第40章 染まるもみじ葉
「乱暴な行いであるとは重々承知の上です。しかし、貴女の可憐さの前に自分の心が止められない。」
紫苑の甘い声が、もみじ姫の耳朶をくすぐる。
「いやっ!」
もみじ姫は突き放すように紫苑の腕を振りほどこうとしたが、紫苑は事態を楽しんでいるか手を離そうとしなかった。
それどころか、優雅な物腰とは裏腹に傲慢なほど鮮やかな手つきでもみじ姫の髪を撫でる。
―ど、どうしよう。
抱きしめられた腕の中で、もみじ姫は進退窮まっていた。
叫ぼうにも抱きしめられて、声が出ない。
急に現れた紫苑に対する戸惑いと、知らない男に抱きしめられる恐怖が胸の内を渦巻いている。
―このまま、本当にさらわれてしまうのかしら。
そう思うと体の奥が凍っていき、心臓の音だけが体に響く。
もみじ姫は必死に祈った。
誰かがこの場に現れることを。
ぎゅっと瞑った瞳から一筋の涙が零れる。
その瞼の裏に涙に滲んで、懐かしい姿が見えた気がした。
―助けて……。
……!
「今、なんとおっしゃいましたか?」
もみじ姫の声にならない、心の叫びを感知したのか、紫苑はそっとその手を離した。
そしてもみじ姫の顔を覗きこむ。
「今、誰かの名を口にされませんでしかた?」
「え……名前?」
もみじ姫はぼんやりと紫苑を見つめた。
「ええ。かすれて聞こえなかったのですが、誰かを呼んでいるように聞こえたので。違いますか?」
「名前なんて……。」
戸惑いつつ、もみじ姫は言葉をきった。
紫苑から距離をとるように一歩後ろに下がり、口元に手をやる。
混乱する頭でつい先の自分の行いを思い出すが、あまりに必死すぎて、自分が何を口にしたのかも覚えていない。
ただ……。
瞼に浮かんだ光景。
一瞬の感覚でしかないが、頭に残った断片。
一面が花色に染まった、あの瞬間。
確かに何かを叫んだ気がする。
それは慣れ親しんだ家族でもなく、旧知の女房でもない。
「!」
それが誰であるかと気付いた瞬間、もみじ姫は頬を赤く染めた。
「姫?」
不思議そうに顔を覗きこむ紫苑の視線をさけ、もみじ姫は顔を背ける。
その時、カタン―と簀の方で音がした。
驚くもみじ姫に対し、紫苑は無表情のままにそちらに顔を向ける。
「もう、そんな時間か……」
呟くように独りごち、紫苑はもみじ姫から離れた。
「せっかくお会いできたのに、もう時間が来てしまったようです。しかし、貴女に会いに来てよかった。実際お会いしないと分からないものですね。」
「え?何が?」
「こんなに清純な姫君だったなんて。こんなに素晴らしい姫が今まで秘めやかに、慎ましく内大臣邸の奥底で咲いていらっしゃったのだと思うと内大臣を恨まずにはいられません。」
戸惑うもみじ姫に紫苑は柔美な笑みを浮かべた。
そして、素早くもみじ姫の手をとると、その掌に唇を当てる。
そのまま、もみじ姫を見上げるように顔を上げた紫苑は潤んだ瞳でもみじ姫を見つめた。
「掌への口付けは懇願を意味するそうです。姫、私が貴女に何を懇願しているか、貴女はもうご存知のはずだ。―どうぞ、貴女のお心が私に優しくありますように。」
そう言い残すと紫苑は被きした白い衣を翻し、颯爽ともみじ姫に背を向けた。
どうやら、簀で何者かが待機していたようだ。
その人物の案内で紫苑は綺紅殿を去っていく。
その後ろ姿をもみじ姫はただただ見つめるしかなかった。
去り行く時、紫苑は優雅な笑みを浮かべ、手を振る。
いきなり現れた紫の花の少年にもみじ姫の鼓動は激しく打つばかり。
やっと姿が見えなくなって初めて、息を吐いたように座り込んだ。
「なぜかしら……。とても柔らかい人なのに、春香君や梔子宮様も同じようなことを言うのに……どうして、こんなにも怖いと思ったのかしら?」
治まらない動悸にもみじ姫は胸を押さえる。
戸惑いと恐怖がごちゃ混ぜになった心地の中で、しかし、もみじ姫は俄かに生まれた感情に困惑していた。
―どうしてかしら?あの一瞬、春香君が目に浮かんだの。
あの瞬間のことはあまりに無意識で、もみじ姫も不思議でならなかった。
ただ、そう思うと顔が赤くなり、また鼓動が早鐘を打ち出す。
―春香君…。どうしよう、私、もう自分の心に嘘はつけない。
大切にしたい人はたくさんいるけど、でも……。
しかしこれほどまでに心を乱し、胸を締め付けれる思いはしたことがない。
消えてしまった綾乃や乳姉妹の二人とも違う、甘く切ない感情があふれ出す。
「これが、恋?」
遅すぎる自覚。
気付かないようにしていた感情はもうごまかしの利かないところまで来てしまっていた。
―たぶん、あの日から……。
月華の下で、春香君の笛の音を聞いた時から。
「私の心はずっと春香君に捕らわれていたんだわ。」
胸に宿った熱い思いを抱きしめるように、もみじ姫は胸の前で両手を添えた。
自覚するともう止められない。
小さく芽吹いていた花は勢いを増して育ち、もみじ姫の心に絡み付いていく。
「恋とは淡々とした日常を彩るもの。その方を思い、一喜一憂する……。」
綾乃から聞いた言葉を思い出し、もみじ姫は自分に当てはめてみた。
春香と出会い、どれだけ自分の周りが明るくなったか。
いつ間にか春香の来訪を心待ちにしていたか。
そして、春香に会えない時間がそれほどつらかったかを――。
「これが恋なら、なんて切ない思いなの…。」
溢れる感情に、何故だか涙が溢れてくる。
悲しいのか、嬉しいのか、もみじ姫自身分からなかった。
やっと名前のついた感情を前にどうしていいか、もみじ姫は戸惑わずにはいられない。
自覚しても成就の叶わぬ恋心。ただ大切な存在だけにとどめていた今までとは勝手が違ってくる。
それに、東宮の意味深な発言や見知らぬ少年の出現、無二の信頼を寄せる綾乃の失踪。
自分の許容を超える問題の出現に、甘い恋の夢に漂うことも出来ない。
ただこういう時、綾乃が側にいてくれたらきっと優しく背を撫でてくれるはず。
そう思うともみじ姫の心は締め付けられた。
板の間の境も分からぬほど、もみじ姫の視界は涙で歪んでいく。
板の間にぽつりぽつりとこぼれる雫はまるで、秋の木の葉を染める白露のようにどこまでも清浄であった。