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コイハナ〜恋の花咲く平安絵巻〜  作者: 秋鹿
もみじ愛ずる姫君
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第52章 桜咲く

 一瞬、時が止まったのかともみじ姫は思った。

 辺りが目映く輝き、視線の先が白一色に染まる。


「雪?」

 

 視界を遮る白い欠片が緩やかな風に揺られて、ふらりふらりととめどなく降り続けている。

 月明かりに照らされ更に輝きを増し、あまりの数に目の眩むほど。

 その柔らかな欠片がそっともみじ姫の肩にかかった。

 そっと手に取り、もみじ姫は驚きの声を上げた。


「これは……桜の花びら?」

 

 空を舞う無数の花びらが夜空に煌き、まるでこの世を包み込むかのように世界を白く染めていく。

 驚き、顔を上げたもみじ姫の頭上では綺紅殿にたった一本だけ植わっている桜の古木がその太い枝に見事なまでの花を咲かせていた。

 花びらは全ての音を吸収し、全ての視界を遮り、そして、全ての動きを止めている。

 真っ白な花びらはまるで盾のように白刃の間に降り、もう止まることのないはずの太刀の勢いを消し、優しくその刀身に降り積もる。

 いつの間にか構えていた太刀は地面に落ち、二人は呆けたようにただただ摩訶不思議な事態を見つめた。

 柔らかな花びらは心の奥底に降り積もっていくかのように優しく、二人の肩にも降り積もり、地に落ちた太刀も白く埋めていく。

 何故だろう―。

 訳も分らず、ただ無性に泣き出したい気持ちに駆られ、春香は自分の目を拭った。

 その側では紫苑が呆けたようにぼんやりと花の舞を見つめていた。

 太刀が地面に落ちたことさえ気付かず、溢れる涙をそのままにただただ白い花びらを視線をさ迷わせている。

 その表情は先ほどの修羅とは打って変わって、まるで己の過ちに気付き悔恨の念に苛まれる阿修羅のようで、痛切な心の叫びが春香の耳にまで届いてきそうなほどだった。


「春香君~!」

 白い花びらで埋め尽くされた空間を懸命に春香を探しながら、もみじ姫は視線を漂わせていた。

 白き花びらの間に間に春香を見つけるとそこに花が咲き誇ったかのように満面の笑みを浮かべる。

「春香君!」

「もみじ!」

 どちらともなく、抱きしめあう。

 凍てついた長い夜の所為で体は冷え切っているはずなのに、抱きしめあった部分は痛いほどに熱い。

 花びらの入り込む隙間もなく、二人はお互いの存在を確かめあうかのように抱きしめ合う。

「春香君が無事で……ほんとよかっ…。わたし、どうしようかと……。」

 春香の小さな肩に頭を預け、もみじ姫は堰を切ったように溢れた感情を必死で押さえようとしていた。

 自分よりも拳ひとつ小さな頭を大きく反らせ、一生懸命に自分を支えようとしてくれる春香の姿に自然と溢れる涙が増す。

「もみじ……。」

 春香はもみじ姫の髪にかかった花びらを軽く払いのけた。

 しかし後から後から降り続ける花の前では無意味な行為だったが、その温かな手にもみじ姫はそっと顔を上げた。

 もみじ姫の視線が春香を捉えると春香はにこりと微笑み、まるで内緒ごとを話すかのように手招きをした。

 不思議そうにもみじ姫がそっと身を屈めた時、春香は一気に背伸びをし、もみじ姫の頬を両手で包んだ。

「あっ。」

 もみじ姫の声は春香の熱い唇で塞がれ、それ以上は何も言えなくなってしまった。

 触れ合う唇は蕩けるほど柔らかくて、まるで降りしきる花びらのように優しかった。


 そっと唇を離し、もみじ姫がゆっくりと瞳を開けた時、花びらは姿を消し、空にはただ満開に咲く月華があるのみ。

 風のない、普通の夜だった。

 でも夢でも見間違えでもないと確信できるのは、足元を埋め尽くす無数の花びらと今も古木に煌々と咲き誇る桜が穏やかに二人を見下ろしているから。


「あの花は一体なんだったのかしら?まだ冬なのに桜が……いえ、あの木に花が咲くことがあるなんて。」

 春香の熱が移った唇にそっと手を添えながら、もみじ姫は不思議そうに首を傾げた。

「ずっともみじを見守ってくれていたんだね。」

 春香は訳知り顔でふっと笑みをこぼしたが、もみじ姫はきょとんとするばかり。

「それ、どういう意味?」

「内緒!ふふっ。そんな顔しないで。きっともみじも心の中では分って……。」

 春香は何かに気付いたかのように言葉を切り、遠くに耳を傾けた。

 不思議そうに春香を見つめていたもみじ姫の耳にも届いたのか、もみじ姫は弾かれたように綺紅殿の南の簀の間を振り返った。

 駆けてくる足音に普段の優雅さは微塵も感じないが、もみじ姫を呼ぶあの声は聞き覚えのある綾乃のもの。

「綾乃!」

 もみじ姫は息せき切った勢いで叫んだ時、今まで白い花びらに心を奪われ、まるで凍ったかのようにその動きを止めていた紫苑がはたと意識を取り戻した。

 降り積もった花びらがばさりと落ち、紫苑はふらふらっと二、三歩前に進んだが、近付いてくるであろう綾乃に気付いたのかがばりと顔を上げた。

 その狼狽した顔がもみじ姫の視線と重なる。

「あの…。」

 もみじ姫が声をかけようとした時、紫苑は弾かれたように身を屈め、地面に埋もれた太刀を拾い上げた。

 躍起になったように太刀を横に一振りする。

 もみじ姫の寸でのところを掠めていったが、それでも風を薙ぐ音にもみじ姫は体をびくりとさせた。

「くっ。なんでこんなことに……。」

 絞り出た独白は苦しげで、切られそうになったことも忘れ、もみじ姫はなんと声をかけようかと戸惑った。

 そんなもみじ姫の視線から逃れたいのか、紫苑はさらに太刀を振り上げようと手を上げた。

 春香が素早くもみじ姫を後ろに押しのけ、自分の太刀を拾おうと身を屈めた。

 が、それよりも早く紫苑の背を目掛けて何か大きなものが飛んできた。

 鈍い音を立て、彼の背にあったのは鉄製の香炉、その後続けざまに文鎮だの脇息だのと痛そうなものが飛んでくる。

「もみじ姫から離れなさい!」

 綺紅殿の高欄に足をかけ、火桶を両手で持ち上げこちらを狙っている綾乃が大きく叫んだ。

「今、帥の宮邸の私兵がこちらのお屋敷を囲んでいるわ。観念することね。私のもみじ姫には指一本触れさせないわ!!」

 綾乃の存在に気を取られた紫苑が視線を逸らせた隙に、春香は素早く太刀を拾うと勢いよく紫苑の太刀を払い落とした。

 キンーっと空気に響く金属音を立て、紫苑の太刀は大きく夜空に弧を描き、そして花びらの敷き詰められた地面にすとっと突き刺さる。

「そこまでだ。一の宮。」

 はっと顔を上げた紫苑の鼻先に春香は太刀の切っ先を向けた。

「大人しくこちらの指示に従え。お前の罪は全て上に上げ、二度と馬鹿な真似をしないよう白日の下に曝す。」

「くそっ!」

 忌々しげに顔を歪めた紫苑だったが、目の前に刃先があるにも構わず、一歩踏み出した。

 春香は紫苑の行動に驚いたが、太刀を下げることなく前へ突き出した。

 鋭い刃先が紫苑の白い頬に真っ赤な線を書いたが、紫苑は気にすることなく、更に歩を進める。

 切っ先から逃れるように身を翻すと後ろ手で春香の顔を叩き、そのまま後ろを振り返ることなく北の方へと駆け出した。

「待て!」

 春香は殴られた左頬を擦ると紫苑を追おうと駆け出そうしたが、すでに紫苑は綺紅殿を抜け、その先に姿を消していた。

「くそ!」

 腹立たしげに顔を歪めた春香の肩をもみじ姫がそっと抱きしめた。

「春香君、もう無理しないで。紫苑君が傷つくと春香君も辛そうだから。もう無理しなくていいんだよ。」

 優しく抱きしめ、自分の背中を撫でるもみじ姫の手は柔らかく、自分の心に隠した弱い部分まで抱きしめてくれているような安堵が春香の中に広がった。

「もみじ、ありがとう。」

 小さく呟いた声に反応して、もみじ姫は顔を上げた。

「わたしこそありがとうよ。助けてくれて。ここに来てくれて。それから……そう、出会ってくれて。春香君が助けに来てくれる前、紫苑君に殺されちゃうって時に思ったの。春香君と別れるのはつらい。でも、それ以上に出会えてよかったって。」

 にこっと優しく微笑むともみじ姫はもう一度春香の耳元でありがとう、と囁いた。

「それは、俺の科白だよ。もみじがいなかったら、あれは俺だったのかもしれない。ただ地位に固執した哀れな人間だったかも…。」

 そう言いながら春香は紫苑が消えていった方を見やった。



 はぁはぁと息を切らせながら、内大臣家の庭の茂みを駆けていた紫苑は後ろを振り返り、誰も追ってきていないことを確認すると、小さく息を吐いた。

「何で、何でこんなことに。それよりも早く逃げなきゃ。」

 全ての希望を失った紫苑はただ、何かに脅えるかのようにしきりに後ろを振り返りながら、自分の退路を探した。

 いつも侵入を試みていた綺紅殿の築地の割れ目は春香の目があるから使うことができない。

「くそっ!なんであいつばかり全てを手に入れるんだ。何で……。」

 退路を探し、ガサリと木々を掻き分けた時だった。

「その香り、私の愛しい人の香りをさせているなんて、ほうってはおけませんね。」

 柔らかな声が聞こえた。

 驚いて身を竦ませた紫苑は視線をさ迷わせるが、その姿は見えない。

「だ、誰だ!」

「ふふっ。」

 せせら笑うような声はすぐ近くで聞こえた。

 はっと気付いたように紫苑がそちらに視線を向けたのと梔子の宮がパチリと扇を閉じるのは同時だった。

 紫苑が梔子の宮の存在に気付き、身を翻そうとした時にはすでに梔子の宮の腕の中に囚われていた。

「ああ、こんなに簡単に抱きしめられたらどれだけいいんでしょうね。」

「な、なにを。」

「ただの願望ですよ。さて騒がれては困ります。少し眠っていてくださいね。」

「ふざけるな!離せ!!」

 梔子の宮の腕の中で紫苑は必死にもがくが、どうあがいてもその束縛は解けない。

「くそ……あっ。」

 一度大きく身を返そうとしたが、その前に紫苑は目が霞んでいくのを感じた。

「私は春香君と違って乱暴なことは向いてないんだ。ふふっ。今日の香はね、特別なんだ。配合を少しいじってみた。」

「香だって、そんなものは何も……。」

 朦朧とした意識の中で紫苑は梔子の宮を睨んだ。

「そうだね。芳醇で高潔、素敵な香の香りに身を包まれていなかったら、あるいは気付いたかもしれないね。でももう遅い。」

 だらんと自分の腕によりかかった紫苑を抱きかかえると梔子の宮はにやりと微笑んだ。

「お休み。いい夢を。」

 

 

 



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