第1章 もみじ愛づる姫君
「姫君っ!」
二条大通りにある内大臣邸を揺るがす大声を上げたのは、中の君付きの女房、綾乃。
綾乃は袿をはためかせ、髪を振り乱しながら、鬼のような顔で渡殿を渡ってくる。
いと優雅な平安の女が大貴族の屋敷をこのように懸命に走っているにはわけがある。
「姫っ!我が姫!どちらにおわします!」
そう。部屋でぼっけとしているはずの中の君がいつの間にか部屋からいなくなった。
こりゃ大変と屋敷中を探し回っていたのだ。
今の時代の姫って、部屋の奥で静かに優雅に生きてるもの。
それをふらふら出歩くのはいとわろし、というもの。
だがそういう姫基準からぼけっと転がり落ちる姫もいる。
それがこの中の君。
のんびりしすぎ、ぼけっとしすぎ、幼すぎ。
そんな三拍子揃った中の君の世話をしている綾乃は実に大変。
「姫!こちらにいらっしゃるの?」
綾乃は西の対屋の先ある釣殿までやってきて怒鳴った。
せっかくの美人が台無しになるほど眉間に皺を寄せて、綾乃は怖い顔をする。
「姫君!いるならお返事なさいませ。」
「…はい…。」
小さく消え入りそうな声が御簾の中から聞こえた。
綾乃は素早く御簾を捲り、廂の間に置いてある几帳に向かってぴしゃりと一言。
「なぜ、このような所の、几帳の後ろから姫君のお声が聞こえるかしら?まさか、かくれんぼうではございませんよね。」
綾乃の言葉に答えるようにして、几帳の陰からわずかに顔を覗かせたのはもちろん中の君。
大きく円らな瞳をおどおどさせて綾乃を見る。
「まさか、かくれんぼうなんて。それならもっと分かりにくいところに隠れるわ。」
「違います。隠れる場所の問題ではありません。その歳でかくれんぼうなんてやってらっしゃったら困ります。それで、何故、几帳の裏などに?」
綾乃は、中の君の前に置かれている几帳をどけると、中の君と対峙する形で座った。
じっと見つめる綾乃。びくりと首をすくめる中の君。
「あ、あのね、綾乃の声が聞こえたからビックリしちゃって。思わず条件反射で隠れちゃったの。綾乃、怒っているみたいだったし。」
「私が怒ってることが分かるなんて、姫にしたら上出来ですね。でも、なぜ私が怒っているか、お分かり?」
中の君はきょとんとして首をかしげた。
「さあ?」
「さあじゃございません。いいですか!姫はもう十五なのですよ。」
「まだ十五よ?」
「まだとはなんですか。もう十五なんです。裳着もお済み大人の女性です。しかもこの冬が明けたら十六です。」
声を鋭くする綾乃を他所に中の君はのんびり落ち着いてる。
こののんびりさは才能といえるもの。
「大丈夫よ、綾乃。自分の歳くらいちゃんと覚えているわ。心配しないで。」
中の君はニコリと微笑んだが、これは火に油。
「そんなこと心配しておりません。人が真剣に話している時になんですか、そのすっとぼけた態度はっ。」
「ご、ごめんなさい。で、でもわたし的にはまじめ答えたつもりだったのよ。」
中の君は潤んだ瞳を綾乃に向ける。
「姫、私は今まで散々申し上げて参りましたが、まだご理解いただけていないご様子。いいですか?私が怒っております理由ともども、しっかりお聞きください。」
綾乃の言葉にさすがの中の君も真剣なご様子。
じっと綾乃を見る。
「姫、歳相応という言葉をご存知でしょうか?」
「もちろん!綾乃がいつも言っているから耳タコよ。」
中の君のすっとぼけた言葉に苛立ちながら、綾乃はその感情をじっと自分の奥に抑えて中の君を見た。
「…耳にタコができるほどお聞きになっていらっしゃるのにまだ意味をご理解いただけていないご様子。いいですか。姫。裳着とは成人になる儀式でございます。それを終えられた姫は大人にございます。大人で、年頃で、しかも内大臣家の姫である人が、何でふらふらご自分の部屋から出て、釣殿の、こんな几帳の裏に隠れてらっしゃるなんて。姫君のすることではありません。そこを分かっておいでですか?」
早口でまくし立てられ、中の君は綾乃の言葉の半分も聞き取れなかった。
困ったように中の君は眉根を寄せた。
「あのね、分かってはいるつもりなんだけど、なんというか、つい部屋から出て行きたくなるの。もしかしたら、夢遊病かも。」
「姫はバッチリ起きてらっしゃるようですが?」
綾乃にぎろりと睨まれ、中の君はさらに小さくなる。
傍には隠れる几帳一つなく、この寒々しい廂の間には中の君と綾乃の二人しかおらず、誰も中の君を綾乃から解放してくれない。
「姫君、私は悲しゅうございます。花も盛りの十五の姫が、花も恥らう年頃の姫が、都で一、二を争う名門貴族の、内大臣家の華である姫が、どこでどう間違ったかこの有様。私は、私は、亡き北の方様に申し訳なくて、申し訳なくて…。」
着物の裾で目頭を押さえ、綾乃はよよと泣きまねをした。
これ以上中の君に怒鳴っても伝わらない。
素早く方法を変える綾乃。
泣き落とし、というわけ。
「綾乃…。」
さすがの中の君も言葉を切った。
「そんなに気を落とさないで。亡くなったお母様もそんなこと別に気にしてないわよ。」
中の君はおどおどと綾乃を慰める
対する綾乃は、着物で顔を隠して苦虫を噛み潰したような表情をした。
―この方法でも姫は落とせないようね。
そう綾乃は心の中で舌打ちする。
意外につわものの中の君。
「姫君、問題はそこではございません。」
「どこかしら?」
「ですからっ。」
泣きまねをしていてもしょうがない。
綾乃はぴしっと姿勢を正すと中の君を正面に見据えた。
「姫ももう少し歳相応ななさいませ。」
「はあ、」
「いいですか。だいたい姫がそんなにぼけっとなさっているから、二つも歳下の異母妹君に笑われるんですよ。悔しいとは思われないんですか!」
中の君は不思議そうに綾乃を見詰める。
「でも、この間会った時は別に笑っていなかったわよ?」
―どうしてこうもすっとぼけてらっしゃるのかしら、わが姫は…。
綾乃はなんだか泣きたい気持ちになった。
しかし、それを気付かせないよう飲み込む。
「姫、言葉を変えます。見下してらっしゃるのです。あちらの姫は、あなたより優雅で上品。筝の琴もお上手で、お歌も、薫物も、全部姫より上だと豪語なさっているんですよ。まあ、半分以上はその通りですけど…。」
「わたしもその通りだと思うわ。十三歳とは思えないほど大人っぽいわよね。私も見習わないといけないわねぇ。」
にこやかに答える中の君。
そんな中の君見て、綾乃はため息をつく。
「本気でそう思ってらっしゃるの?その割には何の努力もなさっていませんが…。」
「ごめんなさい。」
「簡単に謝らないでくださいな。ああ、異母妹君である子君様は、今東宮が元服なさったら、東宮妃に、といわれるお方なのに。それに比べてわが姫は東宮妃どころか結婚できるかも危ういなんて…なぜこのように…。」
「へ〜小君ちゃんは東宮様のところにお嫁に行っちゃうのね。そしたらお姉さまと一緒。でも、いなくなってしまうのは嫌だわ。」
中の君はぼんやりと釣殿から見える池に視線を逸らした。
池の周りは雪で白く埋め尽くされて、池だけがくっきりと浮かび上がっている。
夕暮れの日差しを受け、朱に染まる白い雪。
哀愁の情景、そんな言葉が似合うそんな光景。
中の君の同母姉、大姫と呼ばれたその人は今は女御として、内裏で暮らしている。
「姫…。」
綾乃はどう声をかけてよいか戸惑った。
中の君らしくない歳相応の表情が、少し悲しく見えたのは、けして夕暮れのせいではない。
「でも、小君ちゃんがそれを望んでいるなら、喜んで上げないとね。」
「…姫…。」
「小君ちゃん言ってたもの。『私は将来、中宮になって、お世継ぎを生んで、地位と権力をすべてこの手に握りますのよ。』って。きっと夢を叶えるために入内したいんだわ。なんて行動力のある子かしら。えらいわね。」
えっ、と小君の大胆発言を聞いて、綾乃は絶句した。
気品があって、筝の琴がどんなに上手でも、入内の理由をわずか十三の姫が地位と権力のためと豪語するのはどう評価すべきなのか。
お家のためには、こんなしっかりした姫、またとないが…。
綾乃はため息をついた。
それにしても、そんな小君をえらいと評価できる中の君はやっぱり大物。
「もう小君様のことはいいです。」
綾乃はすっと立ち上がり、中の君を促した。
「もう夕暮れ。池の傍にずっといては寒うございます。早く、お部屋へ戻られませ。」
「ええ…。」
中の君は返事はするもののなかなか立ち上がらない。
美しい夕暮れの光景を少しでも長く見ようと御簾の向うを見詰める。
「もう、姫は…。また、小春日和のよき日に遊びに参りましょう。だから、さあさ、早くお立ちください。」
「本当?」
中の君は嬉しそうに微笑むと立ち上がった。
その零れるような笑みに綾乃もつられる。
「さあさ、もみじ姫。お部屋に。」
「はあい。」
こんな二人のやり取りはまだまだ続きますが、少し舞台を変えましょう。
今度は、そうですね、暗き夜空から静かに降る雪の下、そこにある大きな屋敷。
大きいのに、まったく人の気配も、音もしない、しんと雪に包まれたそこ。
「おや、また、降ってきたね。雪。明日は大丈夫かな?」
簀子の一番端まで近付いて、何もない夜空を見上げる青年が一人。
まるで、暗い闇が雪の欠片を吸い込んでいるかのような空。
細面の、長身の優男は、廂の間にいて、青年のほうを見ている大きく強い眼の幼い少年に笑顔を向けた。
青色の立派な狩衣を着た、髪を耳の横で二つに束ね、みずら髪にした、春の零れる花のように愛らしい十ばかりの男の童はふんと鼻で笑った。
「早く部屋に入れば?風邪ひくよ?あんたが風邪をひいたらせっかくの計画もまる潰れ。わざわざ、こんなとこに来てやっている俺のことも考えてよね。」
青年はふふっと笑って、廂の間に入り、そして御簾を下ろした。
彼は少年の向かいに座り、楽しそうに少年を見詰める。
「まあ、そうピリピリしないで。気楽に行こうよ。私はドキドキしてるよ?この計画に。」
「うわ、迷惑だね。」
少年はプイっとそっぽを向いた。
「くすくす。でも、正直な話、こんな寒い時期にしなくても来年でもよかったんだけどね、これやるの。」
「来年じゃ遅すぎる。俺は本当はもっと早くしたかった。そのへんはあんたも同じだろ。」
「ま、母上の協力を得て、やっと明日決行できるんだから。それに、色々問題があるんだから、慎重にね。焦ると失敗してしまう。」
「大丈夫だよ。俺を誰だと思ってんの?」
「ふっ…これはこれは、強気の発言。では、誰だと思えば、よろしいかな?」
青年は楽しそうに扇で口元を隠して笑う。
少年はにやりと笑った。
「さあ?ただの男の童さ。でも、何にだってなれる。」
自信満々の少年に青年は始終楽しそうに言葉を遊ぶ。
「では、私の気持ちをあの方に伝える使者になっていただけますかな?冬の雪に嘆いているであろうあの人に、春の香りを。」
「仰せのままに。我が君。…なんてね。」
少年は仰々しく頭を下げ、それから少しはにかみながら、顔を上げ、下を出した。
「ああ、いつもより素直で可愛い。」
青年はぎゅっと少年を抱きしめたが、すぐに少年に殴られた。
「きもいな〜。抱きつくなよ。そういうことは女としろ。」
「いいね〜してみたい。」
「…やっぱ、あんたはやめておいたほうがいいんじゃない?女が迷惑。」
「フフフッ。」
少年から離れた青年は楽しそうに少年を見詰めていた。
そして、自分の持っていた扇で少し御簾をめくった。
「闇夜で、星一つ見えないのに、雪だけはくっきり浮かんで見えるね。こんな風に人の気持ちも見えたらいいのに。」
「はあ?何、風流人気取ってるんだよ。そんなはっきり人の気持ち見えたって、絶対いいことないぞ。」
「そうかな?」
「そうだよ。殿上人やっているおっさんらの顔みりゃ、一発でなに考えているか分かるだろ?あんた、一応殿上人なんだから。」
「一応はよけいだよ。それに私が知りたいのは、そんなおっさんの気持ちじゃない。」
「あそ。」
青年はまだ、御簾の隙間から空を見ている。
少年は彼に近付き、御簾をめくって顔だけを外にだした。
「もし、明日もこんな天気だったら、あの人は、あはれともやご覧ずる、関心してくれるかな?」
少年は少し切なそうな顔をして何もない夜空につぶやく。
「山里は雪降り積みて道もなし
今日来む人をあはれともは見む
ーか。あはれだと思ってくれるよ。雪が降り積もって道もないのに訪ねて来てくれるんだからね。」
少年の平兼盛の歌を踏まえた言葉に、青年はすぐに歌を諳んじた。
「さあ、もう寝ようか。明日から大変だからね。」
青年はそういうと立ち上がった。