第50章 出会ってくれて、ありがとう
唇が触れ合いそうになった瞬間、もみじ姫は一気に顔を上に上げた。
がちっと鈍い音が響き、もみじ姫の額はじんじんと熱が篭ったかのように痛みが広がった。
あまりの痛みにもみじ姫の目にも涙が浮かんだが、相手も相当の痛手と想定外の姫の行動に度肝を抜かれたらしく、もみじ姫を拘束していた手を思わず離した。
「ど、どう?痛いでしょ?迫ってくる春香君から逃げる為に編み出した必殺技よ!」
もみじ姫はぜいぜいと肩で息をしながら、勝ち誇ったように紫苑に対してびしりと指を向ける。
くっと腹立たしげに喉を鳴らした紫苑は先ほどまでの気品が嘘のように、険悪な顔をもみじ姫に向けた。
もみじ姫の額がぶつかったであろう顎を摩りながら、じっと絡みつく視線を向けてくる。
「さすが一筋縄ではいかない人だ。しかし、おふざけはこれで終いにしていただきたいですね。そう、私が優しくしているうちに従った方が貴女の為ですよ?」
「い、嫌よ!紫苑君はまたわたしにく、口付けをするつもりでしょ?それは困るわ。だって、わたし、す、好きな人がいるんだもの!」
紫苑に言い返すも、好きな人という言葉に思わずもみじ姫は赤くなった。
春香以外の誰かに対してこのように好きだと公言するのは初めてで、色恋に慣れていないもみじ姫は思わず照れてしまう。
「あっ。思わず言っちゃった。なんか口にしたら恥ずかしいわ。綾乃や鈴虫、松虫より先に紫苑君に告白しちゃうなんて。」
そんな場ではないのに、顔全体を真っ赤にして、もごもごと照れ隠しをするが、そんなことを聞いてくれる相手ではない。
「好きな人?それは聞き捨てなりませんね。」
「別に捨てなくていいわよ。本当のことだもの。一緒に幸せになるって誓ったの。」
「貴女は東宮妃になる人ですよ?」
「その話なら、今度宮中まで断りに行く予定なの。わたしなんかより小君ちゃんの方が向いてると思うし。」
険悪な表情を向けてくる紫苑にふわりと笑顔で答えるもみじ姫。
そのあまりにあっけらかんとした態度に紫苑はくくっと喉を鳴らした。
「貴女は自由な方ですね。東宮に断りを入れるなんて誰も考えたりはしないでしょう。それどころか声がかかっただけでも喜びそうなものを。」
「幸せの形は人それぞれよ。……わたしもやっとそのことに気付いた。自分の心に嘘はついちゃダメなんだって。なんでも型に嵌めて、初めから自分には合わないって除外するのは、自分から幸せを諦めているのと同じだって。」
もみじ姫は屈託なく微笑んだ。
「ねえ、紫苑君は何にこだわっているの?何だか辛そうだもの。―ねえ、本当はわたしのことなんて好きじゃないんでしょ?」
「好きですよ?貴女が必要だ。」
強張った口調のまま、睨むように自分を見つめる紫苑にもみじ姫は悲しげに眉を寄せた。
まるで紫苑が泣いているかのようにもみじ姫の目に映ったのだ。
「嘘だよ。紫苑君の言葉はね、とても優しくて、柔らかくて、聞いていてとても心地いいわ。でもね、とても空虚なの。感情も情熱も感じない。」
それが激情をありのままに伝えてくる春香との徹底的な違い。
「わたしだけじゃなくて、自分にも嘘をついているかのよう。」
労しげに目を伏せ、もみじ姫は黙ってしまった紫苑の肩にそっと手を掛けた。
「自分に嘘を吐くのはしんどいよね?紫苑君、わたしじゃ貴方を助けてあげられないかな?その、大きなことは出来ないんだけどね、わたしは何も持ってないから、でも紫苑君の悩みを聞くことはできる。ねえ、知ってる?悩み事は人に聞いてもらうと段々小さく……。」
「うるさい!」
もみじ姫を払いのけるように紫苑は手で虚をなぎ払った。
その勢いに負けて、もみじ姫は簀に倒れこんだ。
「黙れ!俺の気も知らないで!勝手なことばかり……。あの時、内大臣がお前を東宮妃にすることを承諾していれば、俺は東宮の位を追われなくて済んだんだ。頼りのおじい様が死んだら、他のヤツらは急に掌を返して、あいつを奉りやがって。くそっ!東宮は俺のものなのに。」
絞り出された声が、聞いていて本当に辛そうで、もみじ姫はただただ紫苑を見つめるしかできなかった。
紫苑が必死に泣きそうなのを我慢している幼い子どものようにもみじ姫の目には映ったのだ。
紫苑の言葉の半分ももみじ姫は理解できていなかった。
昔、今の東宮の前に病弱を理由にその位を去った親王がいることは話の一つに聞いていたが、それが紫苑のことなのかなっとぼんやりと考えたぐらいで、まさかはるか昔にも自分の東宮妃問題が起こっていたなど、想像もできない。
幼いもみじ姫が宮中で貴族達の黒い欲望に巻き込まれることを父の内大臣が是としなかったのだと、その時内大臣にも多少の野望があり、もみじ姫を東宮妃として差し出していれば、今も東宮は紫苑であったのだとは思いもしない事実だった。
「だいたい、春香ってなんだよ。春の香り…まるで、あいつのことみたいじゃないか。」
ぼんやりとただ紫苑を見つめていたもみじ姫だが、さすがに紫苑の周りの空気が変わったことは気付いた。
「は、春香君は梔子の宮様の文使いの童よ。」
とりなすように答えたが、梔子の宮という言葉に紫苑はぴくりと反応した。
「梔子の宮?ああ、あの甘ったるい香りの帥の宮か。ははっ。あいつが暗躍してた訳だ。道理で貴女に会うのを色々と阻害されていると思ったよ。……ああ、そうか。だから帥の宮が出てくるのか。」
ゆらりと傾いた紫苑はそのまま高欄にもたれかかった。
「し、紫苑君?」
心配げに腰を上げたもみじ姫は、次の瞬間にぴたりとその動きを止めた。
まるで地獄の業火を灯したかのような、怒りに満ちた瞳がもみじ姫の動きを封じた。
その目は一切の祈りを聞き入れることを拒んだ修羅のように、ただ一点、もみじ姫を見つめている。
「……何が何でも離すものか。お前は俺のものだ。」
地の涙を流す修羅はあまりにも禍々しく、人は鬼にもなりえることができるのだともみじ姫は身をもって感じた。
―に、逃げなきゃ。
今の紫苑には何を言っても聞き入れてもらえない。
どれだけもみじ姫がぼんやりしていても、それは間違えようもない事実だった。
もみじ姫は意を決して紫苑に背を向け、簀を駆け抜けると階から庭に下りた。
雪で袴や袿が濡れるのも構わず、庭を走る。
「だ、誰か、助けて…。」
普段走りなれていないので、足が絡まり、もみじ姫は何度も雪と土で抜かるんだ地面に転倒した。
息が上がって、なかなか思うように声がでない。
少しでも紫苑から離れようとするが、紫苑はそんなもみじ姫をあざ笑うかのようにゆっくりと地面を踏みしめ、着実にもみじ姫の元へと近付いてくる。
「もっと、もっと遠くに逃げなきゃ!」
手足が強張って動かないのは、けして夜気に冷やされたからではない。
紫苑の怒りが空気を通して、刺すようにもみじ姫に伝わってくる。
「逃げても無駄だ。この屋敷は今、ほとんど人がいないんだ。小君にわがままを言わせて、全員を別宅に移した。もちろん中将や大輔、内大臣だって今宵はいない。君を助けてくれるものは何もないんだ。」
その言葉はもみじ姫の心に辛く突き刺さった。
希望を殺がれ、もみじ姫は足元の石に足を取られ、大きく転倒をした。
冷たい雪に包まれ、絶望はこんな風にやってくるのだと、ただただ紫苑を見つめるしかできない。
大きな月が静かに二人を見下ろして、雲もないのに、残り雪が夜陰に散っている。
殺されるかもしれないと覚悟を決めた瞬間、恐怖よりも勝る感情が胸の内をついて溢れてきた。
悲しいとか、痛いとか、そんなことではなく、もっと単純なこと。
でもそれはとても自分らしい思い。
「よかった。わたし、春香君を好きだって気付けて。」
ぽろりとその澄んだ瞳から涙が零れた。
きっとこれは悲しい涙なんかじゃなくて、うれし涙。
「ありがとう。わたしに出会ってくれて、わたし、とっても幸せだったよ。」
もみじ姫は涙を拭うことはせずに、そっとその場に立ち尽くし、祈るように手を重ねた。
じゃりっと雪と土でぬかるんだ地面を踏み鳴らし、紫苑の足音が近付いてくる。
その手に掴まればきっと自分はこの世にはいないだろう。
そう直感したもみじ姫は清らかな涙と共に小さく呟いた。
「さようなら。」
きんっと冷えた冬の気配にはっきりともみじ姫の清らかな思いがこだました。
その時――。
「このまま終わりになんかするかよ。」
はっきりと雪のまにまに響いたのは、雪の上を珠が転がったかのような瓏たけた声。
それと共に馬の嘶きが重なる。
「何奴!」
紫苑が振り向いた時、夜空に大きな影が浮かんでいた。
まるで宙を流れる流星のごとく、それは月下を駆ける。
そのままドスンと着地すると快活な蹄の音を響かせ、一頭の白馬が雪の中を突き進んできた。
その背には馬の体に対してあまりに小さな少年。
「もみじ~!!」
必死に叫ぶ声にもみじ姫は涙で滲んだ目を見開いた。
ずっと心の中で名前を呼んでいた人が夢から現れたかのようにそこにいる。
「春香君!!」