第30章 開かれた天の岩戸
「あの、梔子の宮様!!そうじゃなくて、あの…男の子が…!」
一生懸命に自分の思いを伝えようとするもみじ姫。
ふふっと笑う帥の宮は思案げに首を傾げた。
「男の子というと…もみじ姫は私の文使いのことをおっしゃているのですか?」
「はいっ!そうなんです!」
やっと意思の疎通を図れたもみじ姫は若干疲れた面持ちで、しかし帥の宮の言葉に希望を見出し、前に乗り出す。
「あの子がどうかした?こちらのお屋敷で何かご迷惑でも…。」
「そ、そんなことありません。あの、わたし…。」
「ああ、そういえば…。」
思わせぶりに帥の宮は言葉を切ると、そっと庭の方に目を向けた。
「へっ?」
もみじ姫もつられて、そちらに顔を向ける。
「ふふっ…もっと、こっちに来て。ほら、庭の方を覗いてごらんなさい。」
帥の宮はそっと御簾の下に扇をいれ、もみじ姫に簀の間の向こうが見えるようにしてやった。
言われるままにもみじ姫は身を乗り出す。御簾の向こう、木の陰に人影が見えた。
小柄なその姿は…。
「ああっ!」
その姿にもみじ姫の姿の表情がぱっと明るくなる。
ずっと求めていたものがそこにいた。
もみじ姫は感情のままに御簾の外に飛び出した。
白い庭に浮き上がるように見えるのは鮮やかな花色の水干姿―。
「春香君!」
胸が裂けそうなほど、心臓が飛び跳ねる。
―また、会えた!
ぱっと開いた御簾の向こうから弾けるような微笑みを浮かべたもみじ姫が現れた。
こちらを向き、今にも駆け寄ってきそうな雰囲気である。
春香は頭で考えるよりも先に行動していた。
体が自分の求める方へと進む。
「もみじ!」
そう叫んだ先、今にも庭先に下りようと階段の辺りまでもみじ姫が駆けて来る。
周りで慌てたようにもみじ姫を止めようと女房達がうろたえているが、もみじ姫は一向に気にしていない様子。
ただ、春香にだけ意識がいっていると思うのは春香の自意識過剰ではないはず。
しかし、そんな二人の姿に簀の間に腰を下していた帥の宮の顔が意地悪く歪んだ。
黒い笑みが顔を覗く。
「このまま、運命の再会?それではあまりに生ぬるい。」
その呟きは誰の耳にも届かない。
「筋書きは劇的に。その方がずっと面白い。」
すっと立ち上がった帥の宮。
ばたついたその場では、誰も彼の同行に注意を払っていない。
「春香君!!」
やっと出会えた喜びに、もみじ姫は大きな声で叫んだ。
姫らしくないと綾乃に怒られてもいい。
先のない思いでもいい。
ただ会えたことがこんなにも嬉しいのだから。
だから、手遅れになるまでに、自分の感情を素直に告白しなくては…。
後、少し。
春香が階段辺りまで駆けて来る。
その顔は澄ました大人っぽい表情ではなく、少年らしい余裕のない表情。
ただただ、お互いに互いを見つめ、体が動くままに駆ける。
もう数歩進めば、お互いの手が届くまでの距離にまで来た。
もみじ姫が階段に足をかけようとした時。
ぐいっー。
「え?」
後ろに引っ張られるような感覚。
なんだろうと、思っている間もない。
次の瞬間。
「きゃああああ~!!!」
もみじ姫の体は空に浮いていた。
美しい衣が下からの風を受けて、まるで羽衣のように浮かび上がる。
もみじ姫の黒髪が地を離れ、思い思いに空に舞う。
「もみじ!!」
春香が素早く手を伸ばすが、階段でつんのめったもみじ姫の体はそう簡単には止まらない。
―ぶつかる!!
もみじ姫がぎゅっと目を瞑った。
春香はもみじ姫を受けとめようと精一杯手を伸ばす。
ドスン―。
雪の柔らかな上に二人で倒れこんだ。
春香の小さな体では自分より大きなもみじ姫を受け止めることなど到底不可能。
二人して雪を被り、雪の中にめり込んだ。
「も、もみじ…。」
春香が心配げにもみじ姫の顔を覗きこんだ。
しかし、もみじ姫は落下に動転し目を回しているようで、意識がはっきりしていない。
助けなければ…。咄嗟に自分の上に被さったもみじ姫をに抱き上げようとした。
が、春香が腕に力を入れてももみじ姫を抱き上げることなど出来ない。
「くっそ!」
自分の非力に舌打ちをし、更に腕に力を入れる。
春香には諦めるなどという選択肢はないのだ。
「ふふっ…。自分より大きな人を持ち上げるなんて、人間には無理だよ。」
悪戦苦闘する春香の側に帥の宮が降り立っていた。
必死に自分の大切な人を守ろうとする子どもを見下すかのように見下ろし、その薄い口元に笑みを浮かべた。
「君は何もできない子どもなんだ。そう、口先だけで人を惑わすしかできない、ただのお子様。」
その言葉に弾かれたかのように上を見上げた。
眩しい日の光を受け、帥の宮の意地悪い笑みが見える。
「お前に…。」
春香が叫ぶその前に、帥の宮はいとも簡単に気絶したもみじ姫を抱き上げた。
「お子様の主張は後で聞こう。―今は、もみじ姫の方が大事なんでね。」
にやりと口元を歪ませ、帥の宮はもみじ姫を抱きかかえて、階段を上っていく。
ただ見つめるしかできない春香。
呆然と離れていくもみじ姫を見つめる。
全てを奪われたような、悲しい顔は色もなく、ただただうつろに見える。
「早く、床の準備をして。鈴虫、お医者を呼びなさい!他の者は梔子の宮から姫を受け取って!」
「はい!綾乃様!」
よく通る綾乃の声が冷たい回廊に響いた。
簀の間では女房達大童。
綾乃の的確な指示の元、皆が慌てふためいてもみじ姫と姫を抱える帥の宮を迎える。
帥の宮からもみじ姫を受け取り、女房達は皆、御簾の奥へと入っていく。
残されたのは階の上の帥の宮と雪の中で未だ動けない春香のみ。
冬の冷たい風が駆け抜け、春香のみずら髪を揺らし、帥の宮の狩衣の袖をはためかせた。
風に運ばれる香りは狂おしいほど濃厚な夏の香りばかり―…。
雪に濡れた春の香は夏に負けて、影を潜めている。
「これが現実というものだよ。春香君。どんなに求めても、運命の悪戯で大切な人は目と鼻の先で奪われる。全てが自分の思い通りにいくなんて、勘違いもいいとこだね。」
「…。」
「さあ、地に下りることを決めたのは君さ。寒月宮の非力な兎さん。どうやって、秋の竜田姫を手に入れよう?」
無常に降ってくる言葉に、春香は何も言い返せず、ただ唇を噛んだ。
「なんなら、私がもらってしまおうかな?」
その言葉に顔を上げた春香の情けない顔を帥の宮は悠々と見下ろした。
「くっ…。」
春香は帥の宮から顔を背けるように立ち上がると、来た道を駆け出した。
どうしていいか自分でも分からない。
自分の力のなさをまざまざと見せ付けられ、自尊心を傷つけられた。
しかしそんなことよりも春香の心にうずく思い。
―もみじを守れなかった。
悔しさが胸の奥から苦い思いとなってにじみ出る。
暗い感情を打ち消すように、何も考えないでいれるようにひたすら、力の限り走り抜けた。
苦しいほどに息が上がっているのに、体は怖いくらい血の気が引いていく。
―もみじ…。
心に浮かぶのはただただ、自分の方に笑みを向ける愛らしい姫の姿。
この手で守りたかったのに。
何も出来ない自分が口惜しい。
過ぎ去りし、春の香の童をじっと見つめ、帥の宮は一人ほくそ笑んだ。
「青いな~。なんにでも必死になる。」
だからいじめたくなる。何でも手に入ると驕り高ぶる少年に現実の辛さを教えてやりたくなるのだ。
「ふふっ…手に入らないから愛おしく、そして全てを犠牲にしてまで手にいれたくなるんだ。」
ゆっくりと御簾の方を向き直る。
御簾のうちではまだ、ばたばたと女房達がもみじ姫の世話を焼いている。
その中で一人、女房達の指揮を執っている凛々しい女性を見つめ、帥の宮は目を細めた。
「もみじ姫は最高の踊り子だったようだね。春香に、姫、二人の思いを砕いてまで用意した舞台だ。」
帥の宮はにやりと満足げに笑みを浮かべた。
思い出すはもみじ姫が階段から落ちた瞬間。
勢いよく開いた御簾の向こうから顔を出したのは、ずっと捜し求めていた愛しい人。
揺れる黒髪の向こうで、憎憎しげに自分を睨みつけた美しい顔。
すぐに御簾の向こうに隠れてしまったが、日の光に照らされたあの人の顔が今も強烈に帥の宮の頭に焼きついている、。
「天の岩戸がやっと開いた―…会いたかったよ、綾乃。」