第46章 離れた人を思い
「もっみじ様?あら?どうなさいました?」
軽やかに御簾を押して入ってきた撫子姫は意味もなく慌てているもみじ姫を不思議そうに見つめた。
「い、いいえ!なんでもないの!本当よ?」
「何だか怪しいですわ。素敵な殿方でもいらっしゃったのではありませんこと?白馬に乗った王子様!みたいな!」
からかうように目を細める撫子姫にもみじ姫の動揺は最高潮。
顔から火が出るかと思うほどに真っ赤になって、両手をバタつかせる。
「そ、そんなことある訳、ないでしょ!」
「そんなに慌てていると更に怪しい。」
いつもは奥ゆかしい撫子姫だが、今日はいつもと違い、楽しげにもみじ姫をからかっている。
「違うもん!そんなんじゃないもん!!」
幼児のように力いっぱい否定するもみじ姫がつぼに入ったのは、撫子姫は口元を袖口で押さえて笑いをかみ殺した。
「ふふっ。失礼しましたわ。もみじ様があまりにお可愛らしく反応なさるから、思わず調子に乗ってしまって。」
まだ収まらない笑いをそのままに、撫子姫はもみじ姫の側に腰掛けた。
まだ真っ赤な顔のもみじ姫の頬にそっと手を添えると艶やかな笑みを浮かべた。
「朗報でございますわ、もみじ様。」
「何?」
「後宮に行く手はずが整いましてよ。一緒に東宮様に会いに行きましょう!」
「まあ、姫様。大変お上手でございますわ!」
三条堀川の大納言邸――。
その西の対では、大納言の一人娘がお付の女房、藤波こと綾乃から筝の琴を習っていた。
たどたどしくも愛らしく筝の琴を弾く姫君に綾乃はこれでもかと大層な身振りで褒め称えた。
多少の誇張は認めるが、しかし幼いなりにこの姫の筝の琴は様になっている。
「指使いが大変お上手になりましたわ。もう少し難しい曲に挑戦してみましょうか?」
聡明な面差しの綾乃ににこりと微笑まれ、姫君は恥ずかしげに頬を染めた。
「あ、ありがとうございます。わたくし、とても嬉しいですわ。さすらいの愛の伝道士様。」
まさかその通り名で呼ばれるとは……。
姫君の言葉に綾乃は危うくこけかけた。
しかし、未だ憧れの眼差しを向けてくる姫君を前に何とか表情を引き締め、当たり障りのない微笑を浮かべる。
「姫様、その呼び方、何とかなりませんか?」
「呼び方?さすらいの愛の伝道士様ではお嫌ですか?嵐を呼ぶ家庭教師様の方がしっくりきますか?」
真剣な表情で自分を見つめてくる姫君に綾乃は顔を引きつらせながらも微笑を維持する努力をした。
「あ……藤波と、お呼びいただければと。名前で呼んで下さった方がより親しくなったように思いますから。」
「よろしいの?」
目をきらきらと輝かせる姫君には内心痛むものを感じつつ、とっておきの笑顔を浮かべた。
「もちろんですわ!遠慮なさらないで!おほほほっ!!」
「で、では藤波様……。」
恥ずかしげにしながら、姫君は上目使いに綾乃を見上げた。
才色兼備の言葉をそのまま形にしたような綾乃に、姫君は尊敬の念を抱かずにはいられないらしく、どうしても綾乃の顔色を窺ってしまう。
そんな愛らしい姫君にほだされつつも、複雑な心持の綾乃は優しく姫君の髪を撫でた。
「様、なんてつけなくてよろしいのですよ。私は姫様の女房なのですから。ただ藤波と呼んで下さい。」
「あの、前にお仕えされていた姫君も藤波様のことを呼び捨てにされていたの?」
顔色を窺うように覗き込まれ、綾乃はどきりとした。
まったく面影の違う姫君がもみじ姫のように見えたのだ。
―これぐらいで動揺してどうするの?なんのために、綾乃の名を捨てたのか…。
揺らぐ心を一笑し、綾乃は僅かに被りを振った。
返事のない綾乃に幼い姫君は心配げに眉を寄せている。
綾乃の複雑な表情を捉えかねて、言葉をかけれずにいる姫君に綾乃は何でもないとばかりに手を振ってみせた。
そしてこの話はおしまいとだとばかりに部屋の外に目を向けてみる。
大納言邸も大貴族らしく、中庭には大きな池があり、豪奢に飾り付けられている。
「ん?」
視界の端に引っかかった違和感に綾乃は眉を潜めた。
美しい庭の一部になって見過ごしていたが、池の中島に人影を見たような気がしたのだ。
僅かに腰を上げて、御簾越しにもう一度池に顔を向けてみた。
遠くて、逆光になっていて顔は分からないが、幼い少年のような人影がこちらを背にして立っている。
「あれは……。」
綾乃は吸い寄せられるように立ち上がり、その人物を食い入るように見つめた。
濡れたような黒髪を二つにまとめた、みずら髪姿の少年は淡い藤色の狩衣に細いその身を包んでいた。
「御君様、ですわ。」
いつの間に綾乃の側に来たのか、姫君も同じように御簾の向こうに佇む少年を見つめながら、一人言のように呟いた。
「おんきみさま?」
「はい。私の従兄妹君に当たる方で、一度は東宮の位に就かれたこともあるそうですわ。でも、病弱でいらっしゃって、ご自分の命の儚さを憂いて他のご兄弟に位をお譲りになったそうですわ。」
御簾の向こうをじっと見つめる姫君の頬が僅かに染まって見える。
熱に犯されているかのように潤んだ瞳に、姫君の御君に向けられる特別な思いを感じながら、綾乃は何も言わずに先を促した。
姫君の言葉で語られる御君は彼女の中の真実だが、現実はそんなに甘くない。
病弱を憂いて位を譲ったというのは建前で、当時の権力争いに負けて譲らされたというのが真相だろう。
「とてもお優しくていらっしゃるの。でも、あまり面には出てこられないので少ししかお会いできないのですけど…。だからこうしてお外にいらっしゃるのは本当に珍しい。そっとお見かけできるだけでも幸運ですわ。」
自分のことを話すかのように嬉しげに頬を緩める姫君は目映いほど愛らしい。
綾乃の存在など忘れて、まるで自分に語りかけているように見える。
「でも、あの方の隣で笑いあえる日が来るはずなの。だからそれまでに頑張って筝の琴を学ばなくてはいけないの。」
「……それは……」
『それはよい目標ですね』、藤波はそう言葉をかけようとした。
娘を東宮妃にしたいというあの父親の元ではけして叶わない夢だが、その強く輝く眼差しを見つめるとその夢がずっと続いて欲しいの願ってしまう。
夢の終わりが永遠に来ないことを祈りつつ、言葉を紡ごうとした綾乃の言葉を切るように姫君は綾乃を仰ぎ見た。
「夢じゃないわ。いつかきっと、でもない。もうすぐその日は来るの。」
自信に満ちた言葉に綾乃は戸惑った。
「精悍にお育ちになって、もうご病気に負けたりなさいませんわ。東宮の位に戻られる日も近い。」
ねっと愛らしいく笑いかけてくる姫君の言葉に綾乃は衝撃を受けた。
姫君にとっては美談だが、これは紛れもなく現東宮に対する謀反だ。
幼い姫君一人の夢物語として済ますにはあまりに現実味がありすぎる。
―これが大納言の野望……。
どちらに転んでも我が家は大丈夫、そう言った大納言の言葉の意味は御君の存在にあったのか。
彼はこちらの思惑など知りもせず、じっと高い空を見つめている。
―これが、あの男が私をここに送り込んだ理由?
ごくりと綾乃を唾を飲み込む。
その瞬間、今まで背を向けていた御君が緩やかにこちらを振り向いた。
にやり―。
こちらの存在に気付いているのか、逆光の中、不穏に笑む御君に綾乃は嵐の到来を感じた。