第27章 冬に咲く撫子の花
綺紅殿の、一番美しく庭が見渡せる場所に設けられた席で、もみじ姫はわずかばかり頬を染めて、相対する人物を見つめていた。
「このような素敵な場を設けていただき心より嬉しく思いますわ。」
優雅に扇を開き、にこりと微笑んだのは東北の対の撫子姫。
艶やかな黒髪がさらりと揺れ、玉のように輝かんばかりの顔はもみじ姫よりもずっと大人びていた。
その美しさは清浄な冬の朝に似て、凛とした顔つきは大輪の花を思わせる。
「あの、急にお文をお送りして気を悪くされていらっしゃいませんこと?私、先日はもみじ様より物語を多くお貸しいただき、もみじ様のお優しいお心に深く感激しましたの。…ですからぜひ、直接お目にかかってお礼を言いたくて…。」
伏し目がちにもみじ姫を見つめながらたおやかな口上を卒なく述べる撫子姫に、もみじ姫はぽやんとしながらも心を奪われていた。
―撫子ちゃんって、本当に美人だわ。噂になるのが分るわ~。
半年前に両親を亡くし、内大臣家に引き取られた撫子姫は、その生い立ちからか普段は身を潜めるようにして、静かに暮している。
同じ屋敷内に住んでいるのだから、もみじ姫としてはもっと頻繁に交流を持ちたいのだが、撫子姫が遠慮していて、なかなか歩みよれない。
「えと、撫子ちゃんはどの物語が一番よか…。」
「もみじ姫!撫子姫様が素晴しいご挨拶をされてるのです。姫もお返ししなくては失礼でしょ!」
ぽやんと口を開いたもみじ姫に側で控えていた綾乃が小声でぴしゃりと窘める。
最近、帥の宮の所為で調子の乗らない綾乃であったが、そこは優秀な女房、押さえるとこは押さえる。
「えっと~その~あっ、まったく気を悪くしてませんから、いつでも遊びに来てください!」
「姫!」
口上でもなんでもない、ただの希望を口にしたもみじ姫に、綾乃の激が飛んだが、口に出したが後の祭りである。
しまったと顔を強張らせたもみじ姫と目を鋭くさせた綾乃の間を取り繕うように、そっと撫子姫が口を挟んだ。
「ふふっ。綾乃様、お気になさらずに。そのようにもみじ様が心を砕いてお話下さる方が、私も緊張せずに済みますわ。さすがもみじ様ですわ。そのようにさりげない気遣いをして下さるなんて…私、感激で恐縮いたしますわ。」
「そんな~!」
嬉しそうに手を振るもみじ姫に、これでもかとほめ続ける撫子姫。
側で控えていた鈴虫が姉の松虫の袖をそっと引いた。
「よくもまあ、あんなにほめ言葉が出てくるもんね。撫子姫、人が良すぎじゃない?」
「まあ、お世話になっている家の姫ですもの。立てるのが常識でしょうけど…。」
「半端ないわ、撫子姫!あんなに美人で常識人、しかもあの腰の低さはなに!小君様に爪の垢でも飲ましてやりたい。」
「…出来れば、ひぃ様にも。」
女房達の心の声など露知らず、お姫様同士の語らいが始まった。
二人は先日、方々よりもらった物語の話などをした。
話したと言っても、もみじ姫や女房達がしゃべるのを撫子姫が楽しそうに聞いているだけ。
時折、気の利いた合いの手を入れる他は、大人しいばかりだ。
袖で口を隠しながら、奥ゆかしく微笑む撫子姫はもみじ姫の目から見ても心ときめく美しさだ。
―撫子ちゃんって、本当に美人だわ。多くの男君からお文が来るのがよく分るわ。
目の前で、そよ風に揺れる撫子の花のように儚げな様子の撫子姫をそっと見つめながら、もみじ姫はぼんやりと思った。
―こんなに美しいのだから、誰でも愛を告白せずにはいられないのね。
でも…撫子ちゃん自身に好きな方はいるのかしら?
きっと、それは彼女に似て美しい恋なのだろう。
そして、その恋を撫子姫は上手に成就させるはず。
完璧な姿をとる撫子姫には理想の恋物語が似合いだ。
―きっと、わたしのように恋と聞いて、どうしていいか分からないなんて、情けないことはしないんだわ。
もみじ姫の脳裏に蘇るのはあの夜の春香の姿。
いつももみじ姫を戸惑わせる、あの自信に満ちた顔から仮面が剥がれ、素顔が覗いた瞬間―。
傷ついて痛みを堪えているかのような、余裕のない表情。
あの日から春香は現れず、代わりに春香の主人だと思われる帥の宮が来るようになった。
しかし彼は春香のはの字も口にはしない。
いつも春香のことを聞こうと思っているのだが、どうしてだかもみじ姫はそのことを聞けずにいる。
―もしかして、答えを聞くのが怖いのかも。
春香君に逢えなくなるかもしれない現実が…。
周りでは皆が楽しげに笑い声をあげている。
冬の寒さに閉じ込められた季節であっても、美しい衣に身を包んだ女性が大勢寄り添い、笑みを浮かべているだけで、一瞬にして場が華やかに春めきたつ。
その中で一人、雪の白さに取り残されたように、もみじ姫は顔を曇らせた。
―わたしは、怖がってばかり。
怖くて変わることを恐れてばかり。
この場を動くことさえ出来ないのに、それでも…春の日差しのような温かさを求めてしまう。
これが恋なのかしら?
でも…。
途切れてしまった懐かしい春の香り。
自分の心の変化に気付いてもどうすることも出来ずに、ただ思い出の中の香りを必死に手繰り寄せる。
―春香君…わたし―。
「時に、もみじ様。」
一人自分の世界に浸っていたもみじ姫をやんわり外の世界に引き戻したのは撫子姫であった。
もみじ姫の、余裕ない表情に何も言わず、愛らしく小首を傾げた。
「―なにか、心に引っ掛かりがおありなのですか?」
流麗に流れる撫子姫の言葉に、もみじ姫の表情が固まった。
「あ、あの…。」
真っ向から図星を指され、言葉が浮かばない。
「いつも朗らかなもみじ様。ですが、今日はいつもと違う表情をなさる。少しお会いせぬ間に面持ちが変わられてしまったように思いますわ。」
「そんな…わたしは何も変わってないよ。ううん、むしろ変わるのが怖くて、一人おどおどしてるだけ。わたしはどんなに頑張っても、撫子ちゃんのように完璧なお姫様にはなれないの。もっと、わたしが大人だったら…。」
言葉を切るもみじ姫に側に控えている綾乃や鈴虫、松虫は心配げに眉を寄せた。
春香が来なくなって、どれだけの時が経っただろうか。
あの日からもみじ姫の様子がおかしいのは皆が思ってはいたが、それでもなんでもない風を装おうとする姫が痛々しくも健気で、何も言えずにいるのだ。
きっと、姫の心に芽生えた思いに勝手に触れてはいけないという気持ちが皆にあるのだろう。
所詮は身分違いの、悲しい恋。
甘い夢を見ても、その先は知れている。
育っても、けして実を結ばない心は、他の誰にもどうすることもできない。
ただ、見守るだけ。
―でも、出来るなら、美しい花を咲かせてやりたい。
綾乃は、悲しげに眉を寄せて微笑むもみじ姫の横顔にそう思わずにはいられなかった。
パチンー。
小気味いい音が空気に響いた。
しめっぽい空気を打ち消すかのごとくに扇を閉じたのはもみじ姫と相対して座っている撫子姫。
冬の夜空のように深い澄んだ瞳がもみじ姫を捉える。
儚げな空気が一瞬にしてぴんと張り詰め、撫子と喩えるにはあまりに不似合いな堂々とした表情で優美に微笑んだ。
「もみじ様。完璧などというものはどこにもありませんのよ。」