第21章 梔子の宮始動
誰かの泣き声が聞こえる。
誰だろう―。
暗くてよく見えない。
え〜ん。
え〜ん。
誰?
木の陰にうずくまっている人影が見える。
小さな子ども。
何を泣いているのだろう。
悲しげな泣き声。
泣き声だけが深遠の闇に広がっていく。
わたし、この光景を知ってる。
え〜ん。
どうして泣いてるの?
声をかけてはたと気付く。
これはわたしだ。
小さい頃のわたし…。
でも―何故泣いてるの?
もみじ姫はがバリと身を起こした。 格子の隙間から明るい日の光が広がる。
―夢?
それにしてはあまりに生々しい。
被りを振って、嫌な気配を追いやったもみじ姫は単衣の上にいくつか衣を重ね、そっと妻戸を開けた。
開いた瞬間に触れた朝日にもみじ姫は目を細める。
天の光を受け、雪に埋め尽くされた地が白銀に輝いている。
冬の朝の空気は刺すように冷たく、しかしその厳かな雰囲気の中に凜とした優しさを隠し持っている。
まるで綾乃のようだもみじ姫は思った。
そしてふと気付いたように高欄を見る。
昨夜、春香が腰かけ笛を吹いていた高欄。
もみじ姫も自分も同じように腰掛けてみた。
昨夜の春香の切なげな顔が日の光に浮かんだ。
―なんで春香君…。
その日からもみじ姫は元気がなかった。
乳姉妹の二人ももみじ姫らしからぬ落ち込みに首を傾げるばかり。
綾乃はあの夜何かあったのではと思いながら、その悲しげな背中に何も言えずにいる。
もみじ姫自身も自分の態度が周りに迷惑をかけているのは分っているのだが、春香のことが気になって、気付けば一人高欄に腰掛けている。
―あの日から春香君が来ない。もう、愛想尽きたかな?
春香の好意をあだで返したのは自分なのに、来なければ来ないで切ない。
―わたし、自分勝手だな…。
言い寄られても困るくせに、来ないと悲しい。
そして、忘れられない、あの夜の春香の顔。
裏切られたような、突き放されたような、傷ついた幼い顔。
―わたし、春香君と何か約束した?
友達になる、とか?
もみじ姫は首を傾げるが、あの日の春香の顔を思い出すとそんな軽い約束には思えない。
―どうしよう…。わたし、ぼけちゃった?
真剣に悩んでいても論点がずれていくのがもみじ姫。
―ねえ、春香君、どうして来てくれないの?
わたしのこと嫌いになった?
嫌いになってもいい。
でも、一度だけ会いに来て欲しい。
最後の顔があんな顔じゃ悲しすぎる。
いつもの春香らしく、自信溢れた魅惑的な笑みを浮かべていてほしい。
「ねえ、春香君。わたしは春香君が好きだよ。」
ふと口についた言葉にもみじ姫は戸惑った。
でも、それが偽りのない心の言葉。
けして、春香自身にかけることはできない。
庭に積もる雪のように純粋で、そして雪のように日の光の前に消えてゆく。
もみじ姫は悲しげな笑みを浮かべた。
『恋とは、日常を彩るもの。その人に一喜一憂し、心を揺らす。』
綾乃の言葉が浮かんでくる。
『出会わなければよかったのにという恋もあるのです。』
―そうだね、出会わなければよかったのにという恋もあるんだね。
どんなに好きでも応えられない。
でも…。
「わたしは春香君に会えてよかった。だって…。」
「春香というのは、あなたの思い人ですか?」
ふいにかかった声にもみじ姫は心底驚いた。
「えっ?」
「ああ、驚かすつもりはなかったのです。すいません。美しい人が純白の庭を眺める光景が美しくて思わず声をかけてしまいました。」
そう言って柔らかく笑いかけたのは、優しい面立ちの優美な青年。
庭から高欄の側のもみじ姫を見上げている。
「あ、あのっ。」
兄の中将より少し年上に見える。誰かの友人だろうか。
もみじ姫は戸惑い、どうしていいか分からずうろたえた。
―綾乃にバレたらまた怒られちゃう!
「雪がお好きなのですか?」
「えっ?」
青年はもみじ姫の動揺に気付いていないのか、のんびり庭に積もる雪を見ている。
「雪はいいですね。でもあまりに深いと不安になる。このまま白銀の世界に閉じ込められてしまうのではないかと…。」
「はあ。」
目を細めて物思いにふける青年を一つも二つも抜けているもみじ姫は自分のことを棚にあげて変わった人だと目をぱちくりさせた。
「未だ春は来ないのですね。」
感慨深げに青年は呟く。
もみじ姫は首を傾げた。
「でも…春は来てますわ。雪はお空の花びらです。雲の向こうは春だから空から花びらが降るんです。」
もみじ姫はニコリと微笑んだ。
「雲のあなたは春にやあらんですか?」
青年は穏やかな顔で微笑みかけた。
「わたし、このお歌好きなんです。」
屈託なく微笑み返すもみじ姫。
青年は心から楽しそうに笑いながら扇で顔を隠す。
「あ、あの、わたしおかしなこと言いました?」
「いや、とても純粋な感受性に感銘を受けました。」
どこか馬鹿にしている響きがあるのだが、もみじ姫は言葉どおりに受けとると丁寧に礼を言った。
しかしその行動が青年の笑いを刺激したらしく、青年は身を屈めて笑い出した。
「あの〜。」
流石のもみじ姫もこの青年の態度におかしなものを感じる。
「す、すいません。同じようにこの歌が好きだっていう子を知っていたもので。」
青年はおかしそうに笑いながら、身を起こした。
その瞬間、風に乗って青年の甘やかな香りがもみじ姫の鼻に付いた。
濃厚で甘美、独特な夏の夜の香りに覚えがあった。
あの恋文に薫かれていた香だ。
「あ、あのあなたは…。」
もみじ姫は驚いたように高欄から身を乗り出した。
「私?私はあなたの兄上のお友達です。そうですね?梔子と呼んでください。」
「梔子さん?」
「ええ?美しいもみじ姫。あなたにどれほど会いたかったか。」
梔子の宮は扇で隠した口元に意味ありげな笑みを浮かべた。
―なんで?あの男がここに?
綺紅殿の北面、柱の影から綾乃はもみじ姫を対峙する男の顔を見て顔色を変えた。
―まさか春香の君…。
しかし、その春香が見当たらない。
春香のこと、もみじ姫とあの男をふたりっきりするわけがない。
―どういうこと?
やっぱりあの男の狙いはもみじ姫?
綾乃は頭の中で考えを馳せた。
今すぐ出て行ってあの男からもみじ姫を引っぺがすか。
しかし、あの男は綾乃だと分るとそれを足がかりにもみじ姫のところに通うかもしれない。
昔の思い人を探していた。
そんなことでも言えば、優しいもみじ姫など一発で騙せる。
もみじ姫を騙してここに通うようになれば、もみじ姫がどう思おうがあの男はもみじ姫の元に通っているようにしか世間には見えない。
誰が中の君の女房に会いに来ていると思うだろうか。
これは巧妙な計画。
―やはり春香の君はその計画の一部だったのね。
子どもに文使いをさせてもみじ姫と引き合わせる。
文の中身なんて本当はなんでもいい。
もみじ姫の興味を引くならなんだって。
頃合を見計らって綾乃への文であると春香がばらせば、春香を信じきっているもみじ姫はぜひ綾乃と帥の宮を引き合わせようとする。
それが狙い。
そこから何かと理由をつけてここに通い、既成事実を作る。
春香は幼いもみじ姫が想像もつかない行動でもみじ姫の心を捕らえ、他の男君に見向きしないようにし、またもみじ姫に言い寄る男からもみじ姫を守る。
―なるほど。姑息な手ね。
綾乃の中で全てが一本につながった。
しかし、腑に落ちない部分がある。
―春香の君、あの夜の駆け引きは何?あれも計画の一部?
綾乃に文の存在を気付かせ、帥の宮に気付かせるための芝居だったのだろうか。
―でも…私には春香の君は計画のためにもみじ姫の元に訪ねていたように見えない。
計画が、本気になった?
綾乃はあの小賢しい少年を思い浮かべた。
―あなたはもみじ姫を守るといったわ。
それは、あの姑息な主人のため?
それとも…。