第2章 雲のあなたは春にやあらむ
「はあ。」
白銀の世界を前に感慨ふけるようにため息をついたのはもみじ姫。
自分の部屋の前の簀の間に座り、高欄に両手を置いて座っている。
「冬ながら空より花の散り来るは
雲のあなたは春にやあらむ
本当に花のように雪を降らす雲の向うは春なのかしら?」
もみじ姫は清原深養父の歌を小さな口で諳んじ、小首をかしげた。
もみじ姫らしくない、普通の姫ぶりはけして病気などではなく、綾乃のせい。
今朝は早くから説教込みの和歌の授業だったのだ。
暗記させられた歌がもみじ姫の頭をぐるぐる回り、少し頭を冷やそうと本当は出てはいけないといわれている簀の間に降り、雪に埋まった庭を見やる。
「思いつつ…あれ?何だっけ?」
その時、ガサリと音がして、綺麗に整備されている庭の木々の間から一人の童が現れた。
緑に黒々とした髪を首の後ろで結った、淡い花色の水干姿のその童は、もみじ姫に気付くと少し驚いた顔をしたが、すぐに艶やかな笑みを浮かべた。
もみじ姫もつられて笑い返す。
童は庭の木々を掻き分け、もみじ姫のいる簀子の前にやってきた。
そして、高欄に手をかけているもみじ姫を見上げる。
童はその鮮やかな色の袿に、美しい黒髪に付いた淡雪を払うと可愛らしく小首をかしげた。
その一挙手一挙動が洗練されいる。
「思いつつ寝ればや人の見えつらむ
夢だと知りせば覚めざらましを
小野小町の歌だね。」
童の弾むような愛らしい声に聞きほれるように、もみじ姫は事態がよく分からずポカンと童を見詰める。
「お姉さん、あなたにも夢に出てくるほど恋しく思う人がいるの?」
この歌の解釈は、思いながら寝たので、あの人が夢に現れたのかしら?夢だと分かっていたら起きなかったのに…。というもの。切ない恋の歌。
「うん。夢でもいいから会いたい人はいるわ。」
ぽわんと笑うもみじ姫に童は少し驚いたように目を大きくした。
「誰?」
「お母様。亡くなってるから。」
恋の歌ももみじ姫にかかると家族愛に変身してしまう。
しかし、もみじ姫のその気持ちは分からないでもない純粋な気持ち。
「ねえ、あなたはどうしてこんなところにいるの?そこは寒くない?」
もみじ姫は手を伸ばして、優しく童の頭を撫でた。
そして、階段を指差す。
「階段の上なら少しでも雪から離れて寒くないかも。」
寒い地面から少しでも温かい場所へ。
もみじ姫の優しい気遣いは、普通の姫らしからぬ言葉で、童は少しビックリした表情をする。
普通の姫はこんな簡単に童といえど、どこの誰とも分からない者を屋敷には上げない。
その前に、姫は簀に一人でいたりはしないんですがね。
「他に誰もいないの?」
もみじ姫が大きく頷くと安心したように童は元気に階段のほうへ走っていった。
綾乃も他の女房も、色々と忙しく、姫の傍を離れていた。
だから、もみじ姫は怒られことなくこんなところでぼけっとしていられるのだ。
階段の一番上にちょこんと腰掛けた童を見て、もみじ姫は微笑みながら童の傍に同じように座った。
―可愛いなー、九つか十ぐらいかしら?
「ここのお屋敷大きいね。僕、迷っちゃった。お姉さん、ここどこ?」
童の大きな瞳がじっともみじ姫を見る。
「ここ?ここ綺紅殿。西の対の更に西にある対屋なの。」
普通の寝殿造りは寝殿を中心に北、東、西とそれぞれの方角に対屋があるのだが、ここ内大臣邸は東北の対屋とここ、西の対屋の付属の、西西の対屋と呼べばよいのか、対屋がある。
内大臣邸オリジナルということ。
なんでも内大臣が亡き北の方のために造らせたもので、赤色の好きな亡き北の方に因んで、綺紅殿と名づけられ、様々な赤に彩られた対屋になっている。
そして、今、この綺紅殿はもみじ姫の部屋。
「綺紅殿…。素敵な名前だね。その名の通り、赤がとても素敵。」
「えっ?」
「だって、庭には山橘の赤い実が、山茶花の紅い花が咲いている。それに…。」
童は言葉をきって、もみじ姫を見詰めた。
あまりにじっと見詰めてくるものだから、もみじ姫のほうが落ち着かない。
「ど、どうしたの?」
「ううん。なんでもない。ところで、ここでお姉さんは何をしているの?」
童はごまかすように首を横に振り、ニコリと艶やかな笑みを浮かべる。
「え?なにってわたしはここで…。」
何も考えずにぼけっと答えようとしたもみじ姫が、何かに気付いたように言葉を止めた。
ここはわたしの部屋。確かに間違いではない。
もみじ姫の脳裏に綾乃が現れた。
「いいですか?姫君。普通の姫というのは簀子でぼけっとしていません。ついでに言うと子どもであろうと御簾越しに気配を窺わすもの。顔を合わすのなんて言語道断。よろしいですね。」
―はい。
もみじ姫は素直に心の中の綾乃に返事をした。
「どうしたの?」
「な、なんでもない。ここは…えっと中の君のお部屋なの。」
「中の君?」
「う、うん。」
自分が中の君であることがばれないように、もみじ姫はしどろもどろになりながら言葉を紡ぐ。
さすがはもみじ姫。
本当のことなのに、とてもうそ臭い。
根が素直なもみじ姫は、嘘をつくことはもちろん、演技なんてしたことない。
しかし、童はもみじ姫の言動の危うさを気に留めたりはしなかった。
「ふ〜ん。で、お姉さんは?」
「わ、わたし?わたしは…女房です。うん、そう、中の君の女房。」
もみじ姫は苦し紛れに笑う。
「そう。」
「そ、それはそうとあなたは?どこの子?どうしてここに?」
普段、地震が来てもぼけっとしているもみじ姫が珍しく、慌てている。
「僕?僕は御文の使いで来たんだ。この恋文を愛しい君へ渡しってくれって我が君がね。」
童は水干の胸元から黒い、見るからに手のかかる細工のされた木箱を出した。
「恋文?」
「そう。でも、相手の女君が分からないんだ。で、我が君にお聞きした情報を手がかりに歩いていたんだけど迷っちゃて。」
童は困ったように肩を落とした。
「う〜ん?北の対の小君ちゃ…様かしら?それとも、北東の対の撫子ちゃ…姫かしら?あなたのご主人はなんて?」
もみじ姫は自分のことのように真剣に悩みだした。
異母妹の姫や従姉妹であり、北東の対にいる一つ上の姫のことを考えていた。
二人とも筝の琴や気色の美しいことで都で噂される美姫である。
毎日のように、都中の男君からの御文が届く。
おかげで、もみじ姫はその存在自体あまり知られていない。
「そ、それとも北の方様かしら?それはちょっとダメねぇ。お父…内大臣の殿がいるから…。それとも、どこかの女房…。」
「クスクス。なんで御文の相手に中の君は上がらないの?お姉さんの主人でしょう?」
自分に恋文が来たことないもみじ姫は、童に言われて初めて気付いたかのように頬を赤く染めた。
「そ、そうね、でも、あなたのご主人は都の噂を聞いて御文を書かれたなら、中の君のわけないわ。だって、都で噂に上る長所もないし。」
「変な人。自分の主人を謙遜するなんて。普通の女房は十割増しに言うのにね。」
「そんなもの?」
「そんなものだよ。来て何ぼの恋文だよ。」
童の、大人の事情を知っての言葉に、自分も綾乃たちが必死にないもみじ姫の長所を飾り立ててくれているのかと感慨深げに思った。
―あまり、大きく言うと嘘だってばれてしまうから、ほどほどにしてもらおう。
「どんな女君?筝の琴がお上手?それとも撫子の花のように可憐な方?」
気を取り直して、もみじ姫は聞く。
「それが、あまりに抽象的で…。僕の主は性格が悪いんだ。変に風流人を気取るから、肝心なことはなにも言わない。」
童は自分主を思い出したのかぶすりとした。
「あなたも、自分の主人なのに。」
もみじ姫が辛口の童の言葉にくすりと笑った。
童は小さく舌をだし、いたずらっ子ぽく肩をすくめた。
「内緒ね?僕もお姉さんのこと内緒にしておくから。」
二人は顔を近づけて笑った。
「もうよくわかんないから、もういいや。今日はその人の気配の一つでも窺ってきてほしいって言われたんだ。ここまできたら、窺ったも同然だよね?」
「それはわからないけど…。でも、わたしも協力するから、どんな方かもう一度訊いていらっしゃいな。」
もみじ姫はニコリと笑った。
「お姉さん、とても優しいね。」
童は真面目な顔でもみじ姫の顔をじっと見詰める。
ドキリとするほど深い瞳。
長いまつげ。
幼さを残しつつ、でも男らしい鼻筋。
童の手がそっともみじ姫の頬に触れる。
撫でるように手は口元まで下りていく。
そして、童の口がもみじ姫の顔に近付き…。
童から目の離せないもみじ姫はただ、状況が飲み込めずじっと童の瞳に吸い込まれるように見詰める。
後、少し。
口と口とが触れるか触れないかの距離まで二人の顔は近付く。
−どうしよう。
さすがのもみじ姫も驚くやら、この事態から少しでも逃げようと考えるが、童の瞳はもみじ姫を捉えて離さない。
―あっ、ダメ!
もみじ姫はぎゅっと目を瞑った。
こつんー。
二人の額が軽くぶつかる。
「お姉さん、冷たい。」
童はいたずらっぽく笑った。
子どものすること。
もみじ姫もつられて笑ったが、動揺は隠せない。
子どもとはいえ、どこか大人びた魅力のある童に、家族ではない男の子とこんなに顔を近付けたことのないもみじ姫はどきりとする。
「ず、ずっとここにいたから冷えたかな?」
「でも、顔赤い。」
「そんなことっ。」
無邪気な笑みを浮かべる童。
もみじ姫はさっきまで童に触られていた自分の頬に手を当てた。
冷たい手がじんっと熱くなる。
もみじ姫は被りを振り、自分の動揺を払うように強張った笑みを浮かべた。
その時ー。
くしゅんっ!
童は小さくくしゃみをした。
「まぁ寒いの?そうよね。そんな水干姿じゃ…。」
もみじ姫は心配げに童の頬に触れた。
ずっと雪の上を歩いて来たのだろう。冷え冷えとした肌が痛々しい。
いつも周りにかしずかれて、甘やかされてきたもみじ姫はこどもの世話など焼いたことなんてもちろんない。
むしろ、童よりこどもっぽいもみじ姫。
あわあわと狼狽える。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫だよ。気にしないで。」
童は少し恥ずかしそうに手を振った。
さきほどと打って変わってこどもらしい。
「あっそうだ!」
何かを思いついたようにもみじ姫は嬉しそうに笑い、自分の羽織っていた衣を数枚、童にかけた。
淡い青が鮮やかな、花色の水干に白と淡い赤が重なる。
まるで雪の下の雪解け水と春を告げる紅梅のよう―。
「これで少しはましかしら?」
もみじ姫は満足そうに頷く。
童は驚き、じっと自分にかけられた衣を見つめた。
「あ、ありがとう…。」
照れて年相応に見える童の言葉に、もみじ姫はふふっと笑う。
そんな二人の傍を冬の冷たい風が緩やかに通る。
「あら?」
どこまでも凛とした冬の風にもみじ姫は淡い春を感じた。
「あ、あなたとってもいい香りがするね!」
童の水干から、首の後ろでくくられた黒髪から淡い香の香りが漂ったのだ。
甘く、淡く、どこか涼やかな―まるで春の夜に香る花々のよう―
うっとりと、人を春の夢に酔わすこの香は、かなりの薫物の手で造られたと思わせる。
「鼻がいいんだね。僕、今日は香を薫いたりしてないのに…。」
もみじ姫の言葉に童は少し目を見張り、しかしすぐに無邪気な笑顔を浮かべた。
「とてもいい香りね。まるで、早春に咲く愛らしい花々のよう。この香を合わせた人はとてもお上手ね。あなたのご主人様?」
「…この香り気に入った?」
「ええっ。」
もみじ姫は素直に頷いた。
「この衣、お姉さんの香りが移ってる。」
童は袖に顔を埋めるように、衣に頬を寄せ目をつむった。
色っぽく、艶やかな仕草。
「残り香に別れを惜しむなんて、まるで一時の逢瀬に終わりを告げる朝のよう―。お姉さんが、衣をくれたなら、僕も何か残さないとね。」
童はすっと自分の髪を結っていた紐を解き、もみじ姫の長く艶やかな髪を一房手に取った。すっともみじ姫の髪に口を近づけ、髪に口を寄せる。
そして、どこまでも吸い込まれそうな瞳で魅力的にもみじ姫を見つめる。
―どきりっ。
もみじ姫の心が驚いたように弾んだ。
「僕に残せるものはこれぐらい。白き雪に囲まれたあなたに春の息吹きを。」
もみじ姫の髪を緩やかに結うと、いきなりもみじ姫を抱き締めた。
そのまま童の勢いに簀子に倒れ込む。
がたんっ―。
もみじ姫よりも小さなはずの童だが、力はやはり姫よりも上。
「きゃあっ!」
さすがのもみじ姫もいきなりのことに可愛い声をあげた。
「香りを移したんだ。」
もみじ姫の上にのしかかるように、倒れ込んだ姫を上から見下げる。
「姫っ!何事ですか!」
二人の倒れた音が、雪に響いたのか、遠くから心配げな綾乃の声と衣をする音がした。
「あら、残念。短い逢瀬だった。」
童は小さく舌を出し、笑った。
そして、なんだか分からないという顔で起き上がるもみじ姫の耳元で囁いた。
「後朝の歌を―。
ひさかたの光まぶしき夢なれや
君ぞ愛しき雪解けの花」
そういい残すと童は素早く階段を駆け下り、白い衣を被って、雪の間に消えていった。
一人簀子の間に残されたもみじ姫は早鐘を打つ心の臓をぎゅっと抑えて、ただただ雪の向こうに消えた春の香りの童を追っていた。
「な、何だったの?雪の精のいたづら?それとも春を思って見た夢だったのかしら?」
囁かれた耳をぎゅっと触ってみる見る。
―この熱さは夢ではないわ。
「姫っ!どちらにおわします?ご無事ですか?」 勢いをつけ駆けつける綾乃はもみじ姫を見つけると、とりあえずは異変なしとほっと胸を撫で下ろした。
「どうなさいましたの?まぁ顔があこうございます。ずっとこんなところにいるから、変なものが入り込んで、悪い気のせいで風邪を召されてしまうのですよ!」
さあさあと綾乃はもみじ姫を引っ張るように母屋に入れた。
「もうこんなに冷やして!」
「う、うん。」
急かされるまま、もみじ姫は御簾の向こうに入った。
そんな二人を庭の木々の間から童はそっと覗いていた。
「本当に可愛らしいな〜もみじ姫。その愛らしさに免じて今日はここまでで留めといてあげる。」
先ほどまでの愛らしい顔には、聡いと言うより小賢しい色が浮かぶ。
「雲のあなたは春にやあらむ。大丈夫だよ。春はもうそこまで来てる。―この春は、夢なんかで終わらせない。」
悠々と自信に溢れた笑みが童から零れる。
「それまでは気づかない振りしててやるよ、お姉さん!」