第25章 乱れ揺れるは藤の花
「まったく、油断の出来ない人だな!」
中将は西の対まで帥の宮を連れてくるとその手を離した。
「いやいや、もみじ姫はとても面白い人でね。つい体がふらふらと…ああ、もしかしたらこれは、夢…。」
「夢遊病とか、もみじみたいなボケかまさないで下さいよ!あなたがおっしゃてもうそ臭いので。」
扇を広げながら、薄ら笑いを浮かべる帥の宮に中将は白い目を向けた。
「なんか小梅君冷たいな~。天の岩戸は相変わらずだし、君にまで冷たくされると私は泣きたくなっちゃうな。でも、僕泣かない!だって…」
「天の岩戸ですか?どういう意味です?」
「ああ、君もさらっと無視するんだね。私の言葉にちゃんと答えてくれのはもみじ姫だけなんだろうな~。」
大きく被りを振り、仰々しく泣きまねをしてみせる帥の宮に、中将はどう反応していいか分らず、肩を落とした。
―破綻した会話しかしてないのに、あれで答えたことになってるんだな。
しみじみと感心する中将は、よもや、帥の宮に上手にごまかされているなど露にも思わず、その話題から離れた。
「さあ、そんなとこで座り込まないで、今日は話し合いに見えたんではないのですか?」
「おお、そうだよ。小梅君!恋の秘め事の続きを語り合おうではないか!」
一人、自室の局で綾乃はため息を吐いた。
思い出されるのは、今日の帥の宮のこと。
立ちかへりあはれとぞ思うよそにても
人の心を沖つ白波
彼が詠んだ歌の意味は、何度も繰り返し恋しさが押し寄せてきます。何故って?それは―、私はどれだけ離れていてもあなたにだけ心を置く、沖の白波なのですから!というもの。
彼はかつて藤波と呼んでいたことを踏まえて、過去の歌を出してきたのだ。
初めに口にした逢うを限りの歌をとっても、綾乃に会えることを心待ちにしているという意味になる。
それに初冠のくだりは伊勢物語の初冠を持ち出し、暗にこう歌いかけていたのだ。
春日野の若紫の摺衣
しのぶの乱れかぎり知られず
春日野の若々しい紫草のように美しいあなた、わたしは今着ている信夫摺の模様のように忍ぶ恋に限りなく乱れに乱れています、と。
初冠したある男が、春日野に出かけ、覗き見た美人姉妹に歌を送ったという話である。
この時男は自分の着ていた信夫摺の衣の袖を破り、そこに歌をしたためた。
彼の行動は、かくいちはやき雅をなむしける、と結ばれる。
つまり、昔男はこのように素早く、燃え上がる気持ちを抑えるなどせずに恋の直球勝負をしたものですよ、となる。
春日野の春は、共に過ごした幼き日々を喩え、紫は紫草ではなく、色から藤を思わせ、そして極めつけに初冠。
彼が皇族としては遅い十五歳で元服を終えた日こそ、綾乃が彼と会った最後の日であった。
彼が詠んだ歌は全て綾乃に向けられたもの。
気付かれぬように几帳の裏に隠れていたのに、何故、綾乃がいることに気付いたのだろう。
それともこれは自分の意識のし過ぎであろうか。
冷静を心がけ、綾乃は頭を巡らした。
―もみじ姫狙い?
それにしては選ぶ歌がずれている。
でも、誰が聞いても恋歌と分る直球ばかりを選んできたわ。
もみじ姫にも分るようにの配慮かしら?
もしそうなら……!
「絶対に三枚に下ろしてやるわ!!」
ガタン!!
文机に勢いよく拳が打ち込まれる。
ぎりりと歯を食いしばり、綾乃は鬼のような形相を浮かべた。
冷静を心がけても、怒りが溢れて止まらない。
帥の宮の声を聞くだけで、あの香りを嗅ぐだけで、体の奥から嫌な感情が湧き出てくる。
怒りのあまりに血の気が引き、顔が強張る。
怒りの矛先はもちろんあの男。
―やっと私だけの平穏を手に入れたのに、今頃になって現れやがって!
怒りで手が震える。
思う出しただけで吐き気がする。
あの男がいる時は、ぎゅっと拳を握り締めでもしていないといつ手を出すか分らない状態になる。
しかし、だからといってもみじ姫の側を離れるのは危険だ。
他の女房達があの男の真意に気付けるはずもなく、また綾乃とて誰かに言うわけにもいかない。
そこで綾乃ははたと思い出した。
―真意に気付かないといえば、もみじ姫。
あそこまでひどいとは思わなかった。
あれだけ堂々と愛を歌われているのに、一つも気に留めないなんて。
長い間、色々心をとして教えてきたのに、姫のあの、予想を斜め横に裏切る対応には、正直、絶句してしまった。
あの色恋沙汰をまったく面に出さない対応。
ある意味確信犯かと思うほどに、恋の歌をきれいさっぱり無視の上で詠んだあの歌。
白波に秋の木の葉の浮かべるを
海人のながせる舟かとぞ見る
岩にあたって砕ける白波に浮かぶもみじ葉はまるで海の波間に漂う漁師の舟みたいですね。
これは藤原興風の歌で、ただ単なる、もみじの赤と白波の白の色の美しさを詠んだもの。
季節を詠んだ歌に裏の意味を持たせる手法はよく使われるが、この歌にはそんなものはない。
―いや、まあ、歌を口にしだしただけでも成長したのだけど…。
こればかりは春香の君に感謝しなければ。
がっくりと肩を落としつつ、綾乃は額を押さえた。
しかし、その姫の鈍感さに救われたのも事実だ。
あれでもみじ姫が帥の宮に心を揺さぶられでもしたら、綾乃の怒りは頂点を極めていただろう。
―流石にあんな大勢の目の前であの男は殴れませんわね!
でも…。
もみじ姫に余計なちょっかいをかければ、手を下さなければ。
それが…命をかける行為であっても。
綾乃は自分の手を祈るように抱きしめ、堅く目を瞑った。
皇族に手を上げるなど、恐れ多い大罪である。
そればかりか内大臣家に迷惑をかけることになる。
―でも、もみじ姫を守るためなら、私はなんだってする。
この家に迷惑がかからないように、責任をとって私が死ねばいいのだから。
私の命など、もみじ姫のこれからの幸せを考えれば安いものだわ。
そっと目を開き、綾乃は口の端を少し上げ、小さく笑った。
―もみじ様、あなたに出会って、私は本当に幸せでしたのよ。
裏表のない人柄にどれだけ心救われたでしょう。
私の人生の中で一番心穏やかな時期でしたのよ。
だから、私はあなたの幸せを一番に考えずにいられないのです。