第39章 紫苑の花の君
「貴女はご存知ないのでしょうね。みなの川の峰より落ちる水が淵を作るように、私の心も貴女を思って深い恋の淵を作っていることを。」
つくばねの峰よりおつるみなの川
恋ぞつもりて淵となりぬる
とは陽成院がお詠みになった恋の歌。
それを連想させる言葉を甘い声に乗せ、一歩もみじ姫の側に近寄る。
もみじ姫は思わず、一歩後ろに下がった。
少年の意図がつかめずに、戸惑ったように身を竦ませる。
「えっと……。」
「紫苑とお呼び下さい。愛しい人。」
ふっと口元を和ませると少年はもみじ姫の足元に跪いた。
紫苑が羽織っていた白い衣がふわり舞う。
彼は姫の羽織っておる衣の裾を手に取った。
「あ、あの、しお……。」
もみじ姫の言葉などに構わず、紫苑と名乗った少年は裾に口を付けた。
「いきなり現れた非礼をお許し下さい、姫。貴女の噂に心を惑わし、貴女のためならこの命すら惜しくないと思って、今日まで恋忍んでいたのですが……。」
紫苑は上目使いにうるんだ瞳をもみじ姫に向けた。
「もう、忍ぶこともできないほど私の心は乱れて、人の知るほどです。」
さすがのもみじ姫もここまで直接的な言葉を述べられれば、自分が今どのような状態にあるのか分らない訳がない。
「え?人違いじゃないですか?」
もみじ姫は驚きに声を高くした。
どうやらどんな直接的な言葉でももみじ姫には伝わらない様子。
自分と恋忍ぶという言葉につながりが見出せず。目をぱちぱちとさせた。
「何故、人違いなどと、つれないことを申されるのです?」
「それはわたしにはそんなに思ってもらえるほどの要素がないからです!」
にっこり笑って断言したもみじ姫に紫苑は一瞬虚をつかれたように、目を丸くした。
しかしすぐにその表情を引き締める。
「貴女は変わった方だ。どれだけの噂がこの都中に広がっていて、どれほどの男が貴女に恋焦がれているか知りもしないのですね。」
「ええ!それは何かの間違いだと思います!だって、わたし、恋焦がれられる要素がどこにもないの……悲しいくらいに。」
もみじ姫は自分の言葉にだんだん落ち込んできた。
声が沈んでいくのと比例して、頭を垂れる。
春香のように等身大の自分を見て、それでも好きだと言ってくれるならまだしも、本人のあずかり知れぬ場所で勝手気ままに作られた噂ほど信用度の薄いものはない。
それなのに、この紫苑やその他の男の君がありもしない噂に騙されてもみじ姫に恋をしているのだと思うと、居たたまれない気になる。
「ごめんなさい。どんな噂かは分らないけど、全てでたらめだと思うわ。これを気に別の方に恋してみたらどうかしら?」
見当違いな噂に振り回されている紫苑が哀れになり、もみじ姫は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
真摯な瞳に困惑を浮かべ、もみじ姫は紫苑を真っ当な方にむけようと試みてみた。
しかし、もみじ姫の言葉など聞いていないのか、紫苑は困ったように微笑み、何かを乞うようにもみじ姫の瞳を見つめた。
「まさか、別の方を勧められるなんて、思いもしなかったな。もしかして、姫、貴女の心にはすでに決まった方がいらっしゃるのですか?」
「決まった方?」
もみじ姫はその言葉にドキリとした。
姫の頭に思い浮かんだのは元服もまだの春香。
先日の月の下で抱きしめられた思い出が俄かによみがえり、頬が熱くなる。
頬を染めて、顔を背けたもみじ姫に紫苑は切なげに眉を寄せた。
その表情はその年の少年にはけして存在しないような、艶やかさを含んでいる。
秋の朝露に濡れる、儚げな薄紫の花のような麗しい魅力は誰の心をも捕らえて離さない。
もみじ姫も心ならず、紫苑に見とれた。
「貴女の心にはもう、決まった方がいらっしゃるのですね。」
紫苑はゆっくりと立ち上がると、そっともみじ姫の手を取り、自分の両の手で愛しげに包んだ。
「そ、そういう訳じゃなくてね、あの、わたし、まだ恋とかよく分からないから、その、こういう気持ちは大切にしていこうと思ってて。えっと…。」
しどろもどろになって答えるもみじ姫の言葉に、一瞬紫苑の瞳がきらりと光った。
しかし、頭が混乱して自分のことでいっぱいいっぱいな姫には知る由もない。
「それでは私にも貴女の心に住まう機会はあるのですね。」
「え?なんでそうなるの?」
「姫、私は積もり積もった恋の淵をさ迷う舟人のよう心地なのです。貴女のどんな言葉にも心を揺らし、舟は行くあてもなく漂う。」
甘く、熱の篭った声にもみじ姫はびくりと身を竦めた。
春香とは違う、知らない男の人の真摯な言葉に、体が落ち着かない。
「由良のとを……ですか?」
ごまかすように和歌の一節を口ずさんだ。
「ええ、姫はよくご存知だ。
由良のとをわたる舟人かじぢをたえ
ゆくえも知らぬ恋の道かな――
ひとえに貴女のお心のみが私の舟のかぢを取ることが出来る。」
「そ、そんなこと……。」
身を引こうともみじ姫は後ずさるが、強く握った紫苑の手はもみじ姫の小さな手を開放する気はないらしく、腕の長さのみ距離を残して、二人は見つめあった。
「このまま、貴女をさらってしまいたい。」
「こ、困ります。わたし、さらわれてる暇なんてありません。」
一生懸命に難しい顔を浮かべ、もみじ姫は紫苑の甘い言葉を遮った。
「くすっ。本当に興味深い方だ。さらわれそうな状況で恐怖ではなく、迷惑と思われるなんて。」
「すいません。でも、冗談でも困るんです。わたし、今、色々忙しい身で……。」
「それは…東宮様の御所に向かわれるからですか?」
核心に触れるように、紫苑は柔らかく、しかし有無を言わさない視線をもみじ姫に向けた。
「は?東宮様?」
しかし鈍感さでは都一のもみじ姫に紫苑の意図することなど分りっこない。
目をこれでもかと大きくし、何故その名がここに出てくるのか理解に苦しむとばかりに首を傾げている。
「え?違うのですか?」
この反応にはさすがの紫苑も優美さを忘れ、しばし、ぽかんとする。
「当たり前ですよ!わたしは綾乃を…わたしの女房を探しに行きたいだけなんです。東宮様のことなんてこれっぽっちも関係ありません!」
強気に瞳を輝かせ、断言するもみじ姫。
ただただ、そんな姫を見つめるしかできない紫苑はふと口元を緩めた。
「ははっ。これはこれは。ここまできっぱり宣言するなんて。東宮の立つ瀬がないじゃないか。」
その破顔した表情は年相応で、今までで一番素直そうにもみじ姫の目には映った。
紫苑はひとしきり笑うと、不思議そうに自分を見つめるもみじ姫の手を強く引いた。
「きゃ!」
「気に入りましたよ、もみじ姫。実物を見て更にね。これは手放すのが惜しい。」
掴んだ手をそのままに、紫苑はもみじ姫を抱き寄せた。
年はもみじ姫よりも下だが、その体格はすでに大人の男である。
その細身から想像も出来ない力で抱きしめられ、もみじ姫は驚きに身を固くした。
「な、なにを…。」
戸惑うもみじ姫の耳元で、柔らかで優美な声が囁いた。
「やっぱり、さらっていってもいいですか?貴女は私の庭で咲くに相応しい。」