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コイハナ〜恋の花咲く平安絵巻〜  作者: 秋鹿
もみじ愛ずる姫君
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第20章  月下の兎 下

 もみじ姫は自分の隣で膨れている春香に、少し罪悪感を感じつつ必死に取り成していた。


「だって、春香君の笛を聴きたくて。」

「都合よく逃げれて安心したって顔に書いてあるよ。」

「うっ…。」

 とりつく島もない冷たい目の春香にもみじ姫は次の言葉に困った。

 

 あの時咄嗟に出たのが『春香君の笛の音が聞きたい』。

 春香に追い込まれて、もう少しで口づけと言う前に頭に浮かんだのだ。

 

 ―だって、あんなこと言えないよ。

 お日様の下なら冗談ですむけど、お月様の下だと、あれだけじゃすまない気がして…。

 

 心の中で言い訳をあれこれ考えてみる。

 対する春香は不機嫌そうに息を吐いた。

 

 ―結局、お友達って位置付けから変わらないじゃん。

 

 期待が大きかった分だけ失望も大きい。

 

 ―これじゃ眩し過ぎるのを心配されてるうさぎと変わらない。

 

 春香はもじもじしながら、色々言い繕うもみじ姫に背を向ける。

 出会ってから今まで懸命に追いかけてきた。

 何度手を伸ばして掴もうとしたことだろう。

 優しく微笑むその人は手が届いた瞬間に煙のように消え失せる。

 

 ―少しは距離が近づいたと思ったのにね。


「あのね、春香君!わたしは春香君を傷つけるつもりは…。」

 黙り込んだ春香に傷つけてしまったと思ったのだろう。

 もみじ姫が泣きそうな顔で春香の方を覗き見た。

 

 大きな瞳が揺れる。

 変わらない瞳。

 変わらない優しさを湛えて。 

 この瞳に映りたくて、どれだけこの瞳を夢見たか。

 

 ―ずるいよ。もみじ…。

 

 春香はもみじ姫からふと目を逸らした。

 そして高欄に浅く腰掛けると、おもむろに笛を構えた。

「春香君?」

「聞いていて。もみじを骨抜きにするから。」

「あっ、でも…。」

 もみじ姫は寝殿の方を気にするように困った顔した。

 笛の音を聞いて、誰かいると思われたらどうしようかと思ったのだ。

「大丈夫だよ。今日はみんなあっちの合奏に気を取られてる。遠く離れたここのことなんて分からないよ。」

「そ、そうかしら?」

「そうだよ。だから僕も忍んで来たんだ。その辺は見極めてるつもり。」

 なるほど。

 抜け目ない春香らしい感覚にもみじ姫は感心した。


「だからもみじは安心して、他のことじゃなくて俺のこと考えてよ。それが君に恋い焦がれて忍んで来た哀れな男に対する…正しい情けだよ。」


 春香はいつも通り、魅惑的な笑みを浮かべ、そっと瞳を閉じた。

 

 どこか切なげで、自分の知っている春香ではないように思ってしまう。

 でも何も言えない。

 気の利いたお返しも分からない。

 何か口にすると、自分でも思わぬことを言ってしまいそうで。

 それほどに胸が締め付けられる。

 この愛らしく、魅惑的な少年に。

 

 もみじ姫は心の声を悟られないように節目がちに春香を見つめる。


 ゆっくりと、冬の大気を揺らすように流れる笛の音。

 心地よく、心の中に染み込んでくる。

 

 ―この笛の音が終わるまでに心を落ち着けなきゃ。

 月光に惑わされて、春香がいつも通りに見れない。

 

 もみじ姫は必死に平静に戻ろうとした。

 でも…。

 

 ―なんて美しい音なのかしら。

 

 寝殿から聞こえてくる賑やかな音と違い物静かで、でも澄んだ空気にまっすぐ響く春香の笛。

 優美で、柔らかくて、清浄で、そしてどこまでも切なくて…。

 その音はまるで。

 

 ―まるで春香君みたい。

 

 平静に戻りたいのに、美しい笛の音はもみじ姫の心を掴んで離さない。

 

 ―このまま笛の音に酔ってしまいたい。

 

 素直な心はそう望む。

 でも…。

 それは許されない気持ちであるともみじ姫は知っていた。

 春香と会えないと思った時、これほどまで悲しいことはなかった。

 でも、あれは友達という関係だったから。

 だから春香は悪くないと主張できた。

 この関係に深入りすれば、引き戻れなくなる。

 それは自分を大切にしてくれる誰かを傷つける結果になる。

 

 ―それはダメなの。

  わたしは春香君に恋できないの。

  恋したら、もう恋する前に戻れない気がするから。

  春香君に恋しながら、他の誰かと結婚するなんてできないよ。

  だから、本気にさせないで。

  冗談だと言って。

 

 月下では薄暗くて春香の表情はよく見えない。

 しかし、それ以上に笛の音が春香の本気を告げる。

 

 ―お願い。眩しい日の下に戻って。

  いつも通りの春香君に。

 

 もみじ姫がどう願っても心は正直に揺れ動く。

 青白い月光に照らされた春香の長い睫が、笛に当てられた唇が艶めかしくて、色っぽい。

 いつもあの睫の下の深い瞳に見つめられ、あの唇が甘い吐息と共に愛を囁く。

 

 ―か、考えちゃダメよ!

 

 考えれば考えるほどどつぼに嵌っていく。

 もみじ姫はぎゅっと目を瞑り、心の平静を保った。

 いつまでそうしていただろう。

 多分時間としてはほんの一時のこと。

 しかしもみじ姫にとっては夜が明けるほど長くも、星が瞬く間ほど短くも感じれる時間だった。


「もみじ?」

 春香に優しく髪を撫でられ、もみじ姫ははたと気がついた。

「あ、あれ?」

 頬を伝う一筋の涙に。

「あまりに素敵な演奏だったからかな?」

 袖で素早く涙を拭うともみじ姫はにこやかに笑った。

「それってもみじの心に響いたってこと?」

「ええ。とっても…。」

 しかしもみじ姫の言葉に何か含むところを感じたのか、春香は眉をひそめた。

「本当に?」

「え、ええ。」

「じゃあ、見せて。」

「ええっ!」

 

 魅惑の笑みで笑う春香に、はめられたとばかりに驚愕の表情のもみじ姫。

 以前、本当に心に響いてるか直接触って確かめたいと言われたことを思い出したのだ。

「だ、だめ!」

「なんで?」

 甘えた表情ですり寄ってくる春香。楽しそうにもみじ姫の耳元に熱い息を吹きかける。

「あっ。」

 びくりと身を竦める。

 そのもみじ姫の反応に満足したのか、春香は更に調子に乗って耳を甘く噛む。


「は、春香君…やめて。」


 弱弱しい拒絶。

 でも。


「やめないよ。」

「な、なんで?こんなことするの、お、おかしいよ。だって…。」

「だって?」

「だって、わたし達、と、友達だよ?」

 絞り出すように叫んだもみじ姫の声に弾かれたように春香は顔を上げた。

「友達じゃ、ないよ。」

「と、友達よ?」

 動揺しながらも、春香をじっと見据えるもみじ姫。


「何で?何でもみじはいつも気付かない振りするの?俺がこんなにもみじが好きなこと知ってるくせに。」

「で、でも、わたしは…。」

 

 月華を背にした春香の表情はよく分からない。

 でも、もみじ姫にはあまりに切ない春香の心が見えた。

 どこまでも真っ直ぐな心。

 偽りなしに自分を必要としてくれて、全力でぶつかってくる熱い心。

 

 ―でも受け入れられないの。 

 

 もみじ姫は意を決して、春香を見つめる。

 友達以上になれないと言わなければ。

 いつまでも心地よい春香の思いに甘えていられない。

 言うのが遅くなればなるほど、春香を傷つける。


「は、春香君。何でわたしなの?春香君はかっこいいもの。もっと可愛くて、年の合う子がいるはずよ。わたしが幼くて、からかいやすいのも分かるけど、本気の心を簡単に見せちゃダメよ。こういうことは本当に好きな人に…。」

 もみじ姫は言葉を切った。

「は、春香君…。」

 

 凍りついたような春香。

 目を見張り、強い感情を抑えるように震えている。


「だ、大丈夫?あ、あのね、傷つけるつもりはなかったの。でも。春香君の心は受け入れられないの、だから…。」

 もみじ姫は焦りながら、春香の肩に手を置いた。

「…の?」

「えっ?」

 震える唇から微かに発せられた言葉に、もみじ姫が耳を澄ませる。


「…忘れちゃったの!」


 ガバッと顔を上げた春香は年相応の子どもの顔をしていて、泣きそうなのを懸命に堪えていた。

「忘れる?」

「約束したのに。ずっと、もみじとの約束を胸に頑張ってきたのに!」

「は、春香君?」

 困ったように春香を見つめるもみじ姫の手を払うように、春香は自分の手を凪いだ。

 情けないほど、余裕のない顔。

 

 二人の間に、近寄れない一線が出来る。


「は、春香君、何を。」

 訳の分からないといった風に、ただ春香を見つめることしかできないもみじ姫。

 はあはあと肩で息を吐いていた春香は、心を落ち着けるように一度大きく息を吸うと、いつも通りの大人の表情になった。


「春香君。」

「もみじはひどいよ。」

 春香は力いっぱいもみじ姫を押し倒した。

「きゃあ!」

 二人して、冷たい板の間に倒れこむ。

 もみじ姫は驚きつつ、なされるがまま。

 どうしてよいか分からずに見上げた春香の顔は、逆行で見えない。

 でも…。

 

 ―泣いてるの?

 

もみじ姫の心が締め付けられる。

「あの日とまったく変わらないのに、一番変わって欲しくない約束を忘れているなんて。」

 感情のまま春香はもみじ姫の口に無理やり口付けをした。

「んんっ!」

 

 いきなりのことに逃げられないもみじ姫。

 優しさを失った獣は、全力でもみじ姫の体に熱い吐息をかける。

 細い首筋に、冷たくなった耳に、鼓動が弾む胸の上に…。

 嫌がるもみじ姫を押さえつけて、春香の執拗な口付けは続く。

 

 ―なんで?なんでこんなことするの、春香君!

 

 もみじ姫は抵抗することも、声を出すこともできずに、ただ変わってしまった少年の良心に問いかけた。

 

 止まらない春香。

 やまない悲しみ。

 力の限りもみじ姫を抑えていた春香の手に熱いものが跳ねた。

 驚いたように身を引く。

 

 それは、もみじ姫の涙。

 止めどなく溢れる熱い心。

 弾かれたように身を起こした春香は、大人の仮面が剥がれ、少年の素顔が覗いていた。


「ごめん。」

 

 小さく、そう呟くと春香は素早くもみじ姫の上から退くと、ぼろぼろと剥がれる仮面を覆うように顔を隠し、その場から逃げ去った。


「春香君…。」

 

 驚きすぎて声がでない。

 身を起こして、少年が消えた月光の向こうを見つめる。

 

 月から飛び降りた小さな兎は雪に煌く月の影となり、忍び寄る闇に溶けてしまった。


 ―どうして?

 

 泣きたくないのに、涙が止まらない。

 

 ―約束って何?

 

 冷たい板の間でもみじ姫は春香の言葉の意味を考えた。

 

 ―分らない。思い出せない。

  約束って、わたしは春香君と何を約束したの?

 


 するすると衣を滑らせ、綾乃は綺紅殿の簀を歩いていた。

 もみじ姫はもう寝てしまっただろうか。 

 もしあの抜け目ない子どもが忍んで来ていたらどうしようか。

 

 ―そう、思い通りにさせてあげませんわ。

 

 綾乃は意地悪く微笑んだ。

 あの男の使いと分っていても毛嫌いする気になれない。

 ただの子どもではなく、同じもみじ姫を好きな同士の、好敵手のような関係に思える。

 角を曲がった先で綾乃は暗闇に蹲る塊に気付いた。

 それは…。


「姫?」

 驚いたように問う綾乃の声が聞こえないのか、冷たい板の間でぼおっと雪の積もった庭を見つめている。

「どうなされたのです?姫!」

 慌てて駆け寄り、手を添えたもみじ姫の体は冷たい。

「姫?」

「…れ?」

 ポツリと呟いたもみじ姫の言葉に綾乃は聞き返す。

「…てるの。あれは…。」

「もみじ姫?」

「あ、綾乃。」


 やっともみじ姫に気付いたのか、もみじ姫はゆっくりと顔を上げた。

 寒さの所為か、真っ青になっているもみじ姫の目は心なしか赤かった。


「どうなされたのです?こんな端近で。」

「あのね、誰かが泣いている声がするの。誰だったか思い出したくて、でも、思い出せないの。」

 

 悲しそうに瞳を伏せるもみじ姫。

 

 『えーん。』

 

 暗闇の中で、子どもの泣く声が聞こえる。

 知っている声なのに思い出せない。

 あれは誰だろう。

 あれは…。

 思い出そうと懸命に頭を抑えるもみじ姫を、訳の分らないままに綾乃はもみじ姫はぎゅっと抱きしめた。


 泣き声はやまない。

 はっと気付いたようにもみじ姫が顔を上げた。


「泣いているのは…わたし?」

 



 暗闇に浮かぶ二人の影。

 それをじっと見つめる人影が一つ。


「ふふっ。」


 暗い庭の木々に紛れて、じっと一部始終を見つめていた人物は口元に満足げな笑みを浮かべた。


「寒月宮に住む月兎でも、月から出ればただの兎。月の魔法は使えないよ?どうするのかな。春の香りの兎さん。君の息吹じゃまだ、ここの雪は溶けない。凍てついた心にはまだまだ春は来ないみたいだね。」

 

 楽しそうに呟くと、扇で口元を覆う。

 やがて二人の影が屋敷の中に入っていくと、その人物はそっと音もなく、月に照らされた白雪の上に歩を進めた。


 青白い月の光を受けたその人物は梔子の宮。


「人はそう思い通りにはいかないんだよ?春香君。」

 二人が消えた寝殿を見つめ、にやりと笑う。

「あんなふうに自分を過信している者を見てると、つい意地悪をしたみたくなるねぇ。」

 満足げに顎を摩る梔子の宮はそっと寝殿に背を向ける。


「切り札…ね。」


 音もなく、その場を去る梔子の宮は思い出したように立ち止まると、ゆっくりと後ろを振り向いた。

 月光に照らされた綺紅殿は物音一つせず、屋敷の向こう側の宴会の賑やかな音が嘘のように遠くに聞こえる。


 梔子の宮の甘い香りが雪の上に広がる。

 にやりと口元を歪めた梔子の宮が見据えていたのは、あの御簾の向こうの美しい女君。

 会わない時間がどれだけ面影を変えても忘れられない強い瞳と美しい髪。

 何をしてでも手に入れたいと願う唯一のもの。


「やっと見つけたよ。藤波。」

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