第43章 愛しています
「私が選ぶ番?」
一人残った廂の間でもみじ姫は先ほどの撫子姫の言葉を呟いてみた。
もみじ姫には思いも寄らない撫子姫の言葉が新鮮な輝きを放ち、もみじ姫に新たな道を指し示した。
いきなりのことに驚くもみじ姫の返答を待たず、撫子姫はなにやら宮中に当てがあると言って、自室として与えられている西北の対に戻ってしまった。
一人残されたもみじ姫はすることもなく、ただ廂から庭を見つめるが、しかしその心は先ほどとは打って変わって穏やかだった。
宮中が楽しみな訳ではない。
ただ、何かに一縷の望みを託したかったのかもしれない。
「もしかしたら、綾乃は宮中にいるかもしれない。それに東宮様だって実物の私を見て、やっぱり小君ちゃんの方がいいって思うはず。」
自分に言い聞かせるようにもみじ姫は頷く。
「宮中にはお姉様もいるし、お姉様の姫宮ももう六つ。久しく会っていないわ。宮中といえば、お姉様の女房でとても面白い物語をお書きになった方にも会ってみたいし、それに。」
ふいに言葉を切った。
楽しい想像は尽きないが、一番忘れることができない存在の名が不意に口をついて出そうになり、もみじ姫は切なげに自分の口を押さえた。
「……春香君は宮中にいないか。梔子の宮様ならいるだろうけど。」
今まで親の選んだ誰かと結婚することに疑問を感じることさえなかったのに。
あの冬の晴れ間の、麗らかな日差しの下、春の香りを運んできた少年に出会ってしまった時から、全ては変わった。
強引で傲慢、不遜で優美。そのくせ、時々見せる子どもの顔が愛らしく、全力で愛を伝えてくる姿に心を揺さぶられる。
今まで出会った全ての人の中で、彼の存在は群を抜いて目立っていた。
春香の存在がもみじ姫に与えられたものとは違う道を歩ませようとする。
色づいた心はとどまることを知らず、もう引き返すこともできないほどになっていた。
「春香君ー。」
名前を呼んでみる。
あの日、月の下で出会い、抱きしめあった日から春香には会っていない。
春香に会って言いたいことがたくさんあった。
綾乃のこと、東宮のこと、紫苑のこと。
そしてそれ以上に、春香が自分に与えた甘くしびれるような感覚に名前がついてしまったことを。
「――大好きって、恋してるって、私、まだ一度も春香君に伝えてない。」
立春の風は穏やかな日差しを受けても未だ冷たく、板の間を流れるように通り抜ける。
梅の花さえも固くその蕾を閉じる早春の風にその髪を撫でられながら、もみじ姫は熱におかされたように熟れた頬に手を当てた。
潤んだ瞳が見つめるのは庭ではなく、色取り取りの思い出達。
「春香る 雪のまにまに 君をみし
みをつくしては こいとなりぬる」
白き雪に覆われた庭の間に、紅く染まった声が響く。
「みをつくし 通える道の 名を聞かば
今ひとたびの こいと呼ばわん――」
朗とした声がもみじ姫の声に重なり、もみじ姫は驚いたように顔を上げた。
しかしその前に後ろから抱きしめられ、声の主の顔を見ることはできない。
ただその甘い香りに、艶やかな声に、自分を抱きしめるその体温に、顔を見なくても誰であるかすぐに分る。
身を尽くしてもずっと会いたいと望んでいた人物。
「は、春香君…どうして?夢じゃないよね?私、一応起きてるし…。」
はやる動悸に体が熱くなる。
会いたいと望みすぎて、春香が自分の夢に現れたのかともみじ姫は驚いた。
しかし自分を抱きしめる感触は夢とは思えないほどにしっかりしていて、張り裂けそうなほどに高鳴る鼓動に現実だと自覚させられる。
もみじ姫は火照った顔を押さえ、混乱した。
「こいって、もみじが言ったからかな?」
もみじ姫の髪に顔を埋めるように春香はその腕に力を入れる。
前に会ったのは年末。
久々の再会にもみじ姫の心は痛いほどにときめいた。
触れ合う部分は更に熱く熱を帯び、甘い痺れが全身を走る。
あの日からまだ半月も経っていないのに、久しぶりに日の下で見る春香はもみじ姫の知っている春香と違って見える。
顔が引き締まり精悍な大人の男性のように見え、もみじ姫の心を更に落ち着かせなくした。
「ねえ、もう一度言ってくれる?」
甘えるような声で、春香はもみじ姫の耳元で囁いた。
「な、何を?」
「俺が身を尽くして歩んだ道の名を。もみじの心に咲いた、名もなき花の名を。そして…」
言葉を切ると春香はもみじ姫の頬に手をかけ、体を自分の方に向けた。
真摯な黒い瞳を潤ませて、春香はもみじ姫をじっと見つめる。
「何度ももみじが望んだ言葉を。君が来いと望むなら、俺はどんな場所であろうと歩んでいく。たとえ火の中、水の中。君が望むままに。」
「春香君。」
熱を帯びた言葉に全身がくすぐられ、体の奥が蕩けそうになる。
「さあ、怖がらないで。もみじ、真っ赤に染まったその心にもう嘘はつけないよ。」
「あー…」
もみじ姫は心の奥底から押し寄せてくる感情に身を任せ、春香の頬に手を当てた。
恥ずかしげに一度顔を伏せたが、小さく息を吐くと、ゆっくりと顔を上げた。
その紅く染まった顔に見つめられ、春香の頬に朱が注す。
真剣な表情で春香を見つめ、もみじ姫は意を決したようにその小さな口を開いた。
「あ、愛して、います。――きっと、もうずっと前から。」
ずっと閉じ込めてきた感情が解き放たれ、瑞々しい言葉が春香の心を打つ。
ずっと聞きたいと願っていた言葉に胸の奥が熱くなり、熱でおかされた頭では理性に歯止めを利かせるのが難しい。
「もみじ。」
潤んだ瞳を自分に向けてくるもみじ姫を春香はもう一度力強く抱きしめた。
春香は柔らかい感触にやっと自分の念願が叶ったことを実感し、自分の思いに応えるように抱きしめ返すもみじ姫の手の暖かさに胸のうちを震わせた。
滑らかなもみじ姫の髪に手を添わせ、ひとつひとつ、もみじ姫を確認するように抱きしめる。
そしてどちらからともなく、体を離すと顔を近づけ見つめあった。
「もみじ、俺の命のある限り、俺は永遠に君に愛を誓う。――ああ、俺ってもう少し冷静な人間だったのにな。もみじのことになると我を忘れてしまう。初めはもみじを俺の色に染めるつもりだったのに、もう君なしでは生きれないほど、もみじの色に染まっている。」
恥ずかしげに笑みを浮かべるのは大人びた少年でも、可愛い笑みの下に獣の顔を隠していた小悪魔でもない。
全力で自分の気持ちを伝えようと奮闘してきた、等身大の春香。
「春香君。私もよ。これが恋なら、私はきっと一生、春香君の虜だわ。春香君の言葉に一喜一憂して、春香君の挙動に心を揺らす。春香君に出会わなければ、こんな心が自分にもあるなんて思いもしなかった。」
「もみじ…。」
もみじ姫の言葉に春香の心は愛しさが増すばかり。
指の先まで満たされ、このまま時が止まればと願わずにはいられない。
「大好きだよ。ずっと前から。もみじに初めて出会ったあの日から……。」
そう囁くと愛を語った口でもみじ姫の口を閉じた。
それは永遠に続く愛の誓い。
幼いゆえに不器用で、それでいてどこまでも純情な恋はようやっとその片割れと出会った。
熱い吐息に、甘い言葉に酔いしれ、二人はお互いを確認しあうように抱きしめあう。
「まるで夢みたい。」
長い間ふさがれていた唇でもみじ姫はぽつりと呟いた。
その熟れいた頬に春香は手を当てた。
そして意味深な笑みを浮かべる。
「夢なんて言葉では終わらせない。もみじ、覚悟してね。一度ついた恋の炎の勢いは衰えない。このまま落ちることまで二人で落ちていこうね。そう、激しい恋の淵に。」