第16章 それぞれの朝
冬のひんやりした空気に思わず目を覚まし、もみじ姫は自分の胸のうちから微かに春の香りがすることに戸惑った。
―あんなに考えていたのに、夢にも現れなかった。
なのに、仄かな香りはどこからくるの?
胸を締め付けられるぬくもりを感じ、何故か涙が出てしまう。
「姫、もう目を覚まされていらっしゃいますか?」
妻戸の向こうで微かな衣擦れと気遣わしげな鈴虫の声が聞こえる。
鈴虫も昨日の話を知っている。
あんなもみじ姫は初めてと、今ももみじ姫の様子を戸惑いをもって窺っているのだ。
「起きてるわ。」
もみじ姫は努めていつも通りに声をかけた。
その声に安堵したのか、いつも通りの鈴虫の弾む声が返ってきた。
「ではすぐに支度に取りかかりますね。」
その声を合図に、何人もの女房が、姫の部屋の格子を上げ、手水の用意をし、朝餉を運んでくる。
いつも通りぽわんと、運ばれた盥から水を掬い、顔を洗うもみじ姫。
その髪をとかしながら、鈴虫松虫姉妹は顔を見合わし、いつも通りだと確認しあう。
「ねえ、鈴虫。」
「な、なんでしょうか?ひぃ様!」
「春香君のことなんだけど…。」
「えっ!」
「お歌だけでも届けてあげたいの。あの、春香君じゃなくて、送られた方に。」
鈴虫に背を向けるもみじ姫の声はどこまでもいつも通り。
しかし水に濡れた顔を拭く、その表情までは分からない。
「歌ぐらい思い合う方の側にあってほしいでしょ?」
「ひぃ様…。」
「春香君とは会わないほうがよかったのよ。招き入れて、曖昧なものに甘えていたわたしがいけないの。だっていつか別れの日が来るって心のどこかで気付いていたの。でも、短い夢だからこそ、もっと一緒にいたいと願ってしまったの。本当にわたしは幼くていけないわ。二人にも迷惑かけてごめんね。」
くるりと振り向き、二人に微笑みかけたもみじ姫の目元は拭き残した雫が涙のようにきらめいていた。
「ひぃ様。本当によろしいのですか?」
「そんな大人びたこと、ひぃ様に似合いませんわ!」
二人は詰め寄るように言った。
「そうですわね。似合いませんわ」
二人に合わせるように、落ち着いた声がかぶった。
「あ、綾乃!」
「おはようございます。」
綾乃が澄ました顔で頭を下げた。
「今日のお召し物をお持ちしました。」
「あ、あの…。」
「姫、殿方というのは簡単に諦める方ではいけませんね?」
「はいっ?」
「あ、綾乃様?」
三人は目を丸くしつつ、綾乃が何を言いたいのか分からない。
「お約束を守れますか?」
「約束?」
「会う時は、誰か女房が付き添うこと。手も触れさせない、口など言語道断!よろしいですね?」
「そ、それはどういう?」
綾乃はふぅとため息を吐く。そしてうすく微笑んだ。
「許す…ということですわ。ただ、春香の君がこないと意味のないことですが…。それとも姫にとっては簡単に忘れれることでしたか?」
もみじ姫は綾乃に飛びついた。
「ありがとう!」
「お礼を言われるほどのことではありませんわ。」
そんな言葉など聞かず、綾乃をぎゅっと抱きしめることで思いを伝えるもみじ姫。
「いつまでも単などはしたない。お着替えあそばせ。」
照れたようにそっぽを向く。
「ありがとう!」
心から喜ぶ姫に、乳姉妹二人も頷き合う。
「さぁひぃ様。」
鈴虫がもみじ姫を着替えさせようとする。
「今日、起きた時、春香君の香りがしたの!」
嬉しそうに話すもみじ姫。
「まぁひぃ様、胸のところ、赤くなってますわ!嫌だわ、虫かしら?」
もみじ姫の胸元に赤い小さな痣を見つけ、松虫が嫌な顔をした。
その言葉にひと心地ついていた綾乃がピクリと反応した。
「あら?本当?冬なのにね?」
もみじ姫も不思議そうな顔をする。
「…やっぱり、害虫だった…のかしら。」
「ん?綾乃?どうかしたの?」
もみじ姫はほにゃりと笑いかけた。
「取引って、一番の目的はそれか!あの色ぼけガキ!」
綺紅殿に綾乃の叫びが響いたとか。
訳の分からないもみじ姫は目をしばたいて、不思議そうに綾乃を見つめた。
「危険覚悟で忍び込んだのだから、あれぐらいのご褒美があってもいいよね。」
梔子の君の屋敷の東の対で、昨夜のことを思い出しつつ、春香はほくそ笑んだ。
暗闇に浮かぶ、もみじ姫の白い肌。
気持ちよさげに眠る顔。
その香りをめいいっぱい吸い込み、普段は見れない霰もない姿に胸を締め付けられた。
「軽い、いたずら心だよ。」
遠く離れる綾乃に微笑みかけるように、片目を瞑る。
「夢から出でて、会いに行った証しを残さないと!」
そう言いながら立ち上がった。
「さて、晴れて公認の間柄になったし、次の段階に進みますか!」
足取り軽く、内大臣邸に向かうのだった。
「ふぅ。」
宮中に出仕していたもみじ姫の兄、中将は困り顔でため息を吐いた。
思い出される昨夜のこと。
秘め事の共有者…というよりも強要者である、梔子の君こと師の宮の言葉にどうしようかと考えあぐねているのだ。
―やっぱり、父上より姉上に相談しよう。
中将は姉の女御がいる麗景殿に足を向けた。
―それにしても、もみじを政治の世界に巻き込んでよいものか?
どこまでも純な妹姫を思うとため息は尽きないのだった。