、もみじ姫は一気に真っ赤になった。
赤くなったり、白くなったりと忙しないもみじ姫は目を潤ませて綾乃に問いかけた。
「じゃ、じゃあ、春香君は……」
「ですから、東宮。春の宮ですね」
遠くで甲高く絶叫を上げるもみじ姫の声を背に聞き、春香はくすっと笑った。
「何、にやけてんだよ。気持ち悪い」
東宮と知っていても寒菊の春香に対する口の聞き方はぞんざいだ。
昔からずっと側にいる乳兄弟に春香は喜びをかみしめるように、表情を緩ました。
「やっと、長年の願いが叶うと思うとね」
寒菊は嬉しくてたまらないと言った春香に興味なさげに目を向ける。
「ふ~ん。まあ、そのだらしない面、宮中に帰るまでになんとかしろよ」
「分かってるよ。――それより、寒菊」
「ん?」
「色々ありがと」
前を向いたまま、春香はつぶやいた。
見つめる先はまだ夜の気配を残した闇だが、東の空がわずかに白み始めて夜の終わりを告げる。
感傷に浸っている場合ではない。
語り合うのは全てが終わってから。
いや、全て終わってもいつものようにふざけあって日々を過ごしてしまうだろう。
だからこそ、伝えとかなければならない。
先ほどのもみじ姫と綾乃のやり取りを見て感じたこと。
大切な存在ほど近くにありすぎて気づかない。
「なんだよ、改まって。気持ち悪い」
寒菊は顔をしかめると、春香の背を勢いよく叩いた。
整った顔をにやりと歪ませる。
それは艶やかな姫君の顔ではなく、少年らしいはつらつとした笑みだった。
「まあ、お前は頑張ったんじゃない?ま、そんな素直になるなよ。お前は傲慢不遜にふんぞり返ってろよ。大切なことさえ見逃さなければ、お前はいい帝になる。なんたって、俺という参謀がいるからな」
「期待してるよ」
「まあ、これからも大変だけどな。なんたって、敵は天下一の鈍感。もみじ姫だから」
「絶対に幸せにすると決めた。どれだけ時間がかかっても構わない。……だから、安心していいよ」
最後の一言だけはつぶやく様に。
目の前に止められた牛車に気を捉われた寒菊の耳にはその言葉は届かなかった。
しかし、代わりに桜の古木が大きく揺れた。
柔らかな花びらが春香の元まで舞い散り、そっとその頬を撫でていった。