第24章 逢うを限りと思うばかりぞ
「あの~ひぃ様、またいらっしゃってますわ。」
困惑した顔で綾乃の方をちらちら見ながら、鈴虫がもみじ姫に声をかけた。
またいらっしゃっている相手とは先日庭先からもみじ姫に声をかけた帥の宮。
あれから、なんやかんやともみじ姫のいる綺紅殿を訪ねてくるようになったのだ。
そして何故、鈴虫が綾乃の方を気にしているかというと…。
「あ、綾乃様…わ、わたし、お断りしてきましょうか?…そ、そうですよね、帥の宮といえど、男君をそう簡単にひぃ様の部屋に入れるなんて、やっぱりよくないかな~なんて…。」
麗しい笑顔を浮かべもみじ姫の側に座っている綾乃にただならぬものを感じ、鈴虫は言いつくろうように口を開いた。
しかし綾乃は笑顔を崩すことなく、持っていた扇で顔を隠しながら、小首を傾げてコロコロ笑う。
「まあ、鈴虫。せっかく宮様がお越しなのにお断りするなんて失礼よ。宮様を気分よくお迎えしなければ!ふふ、大事な姫が男君の視線に曝させるのが嫌なのね?ホント、あなたはもみじ姫が大好きなのですね。」
「い、いやあ、それほどでも…ありませんが…。」
強張った表情のまま鈴虫は頭をかいた。
この場合どのように反応するのが正解なのか―。
綾乃の逆鱗を見極めようと必死に頭を働かす。
「あなたの気持ちは十分に分るけど、これは内大臣家の沽券に関ることよ?どんな方でも卒なく対応するのが良家に仕える女房の努めよ。うふふ。」
「あ、あはは、そうですよね。わたしとしたことが出すぎた口を聞きました。すぐにご案内します!」
鈴虫は素早く立ち上がり、早馬のような速さで御簾の外にかけていく。
その場に残った他の女房に向かって綾乃が微笑みかけた。
「帥の宮の機嫌が即、もみじ姫の評価につながりますからね。皆、心して宮の対応に当たってくださいね。」
まるで藤の花が零れんばかりに咲き誇った、美しい笑顔。
しかし―…。
「ひぃっ!」
側に控えていた他の女房達に戦慄が走った。
―何故!?嵐の前触れのように空気が荒んでるわ!!!
麗しい笑顔とは対照的に放たれる禍々しい雰囲気に皆が顔を引きつらせる。
「は、はい!!」
女房達はそれはそれは素早く、常よりも的確にそれぞれ帥の宮を迎える準備に取り掛かった。
「ねぇ、なんで綾乃様あんなに機嫌が悪いの?」
渡殿を駆けながら、鈴虫は隣で同じく賢明に走る姉に声をかけた。
「し、知らないわよ!何故だか帥の宮が絡むと綾乃様不機嫌になられるのよね?帥の宮がいらっしゃるときは几帳の裏で影を潜めていらっしゃるし…。」
虫の姉妹は顔を見合わせ、首を傾げた。
綾乃が帥の宮を避ける理由など想像もつかない。
綾乃らしからぬその反応が気にならない訳じゃない。
普段卒のない綾乃の不審な態度に、好奇心がうずく。
だが―。
「あの笑顔が超怖いんだけど!どす黒いものが渦巻いて見える!!」
「障らぬ神にたたりなしよ!鈴虫!!」
二人は今自分に課せられた任務に邁進することに没頭した。
「フフ…逢うを限りと思うばかりぞ、と思っていたのですが、流石はもみじ姫。私の心を察してくださったのですね。」
もみじ姫のいる御簾の前まで案内された帥の宮は開口一番、優美な笑みを浮かべた。
洗練された物腰に、落ち着いた態度。
先ほどまで綾乃の不審な笑顔に怯えていた女房達が俄かに色めきたった。
我が恋はゆくへも知らず果てもなし
逢うを限りと思うばかりぞ―
とは、凡河内躬恒の歌である。
私のこの恋は成り行きも行く先も分りません。ただ…あなたに逢えることを最後の願いに待っているのです、という意味である。
都でも一、二を争う色男が口にするとそれだけで、昼日中であっても色っぽい情事の逢瀬を匂わせる雰囲気をかもし出す。
しかし相手は都一姫らしからぬもみじ姫。
情事のじの字も感じさせない。
「大丈夫ですか?先日もお会いしましたけど?」
と、歌の真意も汲み取らずに、帥の宮の記憶力を素直に心配した。
「もみじ姫、あなたは優しいのですね。あなたの声が聞けるだけで私の心はまるで初冠し、春日野の里を訪ねた時のように乱れる思いです。ああ、今日の衣が信夫摺でないのが悔しい。私は何時だって、衣の裾を切ってあなたに歌を送るのに。」
「ええっ!わざわざ裾を切らなくても、紙ならいくらでもお渡ししますわ。歌が詠みたくなったら言ってください。」
「では、もう一句。
立ちかへりあはれとぞ思うよそにても
人の心を沖つ白波」
「あ~、その歌知ってます。この間、和歌の勉強したときに覚えたんです。沖つ白波って綺麗な言葉ですよね~。白波つながりだったら、わたしはこの歌も好きなんです。
白波に秋の木の葉の浮かべるを
海人のながせる舟かとぞ見る」
「おお、もみじ姫も波の美しさがお分かりのようだ!」
共に笑みこぼしながら話すもみじ姫と帥の宮。
一見和やかに話しているように見えて、その実、一つも会話が成り立っていない二人。
側に控える鈴虫達は気が気ではないが、いつももみじ姫が下手したら一番に口を出すあの人が几帳の裏で知らぬ顔をしているのだから、ずれにずれてる二人の会話より女房達は綾乃の動向が気になって仕方ない。
始終ずれっぱなしの二人の話は駆けつけてきた中将によって中断された。
「まったくあなたという人は!油断も隙もない!」
「え~でも、約束は守ってるじゃないか?二人っきりでは会わない。ちゃんとその他大勢も一緒だよ?こ・う・め・君!」
「だまらっしゃい!!」
中将は身分の差などお構いなしに、帥の宮の首根っこを掴むと引きずるようにその場を後にした。
どうやら人のいい中将にも帥の宮の扱い方が分ってきたようだ。
「もみじもちょっとは人を選びなさい!」
少し離れてから困ったように振り向き、中将は御簾の中のもみじ姫を窘めた。
彼も心の中にひっかかりを感じずにはいられなかったが、あえて口には出さなかった。
―綾乃は不在なのかな?
しかし、彼の思いなどお構いなし、自由人の帥の宮は襟首をつかまれたまま、笑みを浮かべて御簾の奥のもみじ姫に手を振った。
「それでは失礼します。またお会いしましょう、美しい竜田姫。」
「次なんてありません!」
中将に引きずられていく帥の宮にもみじ姫は心配げに答えた。
「えっと、それなりにお待ちしてますが…あの~、わたしの名前はもみじです~!」
兄に首根っこを掴まれ、強制退去させられた帥の宮の遠くなっていく姿を目で追いながらもみじ姫は首を傾げた。
「お兄様ったら、奪っていくほどに帥の宮様がお好きなのかしら?」
「…ひぃ様、それは違うと思いますけど?」
鈴虫はいささか疲れたような顔でもみじ姫につっこんだ。
「そう?でも、心配だわ。あんなにのんびりされてたら、あの方は好きな人に一生会えないんじゃないかしら?ここで歌を詠む暇があったら、探しにいけばいいのに。」
もみじ姫にしては至極真っ当な意見である。
しかし側にいる女房は皆何も言わず、呆れ顔で姫から目を背けた。
―あなたを口説くための口実ですよ!
思っていても口には出せない歯がゆさを感じつつ、皆、もみじ姫の鉄のような鈍感さに感心せずにはいられなかった。
「もうひぃ様、しゃべんないで下さい。なんか気を使いすぎてしんどくなりました。」
「ええっ!なんで?」
疲れきったようにため息をつく鈴虫の暴言にもみじ姫はショックを受けた。
帥の宮の去った部屋にはいつものような和やかな雰囲気が漂い始めた。
鈴虫がもみじ姫をからかい、松虫がそれを止める。
当たり前の日常に、皆が笑みをこぼし始める。
ただ、一人。
綾乃だけは几帳の裏で神妙な面持ちで押し黙っていた。
膝に置かれた手はきつく結ばれ、そして小刻みに震えていた。