第28章 白露の色はひとつをいかにして
―完璧など、この世にはありませんのよ…。
撫子姫の言い切るような言葉をもみじ姫は理解するまでにかなりの時間を要した。
あまりにきっぱりと否定されてはもみじ姫も調子が狂うというもの。
先ほどまでの腰の低さなど感じさせない、意思に溢れた微笑をきょとんと見つめる。
「人は完璧でないから、美しいのです。迷い、悩み、苦しみ、そうやって自分を磨くものです。日々変化するのが人の美しさ。ふふっ…今のもみじ様も以前お見かけした時より、一層匂い立つようで…美しい。」
「撫子ちゃん?」
そのしっかりとした口ぶりにもみじ姫は目をしばたくばかり。
「あら、私としたことが出すぎた真似を。どうかお許しくださいませ、もみじ様。」
はたと気付いたかのように、撫子姫は扇を広げ、恥ずかしげに扇のうちに顔を鎮めた。
「えっと、出すぎた真似なんて、そんな!とっても高尚なお話で…流石撫子ちゃんだと思いました。」
「高尚などと…。…ただ、私にも思うことがございまして。父母を亡くした折、悲しみに身が縮れそうになり、何度も袖を涙で濡らしました。このまま一生涙を流し続けるのだと思っておりました。」
悲しげに言葉を切る撫子姫にもみじ姫はどう声をかければいいか分からなかった。
でもその姫の気持ちは痛いほどに分るものだった。
だってもみじ姫も母を亡くした過去を持っているのだから。
「あの、撫子ちゃん…。」
「ですが、今私はこうやってもみじ様と向かい合って微笑むまでになりましたのよ。それは一重に、もみじ様、貴女様の優しいお心使いがあってこそ。いつだって私を気遣い、お文を下さったり、物語をお貸しくださったりと心を賭していただいて。貴女がいて、今の私があるのですわ。」
扇の陰より微笑を浮かべるその顔はもう元の撫子のような儚さに戻っていた。
「…そう言ってもらって…あの、嬉しいです。」
淡々とした撫子姫の言葉に、もみじ姫は何故だか動揺が止まらなかった。
もみじ姫も親を失う嘆きを経験した身。
そして、撫子姫のように立ち直ったはず…。
―違う。
わたしはまだ、あの頃のまま。
お母様がいなくなった、あの冷たい季節のまま―…。
その心は未だ、冬の吹雪の中。
春を迎えることなく、木々の蕾も固く結んでいる。
―わたしは、怖いんだ。
大切な人が増えるのが…。
大切な人と別れなければいけない現実が…。
だからあの春の香りに酔いそうになっても、心の奥底で凍りついたままの、淀んだ後ろ暗い思いが影を出す。
―いつかは別れの時が来るのよ。
貴女が変わるたび、大人になるたびに、別れはやってくる。
でも…始めから冬の寒さの中にいれば、春のよさを知らずにすむわよ。
と。
どくん―。
もみじ姫は嫌な動悸を覚えた。
「そんなもみじ様だから申し上げるのです。大切なものを見誤ると、後で後悔することになりますわ。」
「後悔…。」
「本当に大切だと気付いた時、もうすでに手遅れ―…。そんなこともございます。私も後悔が尽きぬ思いです。私はもう父母と同じ所に立つことはありません。だから、せめて一緒にいた時に、素直な心で一緒にいれたことの感謝を伝えれていれば…と。」
「手遅れ?」
撫子姫の言葉はもみじ姫の心の奥底に、まるで刃のように突き刺さる。
「花よりも人こそあだになりにけれ
いづれを先に恋ひむとか見しー…。
まだ咲かぬ春の桜より、人は儚い身ですわね。」
花が儚いものと思っていたら、それ以上に人のほうが儚くなり、遠くに逝ってしまった。花と人とどちらが先に遠く恋しきものになるなど、予想できただろうか…。
そっと庭を見つめ、撫子姫が歌を口ずさんだ。琴の音のような声が白銀に染まった庭に悲しく響く。
麗らかな日差しを受け、風もなく、ただ止まったようにあり続ける庭の木々には花が咲き誇ったかのように雪が積もっている。
あの人が植えた桜の木、もう花が咲きそうだという時にその人はなくなってしまった。残った桜の花は爛漫と花を咲かせ、それを見上げて、紀茂行が詠んだ哀傷歌―。
季節は違えど、今日に似合いの歌であった。
皆、しんと静まり、神妙な面持ちで庭を見やった。
頬に手を当て、思いにふけるように眉を寄せて庭を見続けていた撫子姫ははたと気付いたように言いつくろった。
「まあ、私としたことが、このように素晴しき席に不似合いな歌を。お許しくださいませ。」
「そんなこと…。」
「場をしらけさせてしまって…。本当に申し訳ございません。今日はこれで失礼しますわ。…ですが、気を悪くされていなければ、また、もみじ様にお目にかかりたい―。浅ましく思っておりますの。どうか、この心を汲んでくだされば…。」
撫子姫は卒なく口上を述べ、綺紅殿を去っていった。
始終流麗で、文句の付け所のない姫君ぶり。
ただ、彼女らしからぬあの言葉が気にかかる。
残されたもみじ姫は、女房達が語らいの場の後片付けをしている間、一人ぼおっと庭を見つめていた。
すでに空は朱に染まり、白い雪の上にもその色を落とす。
―大切だと気付いた時に手遅れ…。
大切だと…。
朱く輝く雪の間に、一瞬春の香りがした。
もみじ姫の心も雪と共に染まる。
―恋とか、愛とか分らない…。
でも、いつでも瞼の奥にその姿が浮かぶほどに、大切な存在になっていたのね。
「ひぃ様?」
鈴虫がもみじ姫の顔を覗きこんだ。
ぼおっとしているのはいつものこと。
ただ、少しいつもよりその顔が変わって見えるのは、気のせいだろうかと首を傾げた。
「あ、あの、撫子姫様…。」
東北の対の側の渡殿辺り、もう少しで自室に戻る辺りで、意を決したように撫子姫付きの女房が声をかけた。
彼女は内大臣家の女房で、撫子姫がこちらに来てから、色々と世話を焼いている。
小君やもみじ姫のように突飛でどうしようもない姫と違い、撫子姫は大人しく、仕える方が恐縮してしまう程にできた姫だ。
だからこそ、今日の姫の様子がいつもと違って気にかかる。
「恐れながら、今日のお話はもみじ姫様も戸惑っていらっしゃたように思います。何か…。」
「白露の色はひとつをいかにして
秋の木の葉をちぢに染むらむ」
「はいっ?」
扇で顔を隠したまま、撫子姫はぴたりと足を止めた。
驚いたように女房も足を止める。
「ねえ、露に濡れてこそ紅葉は綺麗に染まると思わない?」
「そ、それはどのような意味…」
戸惑うしかできない女房の方を振り向き、撫子姫はそっと扇を下げた。
顔は逆光になって見えない。
しかしその口元には優雅な微笑を湛えている。
撫子姫は答えることなく、女房に背を向け歩き出した。
「あの、撫子様…。」
慌てて女房がその後を追う。
女房の呼びかけに応えるように数歩歩いた辺りで撫子姫がその足を止めた。
「撫子姫…あの。」
「撫子と…」
「え?」
静かに、それでいてきっぱりとしたその言葉に女房は立ち尽くした。
その時、東北の対から一人の女房が出てきた。
撫子姫を見るなり、無表情のまま頭を下げる。
「梅が枝の鶯が、初音を告げてございます。」
その言葉に撫子姫はにっと口元を歪ませた。
ただ一人残された女房はその場から動けずにいた。
撫子姫は先ほどの女房とすでに奥に入ってしまっている。
混乱するように頭に響くのは先ほどの撫子姫の言葉。
「撫子と呼ばないで。そんな小さな花―…私には似合わない。」