第38章 由良のと渡る迷い人
―綾乃はどこにいってしまったのかしら?
目覚めたときの心地よさなど全て吹き消してしまう事柄にもみじ姫は眉をひそめ、今までにないくらい深刻な表情を浮かべていた。
綾乃の局には当たり障りない文章で別れの挨拶が書かれていた。
もみじ姫への感謝、別れを告げずに去ることへの謝罪。
それ以外、綾乃の消息を記すものは一つも書かれていない。
もみじ姫は真剣に綾乃が立ち回りそうな場所を思い返し、鈴虫や松虫、その他の女房をいろんな場所へ使いにやったが、まったくの無駄に終わってしまった。
残すは姉のいる宮中だが、姉の女御と綾乃は、女御が入内した後から綾乃が使えるようになったので数度顔を合わせただけの関係だ。
それでも姉を頼って、綾乃が宮中に行ってくれていれば……。
もみじ姫は頼みの綱と、宮中にいる姉の女御に手紙を書いたが、未だに返事はこない。
「綾乃…どこに行ったの?綾乃もわたしの大切な人なのに、こんな風にいなくならないで。」
涙が溢れそうなのを我慢し、もみじ姫は自分にできることを必死に考えた。
「わたし、もう逃げないわ。大事な人は絶対に最後まで大切にするって決めたから!」
「ひぃ様~!」
もみじ姫が決意新たに頷いたときだった。
またしても絶叫を上げ、鈴虫が簀を爆走してくる。
千切りとりそうな勢いで、御簾を捲り、鈴虫は叫んだ。
「大変です!お、恐れ多くも東宮様直々にもみじ姫と会いたいとのお言葉があったと殿が……。ど、どういたしましょう、東宮様ですよ!ひぃ様!!」
「鈴虫、そんこことはどうでもいいの。それよりも綾乃は見つかった?」
珍しく難しい顔をしたもみじ姫が顔を蒼白させて、息も絶え絶えといった様子の鈴虫の言葉を遮った。
もみじ姫は何か書き付けられた紙を穴が開くほど見つめたまま、鈴虫の答えを待った。
紙には都内の綾乃の立ち寄りそうな場所が書き連ねられており、そのほとんどに×印が付けられている。
「え、どうでもいいって、東宮様ですよ?」
「東宮だか、なんだか知らないけど、今は綾乃のことの方が急を要することなのよ?そんな話は置いておいて、お父様は綾乃のこと、何か知ってた?」
「いや、行方不明についてはご存知ないご様子でした。とりあえず事を荒立てないように綾乃様不在の事実は中将様にしか伝えていません。中将様は、綾乃様が黙って姿を消すには何か訳があるのだろうからとおっしゃって、中将様の急な用事で綾乃様が他に出ていることにしようと、そのように手配してくださいました。」
「そう…。お兄様には感謝しなければ。本当に、綾乃はどこに行ったのかしら?」
「訳を知る女房であちこちに探りを入れておりますが、なしのつぶてですわ。……それよりひぃ様、参議様のお屋敷とかは分りますが、この、井戸とか藪とかはなんなんですか?ってか、どこの井戸?」
「隠れてるかもしれないし…。」
「隠れてるわけないでしょ!貴方は綾乃様をなんだと思ってるのですか!」
「手紙を書いたけど、決心が鈍ってその辺で迷ってるかも知れないでしょ!とりあえず探せるとこは探さないと!――やっぱり、わたしも探しに行くわ。待ってられない!」
勢いよく立ち上がるもみじ姫の袖を鈴虫は必死に引っ張った。
いつもぼんやりしているもみじ姫からは想像も出来ない程に、真剣な眼差しに圧倒されてしまう。
「待って、ひぃ様。探すってどこを?しかもひぃ様御自ら?」
「わたし、気付いたの。綾乃みたいな綺麗な人が急に現れたらどこかで噂になるはずよ。市場にしても、どこかの御屋敷にしても。」
「はぁ、まあ確かに。」
真っ直ぐに自分を見つめ、自分の意見を述べるもみじ姫に鈴虫は戸惑うばかり。
姫らしくなく、意外に的確なことを言っているように思える。
―やっぱり、ひぃ様は幼いだけじゃないんだ。
自信に溢れるもみじ姫の言葉に鈴虫はただ感心するばかり。
もみじ姫は固く拳を握った。
「だから、宮中に行こうと思うの!白き衣を雪に隠すように、美人は美人の中に隠れれば、目立たないわ!美人は宮中にあり、よ!」
「なんでやねん!」
鈴虫の強烈な突込みが綺紅殿に響いた。
やっぱりもみじ姫はもみじ姫である。
「ああもう。なんか柄にもなく強気な発言するから、危うく騙されるところでした。」
「ええ?でもあながち違ってはいないと思うわよ?」
ため息をつく鈴虫にもみじ姫はうろたえたように裾を引っ張った。
「間違ってはないかもしれませんね。でも、いくら美人だからって、簡単に入れるところではありませんよ、宮中は。」
「でも、もしかしたらいるかもしれないし……。」
変なところに食い下がるもみじ姫だが、鈴虫は頑として首を振らない。
しかしじっとうるんだ瞳で訴えかけるもみじ姫に根負けしたのか、ため息をついた。
「そこの捜索は中将様にお願いしましょう。どうしたって、ここから出て探すことは出来ませんよ!ただでさえ、東宮様からお声がかかってるんですから、目立つような行動はダメです!うまいことやれば、ひぃ様でも東宮妃ですよ!小君様に勝てますよ!」
「別になりたいなんて思わないわ。小君ちゃんでいいじゃない。だから、わたしも一緒に……。」
「だ~め!とりあえず、追って殿よりご沙汰がありますから、それまでは!くれぐれも大人しくしていて下さいね!」
まるでもみじ姫を罪人のように言うと、鈴虫は絶対見つけてきます、と言い残し、その場を去っていった。
「まるで綾乃のようなことを言うのね、鈴虫。」
去っていく鈴虫の背を見つめながら、もみじ姫は寂しげに微笑んだ。
なんだかんだ言っても鈴虫も綾乃のことが心配でならないのだろう。
「ねえ、綾乃、どこにいるの?綾乃がいなくなって気付いたの。どれだけ綾乃に守ってもらっていたかって。それなのにわたしは綾乃のこと、何一つ知らないなんて。」
綾乃との思い出を探すように、もみじ姫は御簾越しに庭の木々を見つめた。
長い時を共に過ごした綾乃。
庭の木々が新緑に彩られる時も、紅く染まる時も、ずっと一緒にこの気色を見つめてきたのに。
「綾乃、なんだっていい。綾乃とまた一緒にこの庭を見つめられるなら―。」
「へぇ。とても情に篤い方なんですね。」
聞き覚えのない朗たけた声にもみじ姫は驚いたように声のした方を向いた。
いつからそこにいたのか、南の廂に人影があった。
声の主はそっと御簾を上げ、悠々と室内に入ってくる。
まるで自身の屋敷であるかのように。
気品に満ちた物腰の線の細い少年。
薄紫に藍を重ねた直衣に身を包んだその少年は頭から白い布を被っている。
布に邪魔されて、顔が半分以上分らないが、おそらく春香より二つ、三つ上だろう。
「えと、どなた?」
いきなり現れた少年に、もみじ姫はぽかんとしたまま、顔も隠さずに少年を見つめた。
女性と見まごうばかりに端正な顔つきのこの少年に何故だか引っ掛かりを覚えるのだ。
―誰かしら?初めて会うはずなのに、知っている気にさせられる。
少年はもみじ姫の問いには答えず、楽しそうに喉を鳴らして笑うばかり。
「貴女のことをずっと思い続けていましたよ。もみじ姫。」