第36章 始まりの朝
朝の光は夜のそれとは比べものにならないほどに明るく、白銀の庭は刺すように陽を照り返していた。
もみじ姫が格子から差し込む朝の気配に気が付いた時、側に春香の姿はなかった。
甘い春の香りだけ残して、愛しい人は夜の帳とともに消えていた。
「春香君……。」
いつの間にいなくなったのか。
それともあれは、思いすぎたが故に現れた幻だったのか――。
「ううん。」
もみじ姫は頬を赤く染めて、自らの口に手を当てた。
唇にはまだ、あの時の感触が残っている。
「やっと会えたんだわ。言いたいこといっぱいあったのに、何一つ言えなかったけど、でも会えて、春香君の顔を見て、やっと気付けたわ――。」
もみじ姫は自分の言葉に神妙に頷いた。
「わたし、大切な人には嘘をつかないでおこう!」
――変に建前とか気にして春香君に接していたから、会うたびに後ろめたくなったのだわ。そうよ、こ れからは堂々と大事にしなければ!
うんうんと自分の出した結論に満足といった風のもみじ姫。
どこか春香の望んだ理想とかけ離れているのだが、そんなことは露にも思わない。
もみじ姫にとって春香は何者にも変えがたい大事な存在であることは確かなのだが、そこに“恋”の文字が含まれないのが、もみじ姫らしい。
やっと心のしこりの取れたもみじ姫は今までに増して明るく、きりりと冷える朝の空気にうんっと伸びをした。
「いつか来る別れを怖がっていてはダメなのよ!大事にできる時に大事にしなければ!だって、春香君はわたしの……。」
ふと、言葉を切った。
わたしの、の後に続く言葉が見当たらない。
―友達でもないし、弟って言葉もそぐわない。春香君はわたしの、なんなのかしら?
もみじ姫は困ったように首を傾げた。
「まあ、なんでもいいわ。大事な人に変わりはないんだし!」
ややこしいことは気にしない。
もみじ姫が明るく頷いた時だった。
「ひぃ様~!!!」
悲鳴に近い声を上げながら、誰かがどたどたと足音をたてながら簀の間を走ってくる。
綾乃が聞けば怒るだろうな、と人事ながら同情しつつ、もみじ姫は音の方に顔を向けた。
バンッ―と勢いよく妻戸を開ける音と共に室内に鈴虫が入ってくる。
「あ、おはよう。鈴虫。今朝はいい天気ね。」
「何のんびりしてんですか!ひぃ様の能天気!」
「ええ!なんで!」
つかみ掛からんばかりの勢いで迫ってくる鈴虫の表情は爽やかな朝とは打って変わって険しい。
鈴虫の暴言の意図が分らないもみじ姫は戸惑うばかり。
「ど、どうしたの?」
「どうしたも、こうしたもありませんよ!綾乃様が……。」
「綾乃が?」
「いなくなってしまわれたんです!」
輝かしい朝の光の中を春香は歩いていた。
目指すは、腹立たしいほどに自分の邪魔ばかりする男の元。
その表情はここ数日から一変して、自信に溢れていた。
答えは簡単。
頼りなげな光でも、一縷の望みであることに変わりはないと気付いたから。
昨夜、やっとその手に抱きしめ、唇を重ねたもみじ姫の姿を思い出し、口元を緩める。
唇を重ねるまで、あの日の涙顔が頭から離れなかった。
「――もみじ以外は目に入らないんだ。」
ゆっくりと重なる唇。
温かな感触に身が震える。
本当はもっともっとその存在を感じたいのに、気をつけて触れなければ壊れてしまう気がして、恐る恐る顔を離した。
月影を背にするもみじ姫の表情ははっきりと見れなかったが、戸惑ってはいるが嫌がっているようには見えない。
「離れていた時間が長すぎて、最後の顔が頭に焼き付いて、俺の胸は冬の夜気のように凍り付いてた。もみじの温かさじゃなきゃ、俺の心は溶けないよ。もっと、もっともみじを感じたい――。」
ぎゅっともみじ姫のか細い肩を抱きしめた。
「もみじ、俺のことを好きって言って。愛していると、ただその一言でいい。その一言が俺の生きる糧になる。」
いとおしげに春香はもみじ姫の頬に手を当てた。
「もみじ……。」
もう一度唇を重ねようともみじ姫の顔を覗きこむ。
「くぅ……。」
「もみじ?」
腕の中の温かな存在は心地よさげに寝息をたてていた。
安心しきった顔で自分に体重を預ける姫の顔が愛おしく、しかし大事な一言がもらえずに悔しくある。
春香はもう一度もみじ姫をぎゅっと抱きしめた。
「今だけだからね、もみじ。」
意地悪な笑みを浮かべ、もみじ姫の頬に口付けをする。
「次は寝かせてなんてあげないよ。もっと、もっと君を感じたいんだ。余すことなく、全部ね。」
もみじ姫を寝室まで引っ張るように運び、そっと内大臣邸を後にした。
逃げてばかりはいられない。
子どものように駄々をこねても、もみじ姫が手に入るわけではないのだ。
そう――それ相応の身分と、誰にも口をはさませないほどの大義名分。
「もみじを手に入れるためなら、なんだってするさ。」
寝殿の前に広がる広大な庭の真ん中に立つ。
にやりと自信に満ちた笑みを浮かべると春香は大きく息を吸った。
「おい!バカ宮!出て来い!!」
冬の引き締められた空気の中に高い声が響く。
声に驚き、至る所から使用人が顔を出すが、春香は気にしない。
「なんだい?朝っぱらから。」
寝殿の御簾を捲り、単に衣を重ねただけのだらしない格好で現れた梔子の宮は真っ白な雪の間に、堂々と佇む春香に目を細めた。
昨日、雪に埋もれていた情けない表情はどこへやら、男らしい引き締まった顔で自分を見据えている。
「お前が道楽で俺に手を貸しているのも分かっている。からかって、暇を弄んでるんだろ?」
「ずいぶんな言い方じゃないか。私のお蔭で君はまたもみじ姫とめぐり合うことができたんだよ?感謝して欲しいくらいだよ。」
大げさに手を広げると、梔子の宮は肩を竦めた。
宮の立つ簀の間に向けて、春香は大またで近付いていく。
「それが道楽だって、言ってる。俺を振り回して楽しんでるくせに。」
「ま、否定はしないけどね。」
梔子宮の側まで来ると春香は足を止め、胸を反らし、宮を仰ぎ見た。
年の功には逆立ちしたって叶わない。
それは余裕に満ちた梔子宮の表情とけして敵わない背の大きさに見せ付けられる。
でも……。
瞼に浮かぶ、愛しい人の顔に春香は小さく微笑み返す。
「俺を試してほくそ笑んでいられるのも昨日までだ。遊んでいる暇はないぜ?帥の宮。」
「昨日、私が知らないところで何があったのか気になるね。」
びしりと梔子宮の顔を指差すと春香は傲慢なほど流麗に微笑んだ。
「俺はもみじのために天下をとる。――時は来た。宣戦布告の時だ。」