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コイハナ〜恋の花咲く平安絵巻〜  作者: 秋鹿
もみじ愛ずる姫君
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第53章 約束の桜

「一つ、条件をだしましょう――」


 桜の大木にそっと触れて、その美しい人は言った。

 目を凝らさなければ光に霧散してしまいそうなほど儚げな姿。

 白く色をなくした顔は白磁のように硬質で、悲しいほどに美しい。

 でもその中にあって瞳だけは別だった。

 燃えるような瞳が、淡い面影の中で輝く。

 意思の強そうな瞳が射抜くようにまっすぐと見つめてくる。


「あの子の心を貴方色に染めるくらい、いい男になりなさい。ただ強いだけじゃダメよ。優しいだけでも足りないわ。あの子の心を揺らすんだから、並大抵の男じゃ話にならないわ。もし貴方があの子の為にこれからの人生を歩むと言うのなら、私も細やかながら貴方の人生に切欠を与えましょう。……でも、勘違いしないでね。選ぶのはあの子よ。その代わり、どんな手段で来ても構わない」


 言葉を切るとその人は不敵に微笑んだ。

 その人の黒髪が光の降り注ぐ空の下、柔らかい粉雪とともに風に舞う。

 それが雪の花を咲かせる古木の元、天上の景色のように美しかった。

 ただ、その天女と対峙しているのは年端もいかぬ子ども。

 小さな少年はその人の言葉の意味が分からず、小首を傾げた。

 彼が今一番知りたくて仕方ないことは、自分の視線の先でとめどなく涙を流し続ける幼い姫のことだ。

 

 まばゆい笑みを自分に向けてくれた、温かな人。

 何故、あの姫はこの世の終わりを嘆くように涙を流すのだろう。

 わずかに離れた寝殿の庇の間で、糸が切れたように座り込み、呆然と涙を流す姫をじっと見つめる。


「あの子はね、今大切なものを失って、どうしていいか分からないの。あの子は素直で優しい、でもまだ幼い過ぎるの。あの子はまだ母親と自分を分けて考えられないの。だから自分の半身を失ったも同然。あの子はきっと失うことの悲しみに心を凍らせてしまう。だから――」


 美しい人が空を仰ぎ見た瞬間、純白の木々が薄紅色に染まった。

 水色の空に光が散るように、辺りが一瞬で明るくなる。


「桜が……咲いた」


 摩訶不思議な光景に彼は眼を丸くし、しばし白と薄紅が織り成す奇妙な光景に見とれた。


「あの子が自分の悲しみを全て抱え乗り越えることが出来るまで、この桜があの子に代わって悲しみを引き受けましょう。悲しみに繋がる記憶も全て花とともに封じる」


 淡い花びらが一斉に散りだした。

 しかし幼い姫は目の前の悲しみに捉われ、季節を先走った春の気配にも気づかない。

 その女性は古木の枝を一本折ると、腰を折って彼の目の前に枝を差し出した。


「桜をあの子にあげると約束したのでしょ?桜が全て散る前にあの子の元に行きなさい。桜が全て散った瞬間からあの子の悲しみは全てこの桜が身代わりをする。もしかしたら……いいえきっと必ず貴方のことも忘れているでしょう」


 試すように言葉をつむぐ女性に彼は大声で叫んだ。


「で、でも忘れられたって僕はもみじが誰よりも大事!絶対にもみじを笑顔にする!!」


 その淀みない瞳に、真摯な姿に、女性は満足げに頷くとゆっくりと立ち上がった。

 心残りはたくさんある。

 だが、いつまでもこの場にいることはできない。

 出来るなら愛娘の泣き顔を拭いて、笑顔を心に刻み付けたいと思う。

 でもそれは許されぬこと――。


「そう、なら行くといいわ。小さな皇子さま。あの子の心の氷が溶け出せば桜も咲く。それが約束の合図よ」


 今は娘の側で娘のことを愛してくれる人々に託すしかない。

 そんなに小さな存在でもその暖かな手で頬を伝う涙をぬぐってくれるなら。

 走り去る少年の背をいつまでも追い続け、その人は桜の花と共に終わり行く季節に消えた。


 



「まるで紅の方のようですね」

 いつの間にか庭に降り立っていた綾乃が満開の桜を見上げてポツリとつぶやいた。

 一つ一つは小さな花なのに、何故こんなにも心にしみこんでくるのだろうか。

 綾乃は赤くなった瞳を細め、複雑そうに微笑んで見せた。


「綾乃!会いたかったの…今までどこに……」

 もみじ姫は高ぶる感情に目を潤ませた。

 ずっと会いたいと願っていた人が目の前にいる。

 感情に任せて抱きつこうとしたもみじ姫を綾乃はそっと手で制すと、衣を上品に裁いてその場に座り込んだ。

 ぬかるみに汚れるのも構わず、ぴんっと伸ばした背を折り頭を下げる。

 豊かな黒髪が地面に広がった。

 月の光を受け、深緑に輝く髪をもみじ姫は驚きと共に見つめていた。


「あ、綾乃?」

「お許しください。無礼を承知で参りました。一度身勝手な行動を取った私がどんな理由であれ、内大臣家の門をくぐるなどあってはならないことだと思います。ただ……」

 驚くもみじ姫の前で、他人行儀名な綾乃の口上が続く。

 まるで溢れる感情を必死に耐えているかのように硬い声だった。

「貴女様の無事をこの目で確認するまでいてもたってもいられずに参りました。微力ながらお力になりたいと……」

「綾乃、どうしちゃったの?なんでそんな……」

 戸惑うもみじ姫に、ゆっくりと顔をあげた綾乃は優しく微笑んだ。


「貴女が私の生きる希望でした。全てを捨てて生きよう心に決めた時、私を拾ってくださったのは紅の方でした。そしてあの方は私に生きる目的を与えて下さった。それが貴女。貴女が私の生きる希望なんです」

 過去を思い出したのか、綾乃の頬を清らかな雫が伝う。

 一度堰を切ってあふれ出した感情は止まらない。

 綾乃はもみじ姫を抱き寄せるときつく抱きしめた。

「貴女が無事で本当によかった。もうこれ以上のことはありません」

「綾乃、わたしも綾乃に会いたかったの。ずっとずっとそう願ってたの」

 もみじ姫も綾乃に抱きつくと言いたかった言葉を伝えた。

 

 普段、あまり側にいすぎて気づかなかったこと。

 でも離れてその大切さを身をもって知った。

「わたしは綾乃が大好きなんだって。伝えたかった。ありがとう」

「もったいないお言葉です」

 普段凛として隙の綾乃からは創造もつかぬほどに情けない顔だった。

 でもはじめてみる綾乃の表情にもみじ姫は更に綾乃との距離が近くなったように感じた。


 そんな二人のやり取りを春香はそっと見つめていた。

 煌々とした月明かりの下、何年かぶりに薄紅色の花を咲かした古木を見上げる。

 あの日のように雄大で、そして心の奥に染み渡る美しさだ。


「俺もやっと約束を果たせた。もみじの閉ざされた記憶が花と共に開花する。ねえ、これでよかったんだろ?」


 あの日、自分の娘を小さな少年に託した女性のことを思い出した。

 雪のように淡く透けて見える面影。

 でも眼差しだけははっきりと分かる。

 その人は少し大人になったもみじ姫にどこか似ていて、そしてこの上なく美しい人。


「約束どおり、俺は手段を選ばないよ?」


 優美な、それでいてどこか悪意の混じった小悪魔な笑みを浮かべ、春香は満開の花を咲かせる桜にそっと宣戦布告を告げた。


 

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