第51章 激突
「春香君!!」
祈るように閉じていた瞳は今、一番会いたかった人の姿を映し出していた。
驚きと喜びが溢れ、もみじ姫は声を上擦らせて、かの人を見つめる。
大きな馬の背に乗り、もみじ姫目掛けて一直線に駆けて来るその姿は、小さな少年ではなかった。
突風のごとく、勢いに乗った春香は手綱を緩めることなく紫苑目掛けて突き進む。
いきなり現れた春香に戸惑い、身を硬くしていた紫苑だが、馬ごと自分に突っ込もうとする春香の意図を察し、どちらにで避けれるよう身を低くし、迎え撃つ姿勢をとった。
「やはりお前か!!三の宮!」
激昂した紫苑は今までの優雅さなど殴り捨て、ただただ憎らしい敵を睨みつけた。
彼が憧れてやまない地位にいる、異母弟――。
「うおおぉぉ~!!」
紫苑との距離があと僅かと差し迫った瞬間、春香は大きく身を躍らせて馬から飛び降りた。
馬の勢いが余りに速かった所為か、春香はうまく着地できずに身を小さくしてぬかるんだ地面を転がった。
やっと地面から春香が顔を上げたときには馬はもう紫苑の目の前。
手綱の束縛から解放された馬は勢いをそのままに紫苑目掛けて突っ込んで行く。
風を切り、衝撃の塊と化した馬を前に紫苑は顔を歪めた。
「くっ!」
喉を鳴らすと綺紅殿の方に転がるようにして、身を捌いた。
馬は勢いを衰えさすことなく、紫苑が立っていた場所を駆け抜けていく。
「もみじ!」
春香は目の前で駆けていく馬に呆然としているもみじ姫の元に駆け寄る。
気持ちばかりが先走り、足がうまく進まずに春香はやきもきとした。
冷たい夜気に負けぬほど熱く火照った体から蒸気が上る。
春香はもう一度大きく叫んだ。
「もみじ!」
そして、まるでその存在を確かめるかのようにもみじ姫を抱きしめる。
小さな体で、もみじ姫の全てを包み込もうとするかのように、さらに力を入れる。
「もみじ、もみじ、もみじ……。」
「春香君……。」
自分の名前を呼ぶその姿がさっきまでの力強い男性とは違い、どこか弱々しげに見え、もみじ姫はいとおしげに春香を頭を撫でた。
「もみじの名前を呼んでないと気がおかしくなりそうだ。ここに来るまでの間、ずっと手が震えてた。」
「わたしは無事よ。春香君が来てくれたから。」
先ほどまでの恐怖心もどこへやら、春香の顔を見ると張り詰めていた緊張の糸が切れ、もみじ姫はふにゃりと微笑んだ。
その場違いなほどに和んだ空気をかもし出すもみじ姫に春香は思わず頬を緩ませた。
「やっぱりもみじは最強だね。その笑顔を見ると何でも出来そうな気がする。」
二人は顔を見合わせると柔らかく笑いあった。
「余裕じゃないか。三の宮。」
腹の底から絞り出したかのような苦しげな声に二人ははっとそちらに顔を向けた。
泥と血で汚れた顔を拭い、ふらりと立ち上がった紫苑の顔は月影に照らされ、その面影を変えていた。
爆走した馬を避ける際に頭を負傷したのか、額から流れる血はまるで涙のようで、修羅の道でもがき苦しんでいるかのように見える。
余裕のないその姿が、何をしでかすか分らない危険を内包してみせる。
春香は紫苑からもみじ姫を守るように一歩前に出た。
「一の宮、何故、もみじにこだわる?」
久々の再会を果たした兄に向かい、春香は叫んだ。
内心複雑な思いを抱えつつ、しかしもみじ姫に手を出す輩をこのままにしておくことはできない。
「何故だと?俺から東宮の位を奪ったお前に何が分る。お前をその地位から引きずり下すには、右大臣家に増す権力が必要だ。」
「後ろ盾を得るなら別に内大臣家でなくてもいいはずだ。それにもみじじゃなくても、ここには別の姫いるのに……。」
きっと紫苑を睨みつける春香の背でもみじ姫ははらはらとその様子を見守っていた。
自分より体の大きな紫苑に対して、対等に戦いを挑むようにして春香は身構えている。
「馬鹿だね。一度その場を退いた者は、その時よりも更に強力な権力を示さなければ認められないんだよ。あの出来の悪い大納言は当てにはできない。内大臣家の権力ともみじ姫、貴女の母親の身分、それが揃えばいつでも立場を覆すことが出来る。」
「お母様の身分?」
紫苑の言葉にもみじ姫は不思議そうに首を傾げた。
母親は天皇家の血筋を受ける人だが、そのような身分の人間は他にもいるはず。
紫苑がもみじ姫の母にこだわり、もみじ姫を自分のものにしようとしている理由が分らなかった。
「もみじ姫、貴女の母上は先の時代で栄華を極めた帝の唯一の血筋なんだ。今の天皇家はその血筋から離れた別の帝のものだ。貴族の中では今でもあの黄金の時代に憧れを抱くものもいるよ。だから貴女が必要なんだ。」
くくっと喉を鳴らして笑う紫苑はまるで別人のように恐ろしく、そして悲しいほど痛々しくもみじ姫の目に映った。
「でも、血筋は一つになったでしょ?お姉様が今上のお妃になったのよ。」
「そうだね。でもまだ二人の間には姫宮しかいない。この好機を逃す訳にはいかない。俺が次の帝になる。俺はずっとそう言われて育ってきたんだ。」
一歩、大きく踏み出した紫苑の言葉に自分とは相容れない環境で生きてきた紫苑の苦しみを感じた。
ずっと期待を抱かれ、でもそれに報いることのできないことの苦しさはいかほどの物なのだろうか。
じっと紫苑の独白に耳を傾けていた春香がポツリと呟いた。
「分るよ。俺も同じように言われて育ったから。母親に東宮にならなければ生んだ意味がないと幼い頃から言われてきたから。」
「春香君?」
俯く春香を気遣うようにもみじ姫はそっと其の肩に手を置いた。
その温もりに春香は同じように自分の手を重ね、すっと前を見据える。
「お前の辛さは誰よりも分る。でも、お前とその傷を舐めあうつもりはない。東宮に返り咲くためにもみじを利用しようとしたこと、万死に値する。」
正面から紫苑を見据えた春香はその腰に差していた太刀に手をかけた。
春香の身長では扱うのは難しい長さだが、そんなことを感じさせることもなく堂々と鞘から刀身を抜く。
「位を追われた俺の苦しみがお前に分るか!」
春香の言葉に紫苑は絶叫で答えた。
同じく、どこかに隠していた太刀を手に取ると鞘を投げ捨てるように抜き取った。
太刀を振り上げ、紫苑は自らもぶつかりにいかんという勢いで春香ともみじ姫目掛けて走り出す。
春香も紫苑を迎え撃たんと身を屈めた。
「は、春香君、危ないわ。春香君じゃ……。」
もみじ姫は自分の前に立つ勇ましい姿に心打たれながらも心配で仕方なかった。
体も力も紫苑の方が上。
その紫苑が全力でかかってくれば、よしんば春香が太刀を止めることが出来ても吹き飛ばされてしまう。
「もみじ、下がって。俺はもみじを守るって約束したんだ。だから、どんなことがあっても逃げない。」
何かに誓うように前を見据えたまま春香は呟いた。
「春香君?」
約束の意味が分からず、戸惑うもみじ姫を僅かに振り返り、春香は目を細めた。
「もみじを守れるようになりたくて、今までずっと努力してきた。あの約束が俺の生きる目標だったんだ。」
これだけは今伝えときたくて、と照れ笑いのように言うと春香は、すっと視線を戻し険しい表情を浮かべた。
紫苑はもう目の前まで駆けてきている。
お互いが互いの姿しか見ていない。
もう二人を止めることは出来ないのか。
もみじ姫はただ手を組み合わせ、祈った。
どちらが傷ついても、どちらとも心に傷を負うのではないか。
こんなやり取りが本当に必要なのだろうか……。
―誰でもいい。この二人を争わせないでください。
もみじ姫の視界が涙で滲む。
祈ってもけして止まることのない時間の流れは気が遠くなるほどに遅く、しかし、確実に紫苑と春香の距離を縮めている。
「うおおお~。」
獣の咆哮のような声をあげ、天高く振り上げられた太刀が風を切り振り下ろされる。
迎える春香は更に腰を落とし、下から掬い上げるように空を薙いだ。
月下に白刃が煌き、静寂の雪の間に緊張が走る。
もみじ姫の目から一筋の涙が零れた。
鈍く月光を照り返す刀身が触れ合おうと空中に火花を飛ばした瞬間、その涙が地を打った。
そして―……。
世界は白く包まれた。