第23章 届かない思い
「ひぃ様!何で好きな人探しするなんて言ったんです。春香の君の手伝いだけで十分でしょう?」
梔子宮が去った後に残された鈴虫は、のほほんとしているもみじ姫に厳しい目を向けた。
「でも、春香君が探している方も、あの方が探している方も同じだし…。それに春香君は、もうここにはこないと思うから…。だからせめて、あの方ぐらいは幸せになって欲しいと思うのよ。」
切なげに微笑むもみじ姫を鈴虫は怪訝そうに見る。
「春香君は多分もう―こないと思うの。」
「ケンカでもされたんですか?」
「傷つけちゃった…の。」
「ひぃ様…。」
表情を暗くさせるもみじ姫。
しかしすぐにその顔を打ち消すように笑顔を浮かべる。
「あっ、だからね、せめて春香君のご主人様の思いを叶えてあげたいの!だって、春香君はそのために来たのだし!」
「…そう言えば、春香の君の使命って、文のお使いでしたね。なんだか話が違う方に流れていって忘れてましたわ。」
あっけらかんとした鈴虫の言葉にもみじ姫は困ったように眉を寄せた。
「うん…。わたしも忘れてたの。ずっと、続く夢だと思っていた。ずっと変わらないって。」
「ひぃ様…。そんな顔、ひぃ様らしくありませんわ。そんな深刻そうなの、ひぃ様に似合いません!明るくぼけっとして綾乃様に怒られてる、それがひぃ様です。」
「えっ、それだけ?他には?」
「ひぃ様、小さいことは気にしない。気にしない。それより、あの男君誰だったでしょう?結構な男前でしたね。綾乃様に言われたから追い払いに来ましたけど、あんな素敵な方がひぃ様のとこに通ってくるようになれば私も鼻が高いのに!」
「何を言ってるのよ、貴女は!」
衣擦れの音と共に現れたあきれた顔の松虫が鈴虫を咎めた。
「お姉さま!」
「貴女はひぃ様になら何言ってもいいと思ってるんだから。ひぃ様もお年頃で、ああいう殿方がどこから覗き見ているか分らないのよ?」
「もっと覗き見に来てくれたらいいのに。ひぃ様、浮いた噂一つもないんだもの。あるのはお子様の春香の君ぐらい。」
鈴虫はぷくりと膨れえる。
その何気ない鈴虫の言葉にもみじ姫は胸の奥がズキッと痛むように感じた。
「貴女って子は!あの方は帥の宮様と言うそうよ。今日は中将様のところにいらっしゃたのだとか。」
「帥の宮様!宮中で光源氏と呼ばれてる、あの帥の宮様!!すっご〜い!」
松虫の言葉に、鈴虫は目を輝かせる。
「本当に現金な子ね。」
「お姉さまは実物を見てないから!ほんとに素敵な方だったのよ!!ねえ、ひぃ様!」
「え…ええ。」
鈴虫に話を振られてもみじ姫は困ったように笑った。
―とても優しげな顔をされていた。
けど…捉えどころのない変わった方だった。
春香君のように甘い言葉を使うかと思えば、その言葉には裏があるって言うし…。
「まあ、帥の宮って恋の噂の絶えない人だし。綾乃様が追い払えって言ったのも分るかな?」
うんうんと頷く鈴虫。
「でも、よく綾乃様はあれが帥の宮だってお分かりになったわね。さすがだわ。」
「もう、何時まで言ってるのかしら?この子は!いいでしょ?早くお部屋に入りましょう。さあ、ひぃ様。」
松虫の言葉にもみじ姫はこくりと頷くと、三人は御簾の向こうに消えた。
西の対では中将が一人呆然としていた。
自分を訪ねに来たはずの梔子宮がいない。
ちょっと物を取りにいった間に何処かに消えてしまったのだ。
―まさか、隣の綺紅殿に行ったんじゃないだろうな。
いくらのんびりした幼い姫でも、もみじ姫も年頃である。
―鉢合わせすることはないにしても、あの方が変な気を起こして、御簾の中を覗き込んだりしたら…。
中将は一人真っ青になった。
「おや、小梅君。顔色が悪いようだが?」
パサリと御簾が揺れ、その人物は悠々とした態度で廂の間に入ってきた。
「梔子宮!貴方が勝手に出歩くから心配してたんです!何処に訪ねて来た家をうろつく客人がいるんですか!」
「ここにいるよ?」
「開き直らないで下さい。貴方のような自由な身分の方の屋敷と違って、ここには大事な姫がいるんですよ?」
真剣な表情でくってかかる中将に、梔子宮は気にする風もなくのらりくらりと答える。
「どの方も噂に違わぬ美しい方だったよ。」
「へ?」
「ただ難を言えば、小君殿はもう少しお淑やかになされば深窓の姫君になれるのにってとこかな。」
「み、見に行ったのですか?」
「もちろん。噂の姫がいるのに見に行かないなど姫君に失礼だ。」
「貴方って人は…。」
がくっと項垂れる中将に構わず、パラリと扇を広げた梔子宮は楽しげに笑った。
「撫子姫は噂どおりお美しかった。ただ撫子というには少し可愛げが足りない。もみじ姫ぐらい、愛らしい表情をされればもっと素敵な姫になられるだろうに。」
「な、撫子姫も、もみじも、貴方は直に見たのですか?」
「ええ、もちろん。私は三人の姫の中でもみじ姫が一番だと思ったよ。一番面白い。」
ぎょっとなって詰め寄る中将をからかう様に梔子宮は目を細めた。
「なんというか…貴方は本当に自由な方だ…。」
「何をいう。今都で一番の注目株だよ?もみじ姫は。今をときめく中将様、その他もろもろの秘蔵っ子って名目でね!何でも、その愛らしさに心が洗われ、癒されるとか。今や癒し系の時代だからね。左馬の頭や侍従の君なんかも骨抜きって話だ。その急激な勢いで現れた噂の姫を見ずして帰るなんて、君、そんなこと出来るかね。」
「普通は見に行きません。しかも直になんて、どうやって。」
「もみじ姫は高欄の側にいらっしゃった。」
「あの子は…。」
「ははっ。普通の姫と違っておおらかな方のようだ。だが、あの隙だらけな笑顔が男心をくすぐる。」
「何言ってるんですか!あのですね、もみじの噂なんて、所詮噂の一人歩きで、都の殿上人はもみじと撫子姫の区別がついてないだけなんですよ!貴方はそんな噂に騙されて、そう思い込んでるだけで、確かにもみじはいい子ですが、貴方の思うような姫では…。」
「妹思いのいいおにいちゃんだね、小梅君。安心したまえ、私はもみじ姫には何もしない。ただ純粋に一目見てみたかっただけだ。次からは一人では会わないよ。」
「次ですって?」
「…天の岩戸は思ったより堅くてね。開けるのには、かなり骨が折れそうだからね。」
「は?」
怪訝な顔をする中将を尻目に梔子宮はふふっと笑った。
「私の天照大神様は気難しくてね。」
春香は広い屋敷から暗い夜空を見上げていた。
月も星もない。
暗い空は、怖くなるほど深かった。
春香は小さく息をついた。
普段の彼からは想像もつかないほどに弱々しい顔をしている。
彼にとって、なんでも思い通りにいく、それは当たり前のことだった。
今までは―…。
―なんで、わたしなの?
困惑したもみじ姫の顔が瞼に浮かぶ。
「ずるいよ。なんでって…もみじだから好きなんじゃないか。あの日から、もみじがいるから頑張ってきた。」
簀の柱にもたれて、何もない夜空にあの日を思い出す。
夜空に浮かぶ、優しいもみじ姫の姿。
あの日、彼女が温かく微笑みかけたから。優しく名前を呼んでくれたから。
あの日から春香はもみじ姫と釣り合うように頑張ってきた。
「ちょっと…ツラいかな…。」
カタン―。
「失礼致します。」
男が春香の側にくると慇懃に頭を下げ、かしこまった。
「んっ。」
「お文でございます。」
そう言って、黒い文箱を差し出した。
美しい菊花が描かれた、細工の美しい箱。
横目で一瞥し、春香はその箱を受け取った。
「まったく…こっちは傷心の身なのにね。仕事熱心だ。」
春香は苦笑いを浮かべる。
「お読みに…ならないのですか?」
春香の顔に困惑したように男は問うた。
「読まなくても分かるよ。…そうだね、君。菊の花を一輪用意してくれないか。そう―白い寒菊を。」