第14章 朧月夜の駆け引き
夜もふけた頃、暗い寝殿の妻戸が小さく開いた。
月は雲に隠され、常よりも暗い空。
風が強いのか、庭の木々が心を揺さぶるようにざわめく。
室内は更に深い暗闇に覆われている。
暗闇でもその部屋に慣れているのか、その人物は小さな衣擦れの音をさしてゆっくりと目当ての物に近付く。
母屋の奥にある、豪奢な屏風の前、二階厨子の傍に立つとその人物はそっと息を吐いた。
そして、目の前にある小さな箱に手を掛けた。
「朧月夜に似るものぞなき…。」
誰も起きてはいない、深遠の闇に包まれたそこに、朗とした声が響いた。
高く、麗しい、少年特有の声。
その人物は弾かれたように声のした方を向き、素早く自分の袖で顔を隠す。
風で流れた雲の切れ間からそっと降り注ぐ月影が格子越しに照らした。
あまりの暗闇の重さに母屋まで光は届かぬが、その明るさは十分すぎるほどその人物と、そして相対する人物の顔を浮かび上がらせた。
母屋の奥にいる人物を見詰めるのは廂の間の柱にもたれかかった春香。
そして、対するその人物は…。
「深き世のあはれを知るも入る月の
おぼろげならぬ契りとぞ思う。」
不敵に微笑んだ春香の目に映ったのは、美しい顔を強張らせた綾乃。
「やあ。風のきつい日は月が隠れたり、出たりと忙しないね。人の心をかき乱す。」
「どうやってここへ…。」
春香はその問いに答えずに微笑む。
春香の意図が読めない綾乃はじっと春香を見詰め、思案する。
「何故ここへ?」
「あなたが来るような気がしたからだよ。朧月夜が引き合わせてくれた。やっぱり、何かしらの縁があるのだろうね。」
春香が先ほど詠んだ歌は源氏物語で光源氏が朧月夜に詠んだもの。
「…それは、他の女性にお詠みになるほうがいいのでは?あまり馬鹿げたことをなさると人を呼びますわよ。」
大きくはないが、凛として綾乃の声は闇夜によく響いた。
「どうぞ。僕は何をしても許される身なんでね。」
いたずらっぽく微笑む春香の自信がどこから来るのか。
綾乃は自分が相対しているのが本当に童なのかと疑いたくなるほどだった。
「お静かに。我らの姫がお休み中ですよ。僕はただ…今宵出会えた喜びを朧月夜の元、共に過ごしたいだけ。声を出して、人を呼ぶのはあなたも不利なのでは?」
「…ふふっ。それは脅しにはならなくてよ、小さい光源氏殿。私、こう見えても主家の信頼が厚いの。」
「それはそれは。では、そのような女房殿が何故こんな夜更けにこそこそ自分の主人の部屋にいるのです?」
「そ、それは…。」
わが意を得たりと春香は微笑む。
「その箱を見に来たのでしょう?」
その言葉に綾乃は無表情を更に固くした。
「図星?あなたのことだから、僕が帰った後鈴虫松虫に尋問して全てを聞き出したんじゃないかと思ってね。二人が僕らのことを知っていることを仄めかしたことも言ったしさ。でもあなたはその箱をもみじ姫に見せてとは言いそうにないからね、夜にこっそり調べに来るんじゃないかと思ってたんだ。それで、その箱はあなたの目当てのものだった?」
「まあ。あの時から私はあなたの策に嵌っていたのね。」
「僕をただの子どもと舐めていたのが悪いんだよ。」
春香は変わらず、魅惑的な偽善者の笑みを浮かべている。
対する綾乃も心を悟られまいと艶やかに微笑んだ。
夜の静寂の中、主人のもみじ姫のあずかり知れぬところで綺紅殿を舞台に、心の探りあいの静かな戦いが始まった。
「花散れじれに見る影もなし。僕の主人の歌、あなたは受け取ってくれる?藤波さん。」
「さあ?私の名は綾乃ですもの。勝手気ままに名づけられた名に送られた歌などいりませんわ。」
「じゃあ、何故歌を確かめにきたの?」
「私はもみじ姫の一の女房ですもの。どんな手紙だろうと知っておかなくては。それが主人を守る最良の手段でしょ?」
「違いない。」
くくっ春香は楽しそうに笑った。
「あなたのような聡明な女房がついているから、もみじには変な虫が付かないんだね。それには感謝しないと。でも、あまりに守りすぎるとかえって色めきたった噂もたたぬ間に花の盛りが過ぎてしまうよ。」
「あなたに感謝される筋合いはございませんわ。もみじ姫にはもみじ姫にあった時間の流れがございますの。確かに恋事に疎い方ですが、あなたに心配されるほど幼くはありません。」
「そうだね。」
取り付く島のない綾乃に、言い負かされている風の春香は、しかし負けを感じさせないほど余裕に満ちていた。
「話はそれだけですか?昼間は何も言わずに帰ったから、その仕返しに来たの?」
「違うよ。取引に来たんだ。」
「何を?」
怪訝な顔の綾乃。
不敵な笑みの春香。
共に月影が掛かったり、なくなったり。
月の前を通り過ぎる雲の早さがその場の緊張感を高める。
「どんなに言いつくろっても、あなたが藤波であることは今宵の行動から分る。箱を開けたのでしょう?この仄かに香るのは、甘く、狂おしい夏の夜に咲く梔子の花。あなたが知っているあの男の気に入りの香だね。あの男のように一度付いたら絡み付いてなかなか取れない。」
春香は楽しそうに綾乃を指差した。
綾乃は少し蓋の開いた箱を見やり、心の中で舌打ちをした。
「ねえ、僕がこのことをあの男に言ったら、あなたはどうなるかな?あの男は獣のように鼻を利かせてあなたの場所を探しに来るよ?」
綾乃は初めてその顔に動揺を表した。
「間違ってもみじ姫の部屋に紛れ込んだら大変だろうね?」
「…。」
「まあ、そんなこと僕がさせないけど、噂が立つの火を見るより明らか。あの人の恋の噂はあなたもよく聞くだろう。そんなものひとつになっていいのかな?」
「それは脅し?」
「これからの可能性さ。あなたはもみじ姫思いだから、そんな噂はさぞ身を裂く思いだろうね。特に昔の男との噂なんて…。」
「誰が昔の男よ!あんなの私は認めないわ。」
綾乃はその言葉にだけやたらと食いつき、怒りを露にする。
「ま、あの男とあなたの関係なんて今はどうでもいい。それよりも僕と手を組まないかい?」
意外な綾乃の怒りも気にせず、春香は思いもしない提案をした。流石の綾乃も目を大きく開き驚く。
「手を組む?」
「そう。それが取引さ。僕はあの男にあなたのことを言わない。あなたは僕がここに来ることに目を瞑る。とても分りやすい図式だろ。童姿の僕なら、姫に変な噂は立たない。訪ねてくるのも昼間だしね。それに、恋に疎い姫に恋心を教えて上げれる。もみじ姫の歌の知識もかなり深くなったでしょ?次は楽器でもと思っているんだ。僕なら変な噂を立てずにもみじ姫をどんな姫よりも美しく、色づかせることが出来るんだ。そしてあなたは僕がここに来ることにちょっと目を瞑れば、嫌な男に居場所を悟られずに済むというもの。別に悪い取引じゃないだろ?」
揚々と語る春香をじっと見詰める綾乃の眼差しはどこまでも冷たかった。
「何故、何故そこまでして姫を?」
「今は姫の御身に関る重大な時期なんだ。どこの男君だって、中の君の婿の座を狙っているよ。物語の件、都が中の君に色づくのはあっという間だった。今日だって、色気付いた馬鹿の頭がもみじを襲おうとしていたよ。でも、渦中の姫はそれに気付いていない。とっても危ういね。誰かに持っていかれるかもしれないのにそのまま置いておくなんてできない。それほどまでに僕の心はもみじを求めているんだ。」
初めて春香が感情を表に出した。
「姫が好きなのはよく分かったわ。それにしても、影で色々暗躍しているなんて、姫が知ったらどう思われるか。」
「あなたさえ口をつぐめばいい。僕は欲しいものを獲るのに手段を選ばない。暗躍?汚くても上々だよ。」
どこまでも麗しく、どこまでも凶悪な笑み。
綾乃は一瞬背筋が凍るような思いがした。
年端のいかぬ童の顔ではない。
「それは…。とても、合理的な考えをお持ちね。」
綾乃はしばし考えるように首を傾げた。春香は艶やかに微笑んでそれを見詰める。
「お断りするわ。」
綾乃は春香に負けず劣らず華々しい笑みを浮かべた。
「えっ?」
自分の思い通りにいったと思っていた春香は驚きを隠せない。
「あんな男のことで私が怪しげな取引に応じなければならないなんて考えただけでも腹立たしい。」
「じゃあバレてもいいと?」
「ふふふっ。バラしたければバラせばよいのですわ。あんな男痛くも痒くもない。」
綾乃は変な高笑いをする。余裕の笑いと言うより余裕のない中の開き直りといった風。
「大事なもみじ姫と天秤にかけるネタではないということですわ。」
「なるほど…。」
悔しそうに春香が唇を噛んだ。
「私も舐められたものですわ。」
綾乃は軽く肩にかかった髪を払うと、月影を映す庇の間に歩を進めた。
全ての手持ちを奪われ、今はただの子どもとなった春香を綾乃は冷ややかに見下ろした。
「でもあなたがもみじ姫の歌の先生をするのはあえて見咎めたりしませんわ。」
「えっ?」
思いもしない言葉に春香は目を大きくした。
「あなたの言うとおり、もみじ姫は今から色々な噂の中に置かれるでしょう。他家の姫の目の敵にされることも。でも、あなたならうまく乗り切る策を与えることができるのでしょう?」
「勿論だよ。全てからもみじを守る。」
自信満々に微笑む春香。
「あなたがそこまでもみじ姫思いだったとは…。僕の読みが甘かったかな?」
頭を掻いた春香に綾乃は優しく微笑み、そっと紙と筆を差し出した。
「身元が分かったとはいえ、知らぬ所でもみじ姫を押し倒すようなマセた童を簡単に屋敷に上げる訳にはいきませんでしょ?」
「えっ?」
綾乃はにっこり笑うと訳の分からないといった風の春香に紙を持たせる。
「自筆で誓っていただけません?一、清い間柄の距離を守ること。二、口付けをしないこと。もちろん耳を噛むのも不可。三、もみじ姫の嫌がることはしない。四、他家にもみじ姫の情報全て漏らさぬこと。五、会うときは誰か一人女房を置くこと。」
「え〜!!」
春香は最後の誓いに不平を漏らしたが、綾乃はそれなら来ることも禁止すると強気の態度。
春香は仕方なくぶすりと紙に筆を滑らす。
「変なこと書いたら承知しませんわよ。」
春香はこんなはずではと思いの他、強敵であった女房にため息をついた。
春香が内大臣家を出た時、雲が晴れ、風もおさまっていた。
美しい月のさやけさが都全てに降り注ぐ。
痛いほどに鋭い冬の冷気に身を任せ、春香は青白く輝く月を見上げた。
恋しくて、こんなにも手に入れたいと思っても届かない。
まるで今宵の月のような切ない恋心。
「やあ、どうしたんだい?月など見上げて。」
春香にかかるように影を作ったのは梔子の君。
いつものように飄々と笑う。
「役立たず!」
へらへらとした梔子の君を春香は一別すると冷たく言い捨てた。
「ええ!何故、そんなことを言うかな?も、もしかして藤波に何か…。」
「ふん。あんたの頭は藤波しか見えてないんだな。」
「もちろんだとも。」
自信満々にふんぞり返る梔子の君に春香は軽い殺意を覚えた。
しかし何か言うのも腹立たしく、ため息をつく。
「大丈夫かい?」
「大丈夫だよ!それにしてもあんたが好きになる女って…。」
「ん?」
ぽそりと呟いた春香の言葉は梔子の君には聞こえていないようだった。
「なんでもない。俺の負けって話。」
綾乃は取引に応じなかった。
しかし、綾乃の都合よく二人は手を組んだ。
誓いの紙を手にした綾乃は艶やかに微笑みこう言ったのだ。
「もみじ姫の情報を全て他家に流さない。もちろん私の情報も含まれますわ。変な男が夜な夜な甘ったるい匂いに惹かれて姫の寝室に紛れこんだら困りますものね!」
―嵌められた。
そう思ったが後の祭り。
幼い光源氏には人生経験豊富な朧月夜を落とすことはできなかったということ。
―今は…もみじを守る盾が立派で頼もしいと思うようにしよう。
そんな春香の気持ちも知らず、梔子の君はご機嫌だ。
この屋敷に藤波がいると心踊らす。
「心にもあらで浮き世にながらへば
恋したるべき夜半の月かな。」
そう過去の歌を詠んだ梔子の君の顔は、月明かりで寂しげに見えた。