第3章 花散れじれに
「ひぃ様。」
綾乃によって、寝間に放り込まれたもみじ姫の様子を伺うように、御簾がちらりと開いた。
ぴょこりと二人の女房が顔を出す。
「松虫、鈴虫!」
もみじ姫は嬉しそうに乳姉妹の二人を招き入れた。
「綾乃様が心配なさってましたよ。どうなさったの?」
「この寒いのに、また外でぼけっとしてたのでしょ?ダメですよ〜。」
綾乃と違い、気軽な性格の二人にもみじ姫は緊張なく、ゆったりする。
もみじ姫は、こそりと黒い木箱を衣の裾から取り出した。
二人は興味津々と覗き込む。
「まぁもしや、恋文ですか?」
「そう。」
「まあまあ、ひぃ様に恋文!誰ですの?そんな変わった殿方ですね!」
下の鈴虫は、あっけらかんと驚き、姉の松虫は妹の暴言に肘でつついて諫めたが、まぁ気にするもみじ姫でないことは承知の上。
「でもわたし宛ではないのよ。」
「はぁ?」
「誰宛か、お文の使いもわからないらしいの。」
「なんでそんな訳の分からないお文、ひぃ様がお持ちなの?」
もみじ姫は雪を踏み分け、訪ねてきた春の香りの童とのやり取りを語った。
所々、省略して…。
―抱きしめられて、押し倒されたなんて、さすがに恥ずかしくて言えないわね。
「まぁ、なんて大人びたというか、ませてるというか…ひぃ様と足して二で割って、ちょっとひぃ様少なめでちょうどよい年頃の子になりますね!」
「二で割って、さらに少なめ…わたしの要素が少なすぎるわ。そんなにわたしの要素って必要ないかしら…。」
鈴虫の辛口評価にもみじ姫は落ち込んだ。
―やっぱり十割り増しでちょうどかも…。
もみじ姫は少し落ち込んだ。
「そんなことありませんよ!きになさったらダメです!前向きさこそひぃ様の長所!」
松虫はなんとか慰めようとしたが、他に言葉が浮かばなかった。
「前向きだけ?」
もみじ姫は更に表情を暗くする。
鈴虫はまあまあと、話を変える。
「それにしても、後朝の歌なんて!十の子だとは思えない機知に富んだこと。かなり裕福なおうちの男の童なのでしょうね。すぐに歌を作って送るなんて、簡単にはできませんわ。普段から、ご主人様の風流な言葉をお聞きなのね。」
「でも、御文の相手が分からないのでは困ったことですね。そのお箱の中を見れば、何か分かるかもしれませんね。」
「そうね。でも、他人のお文を見るなんて…。」
困った顔をするもみじ姫。
「大丈夫ですよ。誰宛か調べるだけなんですから。」
鈴虫は軽く片目を目を瞑った。
「じゃあ…」
そう言うともみじ姫は、恐々と黒い木箱の蓋を開けた。
「あっ。」
木箱から溢れるように零れ落ちた白い和紙は花びらのよう。
甘い、どこまでも濃くて甘美な香りが立ち込める。
「文香のようですわね。和紙は何かのお花を模してるようですが、何かしら?」
「あら?下に別の色の和紙があるわ。」
鈴虫が目ざとく、淡い青の和紙を取りあげる。
「花散れじれに 見る影もなし」
「下の句だけ?」
「花が散って、昔の面影もなくなった。なんか寂しい歌ですね。」
三人は首を傾げた。
これだけでは、歌に送られた人が分からない。
「本当に、このお屋敷の方なのかしら?」
「そうね〜。もしかしたら、送られた方の勘違いかも知れないわね。下の句だけで分からないけど、今はあなたが居らず花も散り見る影もなくなったという意味なら、一度送られた方はこのお歌の人にお会いしてるのかも?」
「まあ!ひぃ様、うまい!なんだかんだ言って、やっぱり前の北の方様の娘ですものね。一応の才能はあるのですわ!生かしきれないとこがひぃ様なんだけど…。」
鈴虫はいつも一言多い。
しかし、姫は気にせず、ほめられた所だけを受け入れた。
「えへへっ。」
「それにしても、何の縁でひぃ様のとこに来たのでしょうね、その童は。」
「お歌の人探しって面白そうだし、そのませた子どもと一緒にいたらひぃ様もちょっとは大人の駆け引きが出来るようになるかもしれませんね!次、もしその子が来たらわたし達にも教えてくださいな!協力しますから!」
「そうですね。男君がどんな風にお歌を送られるのかよいお勉強になりますし、それに…。」
もみじ姫を置いて楽しそうに盛り上がる二人は意味ありげに姫を見て言葉を切った。
「それに?」
「ひぃ様は恋に興味がなさ過ぎですわ!こいって魚?なんて言ってられない年頃ですもの。折角の機会に、そのませたお子様と恋愛ごっこなさるといいのですわ。大人びてても所詮は子どもですもの問題なし。」
鈴虫がにやりと笑う。
「恋愛ごっこって。一緒にお歌の人を探すだけよ?」
「探すだけって!その子、初めて会ったひぃ様に衣をかけられて、後朝の歌なんて詠むんですよ。いっぱしの交野少将を気取ってるんですよ!出会った女君は口説かずにはいられない!みたいな!いきなり大人の男君相手に口説かれたらひぃ様もどうしていいか分からないでしょう?だから、お子様で練習!ひぃ様にはちょうどよい恋の練習台ですわね。」
「鈴虫、それはちょっと失礼…。」
「大丈夫ですよ。こっちだって歌の人を探してあげるんだし、勝手に内に入ってくるのを見咎めないんですから。」
「そんなもの?」
「そんなものです。大丈夫ですよ!綾乃様には内緒にしときます!簀子でぼけっとして、どこの誰かもしれないお子様に顔を見られたなんて、綾乃様に知れたらひぃ様どうなるか分かりませんもんね。」
「う…。」
「まあ、とっさに女房だと嘘を付かれたのは賢明でしたわ。その子がお歌を送られた自分の主人になんて言うか分かりませんし、内大臣家の中の君は堂々と簀子で見もしない子に声をかけるなんて、姫らしくないと変な噂がたつと困りますものね。」
二人に言われてもみじ姫は言葉につまり、身を小さくしたのだった。
「どうだった?姫は可愛らしかったかい?」
細長の、優男の貴族の青年はのほほんと廂の間に寝転び、冬の澄んだ夜空の月を見上げている。
上げた御簾の向うの景色は月明かりに雪が輝き、息を飲む美しさ。
「まあね。」
母屋に引かれた畳の上で、灯台の明かりで本を読んでいた少年はその手を止めて、青年を見やる。
「君が満足でよかった。私も嬉しいよ。して、御文は渡ったのかな?」
「ん?そういえば、あの箱どこやったかな?ああ、あそこに置きっぱなしだ。運がよければ、もみじ姫が保管してくれてるんじゃない?」
「なんと!」
青年が勢いよく起き上がる。
切迫した表情。
「なんで、君はいつも自分のことばっかり…。」
「そういう風に育ったんだから仕方ない。大丈夫だよ。もみじ姫は捨てるような人ではない。」
「まあ、そうだろうけど…。」
「それにしても、あんたの愛しい人って誰?だいたい、特徴が抽象的過ぎてわからん。」
「だから、菫のように愛らしい目の、藤のように美しく流れる髪に椿のように赤い口、肌は橘の花のように白く、しかし頬は桃のように淡い色をしている。竜胆のように凛とした眼差しを持ち、牡丹のように堂々として、水仙のように清らかな人。でも撫子のような儚さも時々覗かせる、とても愛らしい人だよ。」
「分からん!」
「なんで?こんなに特徴を言ってるのに…。」
なぜ理解されない、そう言わんばかりに不服そうな青年に少年はイラついた様に頭を掻いた。
「どうとだって喩えられるだろ!もっと具体的な特徴とか、名前とか…。」
「私にはそうとしか見えないんだけど?」
「目、おかしいんじゃないの?」
「いつも手厳しいなぁ君は。私も君のように童姿になれたなら、家や御簾という障害もなくあの人の下に通えるのに…。」
青年は心底残念そうに首を振った。
「まぁこういう時は便利だけどね。でも俺は早く大人になりたいよ。早く同じ立場に立ちたい。今だ背も低く、守るすべ一つ俺の手にはない。」
少年は悔しそうに唇を噛んだ。
小さく華奢な手をかざす少年の心の内に、子ども特有の一途さを垣間見、青年はその青臭ささににまりとした。
「そう焦らずとも…雪に閉ざされていても、その下にはちゃんと次の季節を夢見て用意している花がある。じっくりと時を掛けてこそ、美しく咲く。それが世の道理。だから、焦らず悩みなさい、少年よ!」