第42章 恋に染まる花
―私、春香君に恋してる……。
ようやっと名前のついた淡い感情に戸惑いとときめきを覚えつつも、もみじ姫はうかない様子のまま新年を迎えた。
不意に持ち上がった東宮妃問題の為に今はその身を隠すように兄の参議の家に身を寄せている。
内大臣邸は女御のお宿下がりや新年の祝賀に忙しく、それに噂を聞いた小君が毎日もみじ姫のところに怒鳴り込みに行くという手の付けられない状態であったのだ。
兄の中将が気を利かせて、大晦日までに内密にもみじ姫を参議邸に移した。
参議には北の方が一人いるだけで、子はなく、屋敷は広々として、何の問題もない。
それに参議は父の内大臣同様、もみじ姫を目に入れても痛くないといったように溺愛している。
もみじ姫を自分の屋敷に置くことを嫌がるはずはなく、それどころか何かと理由をつけては足しげく、もみじ姫の滞在している西の対に通ってくるのだった。
「うかないお顔をされてどうされましたの?」
ぼんやりと庭の木々を見つめていたもみじ姫に声をかけたのは撫子姫であった。
綾乃の不在をどこからか聞きつけ、その上東宮問題で落ち込んでいるもみじ姫に心を痛めた撫子姫は常とは違う、きっぱりした口調で中将に対し自分も参議邸に同行すると言ったのだ。
さすがに従兄妹姫に迷惑がかかると中将は渋ったのだが、撫子姫が頑として譲らず、現在に至る。
「あ、ううん。たいしたことじゃないの。早くおうちに帰りたいなって。皆一緒に、綾乃も。」
白く化粧を施した庭の木から視線を戻し、もみじ姫は弱々しく微笑んだ。
その微笑みが悲しげに見え、撫子姫は眉を寄せた。
もみじ姫がやつれて見えるのは撫子姫の気のせいではないはずだ。
未だに綾乃の行方は遥として知れず、もみじ姫の心は晴れない。
それに誰にも言えずにいるが、紫苑と名乗る少年との出会いももみじ姫の心を陰鬱とさせていた。
「お労しいや、もみじ様。本当なら今頃、明るく楽しい新年を迎えられていたはずなのに。」
大げさに涙ぐむと撫子姫はもみじ姫の手を握った。
「ですが、これも今の間だけですわ。大丈夫。内大臣の伯父様がなんとかして下さいます。うまくいけば春ごろには東宮様の下に入内の話が確実なものになるかも!」
少しでも明るい話題をと、撫子姫は東宮妃の話を持ち出した。
東宮妃、いずれは中宮、そして自分の子どもを帝にして国母と呼ばれる。
これほど、女性にとって栄華な人生はない。
撫子姫はもみじ姫を励ますつもりであったのだが、しかし、その言葉に俄かにもみじ姫の表情が曇る。
「あら?どうされたのです?もしやもみじ様は東宮様の下には行きたくないとお考え?」
撫子姫は困惑したように首を傾げた。
「あ、おかしいよね。本当ならおうちの為になるから、率先していくものだもの。」
もみじ姫は曖昧に微笑んだが、しかし、嘘のつけない性格ゆえ、強張った顔のまま撫子姫を見つめた。
何も言わず、じっともみじ姫を見つめる撫子姫。
「あのね、お父様が選んでくれる人なら誰の下でも行こうって思っていたの。私の為に選んでくれた人だから、絶対に間違いはないって!……でもね、心が揺らぐの。この決意に間違いはないのに、知らない人の下に行くと思うだけで、心が締め付けられて…。」
「もみじ様。」
「ごめんね、撫子ちゃんにこんなこと言っても困るだけなのにね。まだ、東宮妃の話も中途半端だし、このまま私が東宮様の女御になんてなったら、それこそ小君ちゃんに呪い殺されそう!」
話をはぐらかすようにして、言葉を濁すともみじ姫は話題を変えるように伸びをした。
「はあ、お腹すいちゃったね!今日のご飯はなんだろうね~。」
いつも通りの屈託ない笑みを撫子姫に向けるが、撫子姫の様子がおかしい。
口元を衣の裾で隠したまま、思案するように目を伏せている。
ちらりと庭に視線を漂わせる撫子姫はいつもの儚さとは打って変わって、凛と引き締まって見える。
「撫子ちゃん?」
まるで知らない人物になってしまったかのような撫子姫をもみじ姫はぽかんと見つめた。
が―。
「もみじ様!」
「きゃ!」
撫子姫は声を大きく上げ、そのか細い見た目からは想像もつかないほど力強くもみじ姫を抱きしめた。
「ど、どしたの?撫子ちゃん?」
「もみじ様、そんな健気なことおっしゃらないで下さいませ。私、もみじ様がそんな風になんでもないような素振りをなさる姿を見ていると心が痛むのです。」
更に腕に力を入れる撫子姫にもみじ姫は戸惑わずにはいわれない。
―な、撫子ちゃん、見かけによらず、激しいわ!
やっと腕の力を抜き、もみじ姫を解き放った撫子姫に驚きつつ、もみじ姫はポカンと撫子姫を見つめた。
意外な一面に憂鬱な気分が吹き飛び、もみじ姫はおかしそうに微笑む。
「撫子ちゃんって、熱い人なのね。」
「お恥ずかしい。ただもみじ様の落ち込んだ顔を見ていると、感情の歯止めが利かなくて…。」
恥ずかしそうに顔を背けたが、ふと思いついたように撫子姫はもみじ姫の頬に手を触れた。
「私、もみじ様のことを本当にお慕いしていますのよ。だから―…。」
そう言葉を切ると、撫子姫は悪戯を思いついた子どものような艶やかな笑みを浮かべ、もみじ姫の耳元で優しく囁いた。
「私と共に宮中に参りませんこと?もみじ様も直接に東宮様をお見かけすれば、心の中に巣食うもやもやを解消できるかもしれません。お顔を遠めにでも拝見して、気に入らなければお断りすればいいのです。見ない内に断るなんて勿体ない。」
その言葉にもみじ姫は動揺せずにはいられない。
宮中に行くことも大変なのに、東宮の求婚を断るなんて。
「な、撫子ちゃん?」
「ふふっ。何事も難しく考えこんでいてはダメ!与えられるのをただ待つだけじゃ、人生はつまらない。もみじ様、貴女が選ぶ番ですわ!」




