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コイハナ〜恋の花咲く平安絵巻〜  作者: 秋鹿
もみじ愛ずる姫君
32/75

第31章 夜更けの訪ね人 

ここからは少しばかり、梔子の宮全快でお送りします。

梔子の宮の変態っぷりに引かないでいただけたらと思います。

 冬の宵は早く、空は忙しなくその色を変え、あっという間に夜の帳に包まれる。

 暗くなった屋敷にはかがり火が焚かれ、夜闇がうっすらと浮かび上がる。


 時折火の爆ぜる音のみが雪に響く以外、何も物音のしないその屋敷は梔子の宮のもの。

 屋敷の中心にある母屋の格子は全て下されていたが、一部だけ空を見上げられるように格子も御簾も上げられている。

 その御簾が上がった先では梔子の宮が一人、頼りない灯台の火の下、高杯に盛られた漬物をさしみに酒を飲んでいた。

 深い夜に浮かぶ月が母屋の中からでも見上げることができる。


 あの騒ぎの中、そっと抜け出すように自分の屋敷に戻ってきたが、案の定春香の姿はなかった。

 怒って、別の場所に行ってしまったのだろう。


 ―母君のところか?それか彼の父親のところか。


 しかしそれはありえないだろうなと、一人ごちながら、酒をくいっとあおった。


 ―大方、この屋敷のどこかに姿を隠してるんだろうけど…。


 上げられた御簾の向こう、暗い夜に浮かぶ月夜を仰ぎ見ると、感傷的にため息をついた。

 だらしなく襟元が緩んだ直衣は黒と見まごうばかりの濃い鈍色。

 烏帽子からはだらしなく後れ毛が出、はらりとその肩にかかっている。


「少し…からかいすぎたかな?」

 

 自分の今日の行いを自嘲するように俯き、眉を寄せた。

 あの、幼いが故のひたむきさに心惹かれると同時に妬ましさを感じずにはいられない。

 彼が自分の手でその幸せを手に入れようとするその姿が目映く、酸いも甘いも知った大人の後ろ暗い顔が顔を出して、真っ白な少年に教えてやりたくなるのだ。


 ―現実は、そんなにうまいものじゃない…


 と。

 

 苦笑するように眉を寄せた時、さわさと衣の擦る音がした。

 簀の間に女房が一人現れ、畏まったように頭を下げる。

「恐れながら申し上げます。右近中将様の使いの者がお目通りしたいと申しております。」

 淡々と用事を伝える女房はじっと頭を下げたまま、梔子の宮の言葉を待った。


 ―あの秘め事のことで急ぎの用事もあるまい。あるとしたら、今日の一件か…。


 額に指を当て、梔子の宮は大げさにため息をついてみせた。

 もみじ姫が空を飛んだ話を聞いて、梔子の宮に一言苦言をということだろうか。


 ―私がもみじ姫の衣を踏んだことがばれたかな?


 梔子の宮が衣の裾を踏んだ所為で、もみじ姫の均衡が崩れてつんのめってしまったのだ。

 それを狙って踏んだのだが、あんなにも華麗に空を飛ぶとは梔子の宮も思わなかった。


 ―姫には少しばかり、失礼なことをしてしまった。


 それでも、手に入れるべきものを前に躊躇などしていられない。

 

 ―手に入れるために暗躍するとは、こういうことだよ?春香君!


 にまりと思い出し笑いを浮かべると女房の方に持っていた扇を向けた。

「まあいい。通してくれ。」

 のんびりと答える梔子の宮に女房は言葉なく頷き、その場を後にした。


 程なく、篠青の狩衣に身を包んだ中将の使いが女房の先導に従いやってくる。

 月明かりに照らされた簀をゆっくりと歩いてくる使いの姿はか細く、顔こそ夜が深く見えないが、神妙な面持ちであることは手に取るように分った。


 ―やれやれ…相当のお怒りということですかな?


 廂の間に案内された使いの姿を見て、梔子の宮は無意識のうちに笑みを浮かべていた。

 廂に卒なく膝をつく使いの姿を確認すると梔子の宮は立ち上がり、女房に持っていた扇を向ける。

「私は使者殿からお小言をもらわなくてはいけないようだね。君、少し人払いをしてくれたまえ。」

「畏まりました。」

 そう言って、女房がその場を後にする。

 二人に背を向けた女房に梔子の宮は何かを思い出したように声をかける。

「そう―夜も深い。そこの御簾を…下していってくれ。」

 にやりと微笑んだ梔子の宮の思惑など感じず、女房は一礼し、素早く月の光を閉ざした。



 相対した二人を照らすのは母屋の灯台のみ。

 ささやかな月影が御簾越しに降り注ぐがあまりに頼りなく、闇に吸い込まれる。

 畏まり梔子の宮の言葉を待っている使いの者を宮はじっと見つめた。


 狩衣に包まれたか細い肩、細い首筋が薄明かりに色っぽく見える。

 無表情のまま、彼は思案するように唇をなぞるとおもむろに口を開いた。


「ややこしい、小芝居は抜きにしようか―。愛らしい使者さん。」


 


 内大臣家の綺紅殿ではもみじ姫が一人、夢の中にいた。

 目を回し、そのまま夢の世界を漂っていた姫は白く煙る靄の中で子ども泣き声を聞いた。


 え~ん。

 

 小さな子どもの、押し殺したような泣き声。

 五つばかりの幼子が大きな木の幹の下に腰掛けている。


 ―わたし、この光景どこかで見たことあるような…。


 そう思っている間に、さあっと情景が白くあせてゆく。


 ―夢って、本当に唐突に場面が変わるのね。


 変なことに感心している間にももみじ姫を包む環境は目まぐるしく変わる。

 

 「あっ。」

 

 やっと開けた視界の先に、綺紅殿を見つけ、もみじ姫は息を飲んだ。


 夢でもいい。

 会いたいと何度思ったことだろう。

 しかし夢でも会えなかった愛しい人。

 今宵の夢もまた会えそうにない。

 そればかりか、一番胸を締め付ける情景がその目の前には広がっていた。


「これは…お母様の…いなくなった時…。」


 綺紅殿の簀の間で、呆然としたまま動けないでいるのは幼い日のもみじ姫。

 童姿の髪には唐紅の鮮やかな紐が結ばれ、桜の単に広がっている。

 もう、春はそこまで来ているというのに、穏やかな大空からは音もなく雪が降り続け、庭の木々はその蕾を固く閉ざしている。

 とめどなく溢れる涙を拭いもせず、幼いもみじ姫はただただ泣き続けた。

 愛しい母の名を呼び続ける。


 ―ああ、あの日から、この屋敷の桜は咲いたことがないんだった。


 桜の花びらがとめどなく散るがごとく、麗らかな日差しの下に無常に舞う粉雪。

 あの日からもみじ姫の心には雪が積もったまま。

 春を知らない枯れ木のような桜木と同じく、花を咲かせることはない。


「お母様…。」

 幼い自分が痛々しく、もみじ姫は目を背けた。

 その瞬間、冬に包まれたそこに春の香りが駆け抜けたような気がした。

「…から。だから…泣かないで。」

 幼い声がか細く、しかし、しっかりともみじ姫の耳に届いた。


「えっ?」


 驚きと共に、振り向こうとした瞬間、目の前に広がったのは闇。

 いや、目が慣れてくるとそこは見知った綺紅殿の中であると気付いた。

「あ、わたし…。」

 夢との境が分らずに混乱するもみじ姫。

 見上げる視線の先で何かが動いたように感じた。

 暗闇に慣れた目が映し出したのはもみじ姫を心配げに見下ろしている虫の乳姉妹だった。

「ひぃ様!」

「よかった!!本当に心配したんですのよ!!」

 二人は涙を浮かべながら、ゆっくりと身を起こしたもみじ姫に抱きついた。

 おいおい泣く二人に戸惑いながら、もみじ姫はその温かみに、はにかむように微笑む。

 そして何かを気付いたかのように首を傾げた。

 

「綾乃は?」




 その言葉を切欠に顔を上げたのは、強張った表情のまま口を固く結んだ女性。

 烏帽子に髪を隠し、遮るものもなく露になった美しい顔に、梔子の宮は自分の心臓が早鐘を打つのを感じた。

 

 いつの間にか、幼さを残した顔はしっかりした大人の女性に変わっていた。

 しかし、それでも一目見るだけで愛しいその人だと分ってしまう。

 顔を上げ、きつく自分を睨みつけるその人は何年経っても変わらない凛とした魅力に包まれている。


「貴方に…言いたいことがあって来ましたの。」


 その声に、香りに、何度夢見て、心震わせただろう。

 甘い言葉を期待しているわけじゃない。

 どんなに蔑まれようと、自分に向かって放たれた言葉が狂おしいほどに愛おしい。

 梔子の宮は心の奥で静かに燃え盛る炎を押さえ、微笑んだ。


 ―やっと出会えたね、藤波。



 

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