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コイハナ〜恋の花咲く平安絵巻〜  作者: 秋鹿
もみじ愛ずる姫君
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第15章 梔子の香に巡る思惑

 綾乃は母屋の御帳の陰で、すうすう寝息をたてるもみじ姫の髪を撫でた。

 先ほどのやりとりに一つも気づかず、気持ちよさげな顔をしている。

 

 ―ほんと、天変地異が来ても起きられないのでしょうね。

 

 でも仕方ない。

 今日のもみじ姫は常と違い、感情を激しくさせた。

 春香はとてもいい子であると泣いて綾乃に訴えたのだ。

 

 ―あんな姫、この先二度と見ないでしょうね。

 

 穏やかで、感情の荒げ方も知らないもみじ姫の初めての反抗。

 

 ―だから許したのですよ。

 

 けして、あの男の話題を出されたからではない。

 姫の本気を肌で感じたから。

 

 あの男に居場所がバレても、また使える先を代えればよい。

 それが叶わないなら尼になる、選択肢はいくつもあるのだ。

 ただどれも気が向かないだけで。

 

 それほどまでにもみじ姫の横は心地よい。

 笑顔で綾乃と呼び、自分を必要としてくれる。

 

 ―だから、あんな子どもに駆け引きで負ける訳にはいかないのよ。

 

 夢でも見ているのか、もみじ姫は眉にしわを寄せむにゃむにゃ言っている。綾乃はクスリと笑うと乱れた衣をもみじ姫の肩に掛け、傍を離れた。

 そして二階厨子の上にある香炉に香を入れ薫く。

 

 ―あんな男の香りなど消してしまいましょう。

 

 広がりゆく香。

 冬の冷たい空気に、穏やかな香が広がる。

 暗闇は何時に増して、香りを強く感じさせる。

 

 ―こんな風にあの男のことを忘れられたら…。

 

 忘れられないから、こんなに時間が経っても心が苦しいのだ。

 

 ―こんな不毛な思い、けして恋とは呼んでやらない。

 

 綾乃は自嘲気味に笑うと、姫の部屋を後にした。




 ぎいと牛車の停まる音がした。

 車宿りが騒がしい。

 

 どうやら、主人がお忍びから帰ってきたようだ。


 主人の不在の所為で、まちぼうけを食らわされた小梅は小さくため息を吐くと、自ら足を車宿りに向けた。

 

 車が着いた板の間に目当ての人がいる。

 濃い紫の直衣の雅やかな、その人。

「宮!」

「おわっと、中…じゃなかった小梅君。どうしたの?」

 いきなりの小梅の登場に梔子の君は焦った。

 あわあわと扇で口元を隠しつつ、小梅を見る。

「どうしたのじゃないでしょう!あなたのお呼びで私はずっと、こちらにいたのですよ!」

 怒りを露わにする小梅に普段は飄々した梔子の君も押され気味。しきりに車の方を気にしつつ、まぁまぁと小梅を宥めようとする。

「おや?どちらから女君でもお連れのようですね。」

 梔子の君の態度に、小梅は眉をひそめた。

「そ、そうなんだ。我が儘な人でね。私は君を待たせているから、帰らなければならないと言っているのに、別の女だと勘ぐってついてくると言うんだ。仕方ないから、東の対にお連れするよ。君、すまないが、今しばらく寝殿で待っていてくれたまえ。」

 梔子の君の言葉に小梅は深いため息を吐いた。

 そして早くしてくださいと言い残し、背を向ける。


「ふぅ、小梅君が誠実なやつでよかったよ。それにしても女を連れ帰る男だと思われているなんて…。」

「仕方ないよ。それが所詮、世間の評価さ。梔子の宮。」

 楽しそうに笑いながら、車の御簾を扇で上げる、美しい被衣の人。

 梔子の君はその人に手を差し出す。

 甘い、爽やかな、春の香りが広がる。


「ひどいじゃないか。私は君のために色々心をとしているのに、君ときたら、藤波に文を渡すどころか、探そうともしない。」

「だってあれだけじゃ分からないもん。」

「何故?だから、髪が美しくて…。」

「聞き飽きた。」


「だから、内大臣家の中の君の一の女房だよ!」


「見たところ、姫には乳姉妹しか傍使えしてないよ。」

「くぅ〜!」

 悔しがる梔子の君をちらりと見やり、春香は肩をすくめた。

「中の君の傍に、藤波なんて女はいない。あんたが得た情報が間違ってるんじゃない?」

 梔子の君の姿を楽しげに笑う春香。


 ―約束だからね。秘密にしておくよ。藤波さん。

 

 被った衣で口元を隠し、忍び笑いする。

 

 ―どんな時でも、男は目当ての姫の女房の協力が必要だからね。

 

 たかが紙の誓約。

 されど意味のある誓約。

 

 ―ちょっと自筆ってのは痛かったな。

 

 春香は闇夜の中、明るく浮かぶ寝殿を見る。

 

 ―まぁうまくいけば、なんてことはない。

 

 うまく事を運ぶには、板の間で身悶えている梔子の君と

 

 ―あなたの協力が必要なんだ。中将。

 

 寝殿で文句を言いつつ、それでも主人を待つお人好しな小梅の中将。

 すぐ近くで、聡しい子どもにそんな期待を抱かれているとは知らずに運ばれた酒に口を付けていた。

 

 ―さぁ、夢物語の秘め事を現実にしようか。

 

 黒々とした雲の衣の間から、月は煌々として地上を照らす。

 青白い月に照らされ、自信満々に微笑む春香の顔はいつも以上に艶やかに見えた。




 自室の局で文机にむかっていた綾乃は格子越しの月を見上げた。


 あの月のように白く、あの月のように自分をかき乱す、あの麗しい梔子の花。

 熱帯夜にむせかえるほど強烈に香る、白く美しいあの花のようなあの男。


 綾乃は手にした小さな白い紙の欠片を見る。


 たくさん敷き詰められていたあの文香の一枚。

 何故、一枚持ってきてしまったのだろうか。

 微かに香るあの香が変に胸を締め付ける。


 一度その胸に抱かれた思い出が俄かに蘇る。


 大きな月の下、つるりとした鮮やかな緑の葉と白く分厚い花に囲まれたあの夏の夜。

 熱を帯びた風が髪を揺らし、熱いあの男の腕の中で、濃い香りに包まれた。

 口付けられ、咄嗟に男を押して逃げようとしたが、素早く衣を掴まれ、また抱きしめられる。

 優しく髪を撫でるあの男の強い眼差しに、濃密な香りにそのまま酔ってしまえばどれだけ楽だったか。

 あの男に少しは気を許していた時もあった。


 しかし、それは許されぬ思い。

 

 幼い自分の淡い恋心をあの香りと共にそっとしまい込んで、花が汚く枯れる前に姿を消した。

 あの人の傍で叶わない思いに悲しみ続けるより、いっそ全て終わらせ、綺麗に散ってしまいたかった。 散って、また別の心を育てた方が清々するというもの。


「夏の夜の今は昔の花衣

    花散れじれにみるかげもなし」

 

 あの歌を残し、内緒で使える家を代えた。

 もう時効となっているであろう歌を今だ後生大事に抱えているとは思わなかったが。

 

 あれから何年も経っている。

 未だにあの男を思ってる訳ではない。

 大人の女になり、割り切ることと偽ることを覚えた。

 もしまた出会ってもうまくやる自信があった。

 

 ―まぁ出会うことなどないだろうけれど。

 

 綾乃は被りを振る。

 

 ―今はあの男ではなく、春香の君のことですわ。

 

 あの年の割に頭の良い少年の後ろに政治的な思惑が見えてならないのだ。

 あの男が絡んでいると二割増しで更に胡散臭い。

 

 ―もみじ姫に手を出すわけ。

 

 綾乃は知恵を巡らした。

 

 今内大臣家は左右大臣家に負けず劣らず、いや今まさに抜きん出ようとしている。

 左右大臣より年若い内大臣は穏やかな人柄で帝の信頼篤く、それを受け継ぐ三人の息子もその才能を都中に響かせている。

 

 末の姫である小君は今東宮の妃と名が上がっている。

 他家にも姫がいるが、入内するのは間違いないだろう。

 

 大君である女御は帝の寵愛深く、今は不在の中宮の位に昇られるという話も出ている。

 左大臣家の女御は帝より年齢も上で、次子は望めず、次の世代にかけるしかない。

 右大臣家の女御は皇太子である今東宮の母であるがもう亡くなられている。

 

 そして内大臣家の女御はただ今ご懐妊中。

 

 もし帝がご病気などを理由に退位されたら、元服もまだの今東宮の後がない。

 

 内大臣家の女御が男皇子をお産み申し上げれば、情勢は変わってくる。

 もし生まれたのが姫皇女であったなら…。

 今は閑職に甘んじている親王達がこぞって東宮の位に手を挙げるだろう。

 

 その時に有力なのは…帝の同母弟、師の宮、そして帝の一の宮ながら、母の身分が低いために東宮なれなかった兵部卿の宮。

 大きな後ろ盾があれば東宮になれる。

 

 例えば内大臣家で唯一、何の役目も負っていないもみじ姫の婿。

 

 姫皇女が生まれれば、帝の寵愛深い女御の口利きをもって、内大臣家の後押しを受け東宮に立候補。男皇子が生まれれば、帝の威光のない次代でも生き残れる足がかりとなる。

 

 どちらに転んでもおいしいという訳だ。

 内大臣家としても同じ。

 彼らが後ろ盾を求めるなら、内大臣か左大臣。

 さすがに今東宮擁立を果たしている右大臣家には関われない。

 

 左大臣家にも姫がいるが、一人は小君同様の東宮妃候補、もう一人いるが、母上の身分ではもみじ姫に適わない。

 

 ―師の宮であるあの男がもみじ姫に手を出すのは自分のためなのかしら。

 私をダシにして。

 

 それくらいの知恵が回る男だ。

 人の心を踏みにじるようなことも平気でする。

 利用できるものはなんでも利用する。

 

 ―だからあの歌も持ち出したのか…。


 自分の歌が政治的な駆け引きに使われていると思い当たっても綾乃はひどく冷静だった。

 まるで他人ごとのよう。

 

 ―でも何か違って見える。

 あの、変に風流気取りの男が好きでもない政に口を挟むような真似するかしら?

 

 あの男は事態を遠くから傍観し、せせら笑っているのが似合う。

 

 ―では何故、もみじ姫に?


 綾乃は碁の石を置くように、状況を布石し、最後の一手を考えあぐねた。


 ―どちらにしても、もみじ姫のために春香の君にいつも通り通っていただく。

 そしてちょっとでも情勢が分かれば今度こそは本気で追い出しましょう。

 

 それがもみじ姫に嫌われることとなろうとも、綾乃の心は堅かった。

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