第48章 甘い悪意
時は僅かに戻り、空が夕闇に染まる頃。
内大臣邸では、末姫の小君が綺紅殿の簀の間で一人、赤く染まる庭の雪を見つめていた。
「何よ。皆してもみじ、もみじってさ、だいたい、東宮妃には私がなるはずだったのに。なんで中の君が!」
小さなな独り言には留まらず、庭の木々に被さった雪がパサリと落ちるほど、小君の鬱憤は口をついて出ていた。
年末から東宮妃問題でもみじ姫は兄の参議の屋敷に移ってしまい、文句を言ってやりたくても直接言うこともできず、ずっと悶々としていたのだ。
わがままな小君だが父母の前では大人しい出来た姫を演じているので、おおぴろげにもみじ姫を非難することもできない。
一番心許せるはずの同母兄の大輔も年始年末の行事や宴で屋敷にはほとんどおらず、結果、誰一人小君の愚痴のはけ口になる人がいなかった。
小君は知らず知らずのうちにもみじ姫の影を求めていたのか、普段足を運ばない綺紅殿まで来てしまっていた。
噂どおりの庭は冬でも美しく、山茶花の紅い花が燃えるように雪の間に浮かんで見える。
季節を考えて采配された庭に一本だけ場違いな大木が、まるで全てを守るようにじっと雪に耐えている。
赤い庭にたった一本だけ植わっている桜の古木。
雪を花がわりにして立つその姿は雄大で、まるで小君の話をじっと聞いているかのようだった。
大木に話しかけるように小君の口調は熱くなる。
「だいたい、なんで中の君なのよ。顔もぜんぜん可愛くないし、筝の琴だって弾けないし、歌だって上手に詠めないし……。」
本当は最近、驚くほどもみじ姫が美しくなったような気がするのだが、そんなこと絶対に小君は認めたくなかった。
歌や筝の琴、お香さえ、上達している気がする。
それはもみじ姫の側にあの春の香りの少年が現れてから。
今まで小君や撫子姫と一色単にされていたはずなのに、俄かに色づき、輝きを増したよう。
今までずっと変わらずにいたもみじ姫の変化に、まるで自分だけ置いていかれたような気にさせられ、小君は感情を抑えるように自分の袿を握り締めた。
「中の君ばかり、本当にずるい!何も出来ないのにいつも可愛がられて。私だって。」
雪解けの湿った冷気が小君の心も知らず、無情に駆け抜けていく。
溢れた感情が目頭を熱くした時、まるでその涙をそっと掬うように柔らな声がかかった。
「では、貴女が中の君の代わりをすればいいのでは?」
弾かれたように顔を上げた小君が見たのは、白く包まれた庭に立つ一人の少年。
雪に紛れるように白い衣を被って、じっとこちらを見つめている。
甘い香りが冬の風に乗って漂い、小君の心をくすぐる。
衣の下で形のよい、薄い唇がふわりと微笑んだ。
「失礼。愛らしい姫君のお気持ちを盗み聞きするつもりはなかったのですが……でも貴女の辛そうなお顔を見ていられなくて。」
まったく申し訳なさそうではない、淡々とした口調で青年は小君に話しかけた。
驚き、動けずにいる小君の元へ、一歩、また一歩と緩やかに歩を進め、少年は小君のすぐ側まで近付いた。
ゆっくりと顔を上げると、衣で隠れていた顔が顕わになる。
その端正な顔つきに小君は思わずため息を漏らした。
高欄に置かれた小君の手に、そっと自分の手を重ね、少年は蕩けるような甘い笑みを浮かべた。
「美しい方が悩んでらっしゃる姿は見ていてこちらも気が滅入ります。どうか顔を上げて。私めが貴女の心の靄を晴らしましょう。」
「あ、貴方は……。」
「残り雪が最後に見せる幻想とでも思って下さい。それともやっと訪れた春の化生とでも。」
まるで魔法にかかったかのように、夢見心地で少年を見つめる小君の手を強引に引くと、少年はその耳元で甘く囁いた。
「貴女がもみじ姫の代わりに東宮に会いに行けばいい。東宮は噂でしか女君のことは知らないのです。先に出会えば、貴女が本物のもみじ姫になる。そうすれば東宮は貴女以外の女君になど目を向けることもないでしょう。」
小君の体に衝撃が走った。
自分が望むことを理解してくれる存在に、膨れ上がった思いは小君の体を痺れさすように駆け抜ける。
そっと小君の顔をから離れると少年はねっと小首を傾げて見せた。
「貴女こそ東宮妃に相応しい。」
「どうして?私の為にそこまでしてくれるの?」
胸の高まりを抑えるように小君は自分の両手をぎゅっと胸の前で結ぶと、恐々と少年を見つめた。
「ふふっ。美しい方の望みを叶えたいと思うのは当たり前のことじゃないですか。」
そう言うと少年は小君に向かって、手を差し出した。
「私にも夢があります。淡い春の光に包まれる夢が。その夢を叶える為には貴女の存在が不可欠なのです。どうです?一緒に新しい季節の訪れを祝おうじゃありませんか。」
「新しい季節の訪れ……。」
差し出された手に小君はゆっくりと手を伸ばした。
「その季節になれば、皆が私を見てくれる?」
「ええ。もちろん。」
重なった手は熱く、それを包む冬の気配は春の訪れなど想像できないほどに凍てついていた。
桜の古木の方から身を凍らせるほどに冷たい突風が吹いたが、小君の心は揺るがなかった。
少年の甘い夢に魅せられ、もう戻れないところまで来てしまっていた。
少年は白い衣の下で僅かにほくそ笑んだ。
しかし、その表情を小君に気取られないように、上辺だけは甘い笑みを浮かべる。
「それにしても、もみじ姫の姿が見当たりませんね?どちらに?」
「中の君なら参議の兄上のところよ。ここは人の目もあるからって、人には知れないように雲隠れしてるわ。家司や女房達には宇治のお寺に行っていることになってるけどね。」
「なるほどね。宇治の寺より都の肉親の元の方が安全だ。」
納得だと言わんばかりに頷くと少年はくくっと喉を鳴らして笑った。
「では一度こちらに呼び戻していただけますか?手紙を書くのです。貴女からの手紙なら参議邸も納得して受け取る。」
「で、でも中の君は私の手紙で戻って来てくれるかしら?私、中の君には意地悪ばかりしてきたし…。」
「心配はいりません。もみじ姫は貴女のお姉様。妹の手紙で戻ってこない訳はありません。」
戸惑うように眉を寄せる小君を勇気付けるように少年は甘く微笑んで見せた。
「そ、そうかしら?」
「大丈夫。さあ、部屋に帰って今すぐもみじ姫に手紙を出すのです。今宵、月が空の真上に上る頃、ここ、綺紅殿でお待ちしますと。どうしても姉である貴女にだけ相談したいことがあると。」
「わ、分ったわ。」
小君はごくりと唾を飲んだ。
もう後戻りはできないと自分に言い聞かせるように厳かに頷く。
「ああ、それとこれだけは忘れないで。誰にも秘密だってね。」
そう言うと少年は小君に部屋に戻るように促した。
魔法にかかったようにふらふらと綺紅殿を後にする小君の背を満足げに見つめながら、少年はポツリと呟いた。
「そう。新しい春の訪れには君が必要なんだ。何事にも犠牲はつき物。今だけ甘い夢を見させてあげるんだ。大いに役立ってもらうよ、小君。東宮妃の位は君じゃダメなんだ。栄華の桜と褒め称えられた帝の血を引くもみじ姫でなくては。内大臣の寵愛深いもみじ姫でなくては俺の相手は務まらないんだよ。」
少年はどこか切なげに、苦しげに眉を寄せ、いつまでも小君の消えた辺りを見つめていた。
絞り出されるように少年の喉をついて出た声は、長い間の辛酸を思わせるほどに苦悩に満ちていた。
「やっと望みが果たされる。春はもうすぐだ。ねえ、母上。貴女の望んだ未来はすぐそこにありますよ。」
雪を吹き散らすかのように、冷たい風が少年の被った衣を揺らし駆け抜けていった。
そして――。
日も落ち、暗く闇に染まった参議邸。
等間隔で置かれたかがり火の爆ぜる音が響く以外には静まり返った簀の間を撫子姫は楚々と袴を裁きつつも、普段の優雅さなど微塵もなく足早に進んでいた。
側に女房などはおかず、一人、何か逸る気持ちを抑えているかのようだった。
「内裏にうまくもみじ姫をもぐりこませる手はずを整える為とはいえ、側を離れたのはまずかったか?他の女房は何も変わりないとは言っていたが、どこまで信じられるか……。」
喉の奥から後悔と共に吐き出された言葉を驚くほどに低く、表情も今までの撫子姫とは打って変わって、険しく歪んでいた。
「小君からの手紙が届いたと言うのも気にかかる。あの小君がもみじ姫に手紙を出すだろうか。もし出したとしても、それを理由にもみじ姫が人払いなどするだろうか。」
参議邸でもみじ姫付きの女房をしていた者の話では、日が暮れてから届いた小君の手紙を見て、もみじ姫は神妙な顔をし、少し考え事をしたいから一人にして欲しいと言ったのだとか。
「くっそ。やっぱり側を離れるんじゃなかった。参議邸だからと安心してた。」
自分に対して悪態を吐きながら、撫子姫はもみじ姫に与えられた西の対の御簾を乱暴に開けた。
薄暗い室内には人影はなく、しんっと静まり返り、月影の侵入を受けるばかり。
もみじ姫を探すように、撫子姫は乱暴に部屋の中を見て回った。
しかしどこにももみじ姫の姿はなく、香りさえ漂ってこない。
時間だけが経ち、撫子姫の焦りは増すばかり。
くっと喉を鳴らした撫子姫はふと視線を下に落とした。
もみじ姫が使っている文机の側に一枚の紙が落ちている。
弾かれるようにそれを拾い上げた撫子姫の表情は見る間に凍りついた。
そして次の瞬間、撫子姫は西の対を飛び出していた。
もう、その顔は優雅で気品に満ちた撫子姫のものではなかった。
鋭い眼差しをした猟犬のよう、目指す場所へと走り出していく。
「無事でいろよ。もみじ姫!あんたがいなきゃ、あいつに合わせる顔がないんだよ!」