第17章 琴の音に寄せる思い
どうすれば、この胸に宿る熱い炎を消せるのだろうか―。
恋という感情にこんなにも胸を締め付けられ、こんなにも会えない人に恋い焦がれる。
瞼に浮かぶあの、愛らしい姿に思わず身悶えて…。
こんなにも深くはまってしまったのだとふと気づき、我を忘れた自分に嫌悪する。
だから、これは消して熱に浮かれたわけではなく…。
と言い訳をしつつ、西の対の影から、綺紅殿を見ているのは侍従の君。
綺紅殿からは美しい箏の琴や琵琶、笛などが響き、楽しそうな笑い声が聞こえる。
冬にあって、まるで常春のような暖かいひだまり。
あの日久々に見たもみじ姫は幼き頃の面影を残しつつも、美しくなっていた。
今日も大輔の君に会うように見せかけ、またもみじ姫が垣間見えないかと模索中である。
しかし実直な侍従の君にうまく出会えるきっかけなど分かるはずもなく…。
―いや、このままで終われない!
一途さは時に人を思わぬ力を与える。
綺紅殿の西の廂で、もみじ姫は春香と楽器を弾いていた。
もちろん、鈴松の虫の乳姉妹と綾乃というおまけ付き。
「ねぇもみじ。美しい楽の調べは心に響くんだって。僕の笛はもみじの心に響いてる?」
にまりと艶やかに春香がもみじ姫を覗き込む。
「ええ。もちろんよ。とっても上手ね。」
「本当に響いてる?直に触らないと分からないな。ねぇどこで響いてる?」
ぽやんとしたもみじ姫の手を取り自分の口を添えると、極上の笑みを浮かべた。
「教えて?」
「!」
もみじ姫は意味を量りかね動きを止めた。
その横で鈴虫、松虫は顔を赤らめ、きゃーと叫ぶ。
そして綾乃は…。
「いい加減になさいませ。この変態マセガキの君。」
冷静に持っていた扇でピシャリと春香の手を叩いた。
「綾乃のお姉さん、僕はもみじが笛の音が心に響いたっていうから、本当かどうか確かめようとしただけだよ?」
春香は大きな目を潤ませて、愛らしい表情で綾乃を見た。
誰が見ても騙されそうな純粋な子どもの顔。
「まぁいけしゃあしゃあと。面の皮厚いと申しますか、誰がそんな言葉を信じますか。」
「もみじは信じてくれるもん。」
「えぇっ!」
「姫!おどおどせず、しっかり嫌なことは嫌とお答えなさいませ。」
「はいっ!」
もみじ姫を挟んでの二人のやり取りを遠巻きに見ながら虫の乳姉妹達は顔を見合わした。
春香の君の存在が綾乃にバレて立ち入り禁止の令が出されたのが4日前、あくる日に禁止が撤回されて(どこでもみじ姫解禁を知ったのか)すぐに春香がここに訪れて来たのだが、綾乃と春香のやり取りを知らない二人は首を傾げることばかり。
もみじ姫も多分分っていないのだろうが、姫の場合は二人が仲がいいだけで十分のよう。
「春香の君ってこんな子だったの?」
鈴虫は姉の袖を引いた。松虫も訳の分からないという表情で首を振る。
「さあ?それにしても綾乃様と春香の君って、なんであんなに打ち解けているのかしら?」
実際にはもみじ姫を巡る水面下の頭脳戦が繰り広げられているのだが、二人は気付くはずもない。
「不用意に女君の手に触れるなどと、男としての質が知れてますわね。やはりただの子どもに姫のお相手をさすなんて考えものかしら?」
「年を取るってのは良くないね。どんなことでも年下がすることが気に食わない。」
過激な言葉とは裏腹に二人は表情を崩すことなく、余裕の笑み。
挟まれたもみじ姫は余裕のない、困りきった笑みを浮かべて、口を挟めるはずもなく二人を見守る。
「なんか、ここの空気、寒すぎますわね。」
鈴虫は異様な雰囲気の二人を見てポツリと呟いた。
その時、綺紅殿へ渡る細殿に衣擦れの音と男のものらしい足音が響いた。
「誰か来ますわ!内大臣の殿かしら?それとも中将様?」
松虫が不思議そうに首を傾げる。いつも二人がここに来るときは女房が先触れに来るものなのだ。
「どちらでもないでしょう。足音を聞き分けるのも女房の務めですよ。鈴虫、御簾を下して。松虫は出迎えに出なさい。」
綾乃が落ち着いて指示を出す。
言われるままに虫の姉妹はうろたえつつ素早く行動する。
「春香の君。あなたはどちらかに隠れて下さい。」
「はぁい。じゃあここに…。」
「もみじ姫の袿以外で。」
にこやかに素早く、もみじ姫の袿を捲ろうとした春香の襟首をしかと綾乃が掴んだ。
「とんでもないお子様だこと。どこまでも抜け目なくて困りますわ。」
綾乃は肩を竦めて悪びれてない表情をする春香を塗籠まで引きずって行くと中に放り込んだ。
塗籠は母屋にある壁を全て固められた部屋となっており、隠れるにはうってつけの場所になっているが、もみじ姫のいる廂からは少し遠い。
「ここじゃもみじから遠すぎる。」
春香がぶすりとした。
「あなた様はいつも近しい距離にいるのですから、時には離れて思うのもいいのではないですか?それにもしここに来たのがこの間の左馬の頭だったら、お顔を見られた春香の君がお困りになられるというものですわ。」
「あの、馬鹿な男はここにはこないよ。そんな勇気のある男ではない。内大臣家の怒りに今頃震えているはず。」
「どちらにしてもこちらが一番安全ですわ。それに扉は開けておきます。これなら会話も聞こえます。もし、姫が危険な目に合っても春香の君がすぐ出てこれる距離です。」
「…。」
綾乃は不服そうな春香にふふっと笑いかけた。
「期待してますわ。姫のことを守ってくださるのでしょ?」
「もちろんだよ。」
春香がため息まじりに言い切った時、その人物が松虫の案内で現れた。
「いや、美しい調べが聞こえたので、思わず来てしまった。いきなり来るなど失礼をして、もみじ姫は気分を悪くしておられないか?」
おどおどと松虫に声をかけたのは侍従の君。
「気を悪くはしてらっしゃらないとは思いますが…。」
「そ、そうか。」
侍従の君はほっとするが、それに追い討ちをかけるように松虫が言った。
「何が起こったのかも分っていらっしゃらないから、悪くしようがないんだと思います。ただ、誰が来たか分れば…。」
「ええ!」
侍従の君は驚愕の表情をした。
松虫はふふっと袖で顔を隠して笑った。
この素直さだけが取り得ののっぽの男君はまだもみじ姫が童姿であった時分、大輔の君ともみじ姫と3人でよくこの綺紅殿で遊んでいた。
もちろんもみじ姫の乳姉妹である松虫鈴虫も顔見知りなのだ。
来たのが侍従の君と分り、鈴虫もほっとし、人のよい侍従の君になんで先触れをしないのかと文句を垂れた。
自分より身分の低い者にそんな口を聞かれても、
「いや〜思わず…。」
などと頭を掻いて謝る侍従の君。
御簾越しにもみじ姫と対面する席に案内され、申し訳なさそうに腰を下した。
「勝手に遊びに来てごめん。大輔とは宮中でよく会うんだけどね、もみじとは中々会えないから、どうしてるのかなと思っていてね。で、この間この御屋敷に遊びに来た折にちらりと姿を見かけたものだから、つい懐かしさのあまりに…。」
聞きもしていないのに、言い訳めかしく言う侍従の君に虫の姉妹はクスクスと笑いあう。
もみじ姫も懐かしく、嬉しそうに笑いかけた。
「わあ、久しぶり…。」
「この度は久々にお目にかかれて嬉しく思います。幼き折は御簾の隔てなくお会いしていた方が、このようにりっぱな姿になられているなど、時間の流れを感じます。と姫は申されています。」
ぱやんとした姫の言葉を切るように綾乃は上品な口上を述べた。
いくら幼馴染とはいえ、簡単に久しぶりなど言えないのが良家の姫である。
侍従の君の魂胆はもみじ姫以外簡単に分っているのだが、それを空気に出さず久々の面会を歓迎する。
その空気に納得できなのは塗籠の春香である。
一人退け者で、塗籠から楽しそうな声を聞いていた。
用意された高杯に唐菓子が盛られて、女房も数多く集まってくる。
「大輔はいけずな方でね、俺はここでよく遊ばせて貰ったから、思い出もたくさんあるのに中々共感してくれない。寂しいもんだ。」
「そういえば、隠れん坊をされて侍従の君は最後まで見つからなくて、大騒ぎになりましたわね。」
「まあ、そのようなことが。」
松虫が思い出を語り、綾乃も楽しそうな雰囲気を出してふふっと笑う。
もみじ姫はぽやんとその話を聞いている。
「そうそう、後、釣殿を走りすぎて止まらなくて池に落ちられたことも…。」
嫌味っぽく鈴虫が言う。
「いや、そんなことも…。できたら忘れてほしいな…。」
「誰が忘れるものですか。ねえ、ひぃ様!」
「えっ?」
「侍従の君が池に落ちた話ですわ。」
「えっと…そんなことあったかしら?」
話が飲み込めないもみじ姫は困った顔をする。
「ええ!忘れちゃったんですか。ひぃ様が十の年の正月の話ですわ。寒さで侍従の君ががたがた震えて、大騒ぎだったのに。その後、ずっと寝込んで…。」
「えっと…。」
困り顔のもみじ姫を横目で綾乃見ると、すぐに極上の笑顔を浮かべた。
「まあ、姫はお優しいから、侍従の君の御為とお忘れになられたのね。それで、侍従の君、今、宮中では何が流行っているのかしら?華やかさとは縁遠い姫にお話下さらない?」
そっと綾乃が話題を変えたが、皆宮中に憧れがあり気にも留めない。
御簾の中ではもみじ姫が一人ほっと息を吐いていた。
「今宮中では新春を迎える準備に忙しくてね。そういえば、この間…。」
宮中の噂話をし始めた侍従の君に皆、興味深げにしている。
「う〜あいつの差し金か?」
春香は塗籠の扉から恨めしげに綾乃の背を睨んだ。
しかし、いくら童姿といえど出て行けない春香はやきもきともみじ姫たちを見詰めた。