第34章 夜半の再会・下
「ねぇ、藤波。」
ゆっくりと上げられた顔は月影に照らされてぞっとするほどに恐ろしい。
歪んだ暗い感情が一気に面に現れたかのように見えた。
だが負けじと綾乃もきっと睨みつけ、梔子の宮をびしりと指差す。
「だからって姫を巻き込んでいい理由にはならないわ。いくら春香の君の恋路を応援しているとはいえ、貴方の行動は不可解だわ!」
「簡単なことさ。」
唇をなぞりながら、くくっと喉を鳴らす。
「君は姫の側より私の側にいるべきなんだ。」
遠く、格子の向こうに広がる夜を見つめながら、梔子の宮は行き場を失った手で篠青の狩衣にかかった絹のような黒髪を取り、意味もなく弄んだ。
その手から逃れるかのように、綾乃はじりじりと横にずれる。
背に触れる冷たい格子の感触がなくなり、柔らかな御簾の辺りまで距離をとるように動いた。
梔子の宮は追うわけでもなく、ただぼんやりと遠くを見つめるように綾乃をその目に捉えている。
ただ、掴んだ髪はそのままに。
その姿はまるで、一度途切れた運命の糸を逃がすまいと握り締めているよう。
「私が…姫の側を離れれば、貴方は満足ってこと?」
綾乃は核心に触れようと、言葉一つ一つに力を込める。
「いつの間にか共に過ごした時間より離れていた時間の方が長くなってしまった。君はその間、あの優しいもみじ姫の側で穏やかに暮していたんだろ?私という存在を忘れて、あの日々をなかったことにして…。」
静かに語られる梔子の宮の言葉はどこかうつろに綾乃の耳に響いた。
その言葉をふんと鼻で笑うと、見下すように綾乃は後ろの御簾を開ける。
ほどけるように、梔子の宮の手からその滑らかな髪がすり抜けていく。
簀の間に立ち、綾乃は御簾の向こうにいる梔子の宮と対峙した。
「どうしようもないお子様の発言ね。じゃあ私がもみじ姫の元を離れたら貴方は満足なの?」
「また姿を隠しても、絶対に探し出すよ。君の美しいその髪に触れるために。」
梔子の宮はそっと御簾に手を触れる。
御簾の向こうにいる綾乃に触れるように、いとおしげに。
御簾越しの綾乃は月明かりを背にして、その表情が見えない。
青白い光に包まれ、まるで幻のように夜に浮かぶ。
手を伸ばしても届かないほど遠くにいる錯覚さえ感じてしまう。
「そう。じゃあ、貴方にあげるわ。こんなもの。」
穏やかに、だがきっぱりと言い放たれた言葉。
目の前の光景に梔子の宮は絶句せずにはいられなかった。
さやかなる月の光は庭に広がる雪景色を煌く白銀の世界に変え、篠青の衣を着る人を泡沫の夢幻のように浮かび上がらせる。
そして、その人が右手に握り締めたその凶器にも変わらず月影は降り注ぐ。
「な、なにを…。」
梔子の宮は目を見開き、驚愕したまま綾乃を見つめる。
初めてその鼻をあかしたと自嘲気味に綾乃は笑みをこぼした。
ただただ呆然と梔子の宮が見つめる綾乃の右手。
そこに握られているのは月明かりを受け、冴え冴えと輝く懐刀。
愛しい人は自らの黒髪を握り締め、まるで人質でも取るがごとくその髪に刃を向けていた。
「私が…貴方に対してできる最高の嫌がらせ、かしらね。そんなに驚いてくれるなんて思わなかったわ。」
綾乃は余裕なげに笑みを浮かべた。
「いくらでも髪はあげるわ。私が髪を下して尼になれば、あのお屋敷にはいられない。貴方の思い通りね。」
鋭い刃は冬の空気に触れ、刺すような冷気を放っている。
その凍りつく寒さを近くで感じながら、綾乃はただただ梔子の宮を見つめた。
嫌いな訳じゃない。
むしろ、顔を合わせると懐かしさがこみ上げあの幼い日々を思い出す。
―御簾越しでもないと心が読まれてしまうわね。
貴方はいつだって私の心を見透かし、かき乱す。
綾乃は顔には出ないように心の中で苦笑した。
―貴方に髪を触られるの、そんなに嫌いじゃなかったのにね。
でも、いつまでもしがみついていい感情じゃない。
だから、切り捨ててしまおう。
全てなかったことにするために。
本当は彼の元を去った時点でこうすべきだったのだ。
それがもみじ姫の母君に拾われ、内大臣家で勤めだし、多くの温かみに触れるうちに心が鈍ってしまったのだ。
もう少し、この温もりに触れていたいと思ってしまった。
―でも、もう迷わない。
こうすることが、貴方のためでもあるのだから。
ぎゅっと目を瞑り、綾乃はその手に力を入れた。
全てのしがらみを解き放つように―。
心の中に浮かぶのは温かな綺紅殿。
もみじ姫がいて、母君である故北の方がいて、皆が笑顔で綾乃の名を呼ぶ。
―さようなら、愛しい日々。
祈るような心地だった。
刃が絹糸のような髪に触れた感触が柄越しに伝わる。
しかし―…。
―えっ?
力を込めた刃が固まったように動かない。
驚いたように目を開いた綾乃。
次の瞬間、その目に飛び込んだのは短刀を握り締める梔子の宮の姿―。
その背では力任せに押し破られた御簾がだらしなく、天井から下がっている。
月に照らされた銀の刃先に紅い雫が落ちた。
ぽたり、ぽたりと紅い円が簀に幾重にも広がる。
「な、何を…。」
「ふざけるな!こんなことして、誰が喜ぶと思ってるんだ!!」
刃先を握り締めたまま、梔子の宮が激昂する。
その空気をも震わす心の叫びに綾乃は目を見開いた。
いつも飄々としたこの男が声を荒げる姿など見たことがない。
「は…離して…。」
「離さない!」
「バカッ!血が出てるのよ。指が…。」
「この程度の傷、今まで君に会えなかった時間の苦しみに比べればなんて事はない。指がなくなるなど君がその美しい髪を切ってしまうことに比べれば…些細なことだ。」
目の前の男に、綾乃は戸惑いを感じずにはいられなかった。
真剣に自分を見つめる眼差し。
力強く、自分の手を握り締める大きな手。
―こんな人だったかしら?
夜を映しこんだように深い瞳は今にも泣き出しそうな色を浮かべて揺れ、常に悠々とした笑みを浮かべるその口元は後悔の念に固く結ばれていた。
そして、握り締める両手は痛いほどにきつく、小刻みに震えている。
「何で…。」
理解できない。
そう言いたげに綾乃の口が動いた瞬間――。
「っ―!!」
綾乃の鼻先に濃厚な夏の香りが触れた。
柔らかな感覚と熱い吐息。
激しい勢いで口を押さえられ、綾乃は混乱に混乱を重ねた。
―なんで?
そう言葉が出る前に、勢いのまま二人は床に倒れこんだ。
青白い月光が暗闇に包まれるがごとく、篠青の衣の上に鈍色の衣が重なる。
温かな重みを感じながら、抵抗することもできずに綾乃は勢いに身を任せた。
月のさやかさに照らされながら、ゆっくりと落ちてゆく。
ドスン―。
神聖なまでな静謐な夜を震わすがごとく、月光に輝く雪の間に鈍い音が響いた。
それを合図に凍りついた雪が触れ合ったような高い音をたて、二人の間に紅く染まった懐刀が落ちる。
「ただ…君を感じたかっただけなんだ…。」
真っ赤に染まった手をそのままに、梔子の宮は夜空に浮かぶ月の船を仰ぎ見た。
その目から、一滴の涙が流れたように見えたのは、綾乃の気のせいだろうか。
まるで今宵の月のように頼りなげな一縷の涙。
人の世に変わらずに降り注ぐ月影。
下界の人の心なぞ知る由もなく変わらずにあり続け、刻一刻と姿を変えていく。
時は―どんなに願っても止められない。
人はただ、あるがままにその時を受け入れなければならない。
その中でただ―必死に手を伸ばし続ける。
大事なものを得るために。
「いいことを思いついた。」
消えかかりそうな月がゆっくりと東の方へと移っていく。
じっとその月を見つめながら少年は一人、せせら笑った。
「宣戦布告だよ。――春香。」