第44章 ただ、貴方だけ
やっと実を結んだ恋の花。
その花の香りに酔うように、その花の姿に魅せられたように、二人はお互いを見詰め合った。
どのくらいそうしていたのだろうか。
ふと気付いたようにもみじ姫は春香の胸から身を起こし、首を傾げた。
「そう言えば、春香君。なんで私がここにいるって分ったの?」
「ふふっ。俺の情報網を甘く見たらいけないよ。ついでに侵入経路もばっちり確保してあるしね!」
意味ありげに微笑むと春香はもみじ姫にむけて、片目を瞑って見せた。
「侵入経路?」
「そう。童姿だからって、どこでも入れる訳じゃないからね。ちゃんと屋敷に入るつてを作っておかないと。」
「へぇ~色々大変なのね。」
春香のまめさに心から感心したようにもみじ姫は目を丸くする。
そしてはたと思い当たったように声を上げた。
「もしかしてうちの家にも侵入経路があったの?」
「当たり前じゃん。いくらもみじがのほほんとしてるからって、内大臣邸全体はそう甘くないよ。不審者だと思われたら子どもだって検非違使に突き出される。」
「そ、そうなんだ……。」
今更ながら、春香がどれほど苦労して自分に会いに来てくれていたかを知り、もみじ姫は単純に『春香君来ないかな~』とのほほんと思っていた自分の考えのなさに情けなくなった。
「ひどいことされなかった?」
心配げにもみじ姫は春香の頬に触れた。
その手の優しさに春香は軽く目を瞑り、そして意地悪く目を細めた。
「もみじ以外にはね」
「え?」
春香の科白の意図がつかめず、もみじ姫はきょとんと目をしばたいた。
「ひどいよね~もみじは。俺が好きだって言ってもいつもはぐらかすしさ。そういや突き飛ばされたこともあったよね?」
試すように、上目遣いに春香はもみじ姫の顔を覗きこむ。
「あ、あれはね…。その、悪気があったわけじゃなく…。」
しどろもどろになるもみじ姫に追い討ちをかけるように春香はわざとらしく涙ぐんで見せた。
「結構傷ついたんだよね。もみじに嫌われたと思うとさ~。」
「ご、ごめんね。あの、その、私、こういうのよく分からなくて…。で、でも春香君のこと大切なのはずっと変わらないから!」
もみじ姫はうつむく春香を必死に慰めようと春香の両手をぎゅっと握りしめてみた。
そのあまりに真剣な眼差しとうろたえぶりに、春香は思わず頬を緩めた。
いつだって変わらない、木漏れ日のような優しさがもどかしいほど愛おしい。
「な、なんで笑うの?」
「ごめん、ごめん。もみじがあまりに可愛かったから。」
にこっと極上の笑みを浮かべると春香はもみじ姫の頬をぺろりと舐めた。
「きゃあ!な、なにするの?」
「ん~と、味見かな?これからもっといろんなもみじを味わう前に、ちょっとだけ。今までさんざんお預けくらってたから。」
頬を押さえ、顔を真っ赤にするもみじ姫を春香は妖艶な目つきで見つめ、先ほどもみじ姫の頬を舐めた赤い舌を自分の唇に添わせた。
つないだもみじ姫の手を自分の頬に当て、出会ったころのように小悪魔な笑みを浮かべて、その赤い唇が囁く。
「思ってた以上に甘い。」
その色っぽい目つきがもみじ姫の心を更にかき乱し、鼓動が高鳴る。
「も、もう!ふざけないでよ!春香君!!」
精一杯の抵抗とばかりにもみ姫は自分の手を春香の優しい束縛から無理やり開放すると、一生懸命に眉を寄せてみた。
本人は怒っているつもりなのだが、怒りきれていない甘さがにじみ出た不思議な表情になっている。
「ぷっ!」
「なんで笑うのよ!」
「やっぱりもみじはもみじだよね。」
「ど、どういう意味?」
真っ赤な頬を膨らませ、愛らしい顔で怒るもみじ姫を歳相応の少年の顔に戻った春香は心からおかしそうに笑った。
意外につぼに入ったらしく、いつまで経っても笑い続ける春香に流石のもみじ姫も気分を害したように口を窄めて、すねたように春香を見据えた。
「そろそろ笑い終わってもいいんじゃないかしら?」
その言葉に春香は目尻に浮かんだ涙を拭い、そして柔らかな表情でもみじ姫に向けた。
「よかった。」
「へ?」
春香の言葉の意味を図りかねて、もみじ姫はじっと春香を見つめた。
そのもみじ姫の手を優しく握りながら、春香はもう一度よかった、と呟いた。
「もっと落ち込んでるのかと思ってたから。」
「落ち込んでるって……。」
その言葉を切欠にもみじ姫は今まで自分が悩んでいたことを思い出した。
春香に会うまでずっと心を捉われていた悩みを今の今まで忘れていたなんて。
その驚きに言葉を失いそうになる。
春香に伝えようと思っていたことは他にもたくさんあったはずなのに。
出会ってしまった瞬間に全てが吹き飛んでしまった。
―綾乃のこと、忘れてたなんて。
大切な人のことを一瞬でも忘れていた自分が情けないやら、春香への思いの大きさに自分でも驚くやらで、もみじ姫は恥ずかしげに頬を染めた。
「……春香君。」
「何?」
「春香君って、本当にすごい。ずっと悩んでばかりだった私の心を一瞬で春香君で全て埋め尽くしてしまうんだもの。」
「ふふっ。当たり前だよ。言ったでしょ?俺のことしか考えられないようにするって。」
もう一度強くもみじ姫の手を握りしめると春香はその手に軽く口付けをした。
「大変だったね、もみじ。」
「……うん。」
「でももう一人で悩まないで。俺はもみじをどんな苦悩からも護りたいから。」
「うん……。」
そっとお互いの額を当て、祈るように向き合う。
さわりさわりと緩やかに流れる早春の風が二人の髪を優しく撫でていく。
心に沁みる春香の声にもみじ姫は自分の心が穏やかになっていくのを感じた。
「春香君、ありがとう。」
潤んだ瞳を春香に向けると、春香はにこっと優しく微笑んだ。
「だって事が事だからね。さすがに見てみぬ振りできないでしょ?」
「へ?」
春香の言葉にもみじ姫はぽかんとした。
「それとももみじは東宮様と結婚したかった?」
「あっ!」
「あって、何?もしかして忘れてた?」
驚いたように目を見開いた春香にもみじ姫はそんな問題も残っていたんだとばかりに手を打った。
「忘れてた。春香君に会えたし、後は綾乃を探すだけだと思ってた。」
世間の一番の注目を集めている事柄なのに、渦中の人の中では一番重要度の低い案件になっていることが春香は何故だか嬉しかった。
「綾乃お姉さんのことも心配だろうけど、もみじにとって東宮様との結婚話の方が重大だと思うけど?」
「いいのよ。頑張って断るから。」
屈託のない笑みでさらりとトンでもないことを言ってのけるもみじに流石の春香も笑顔を強張らせた。
「いやいや、皇族の言葉は絶対だよ?もみじに決定権はない。」
「で、でも撫子ちゃんは見てから断っても遅くないって。」
戸惑うように春香を見つめるもみじ姫は今までの幸せな表情から一遍、暗く曇った。
「もみじが本当のことを知るまで、猶予期間をくれたんじゃないの?」
「猶予……。」
落ち込むもみじ姫とは対照的に春香は嬉しくて仕方ないとばかりに頬を緩ませている。
「春香君、なんでそんなに嬉しそうなの?」
「だって、もみじは誰もがうらやむ東宮妃の立場よりも俺の側を選んでくれたんだろ?」
その言葉に思わずもみじ姫の顔が真っ赤染まった。
春香は益々頬を揺るまし、愛しげにもみじ姫の髪を撫でた。
そして、何か楽しい企み事を思いついたとばかりに、いきいきを目を輝かせる。
「ねえ、もみじ。このまま二人で駆け落ちしようか?」