第13章 染まる心は綾模様
「あっ、春香君。」
「何?」
目立つ簀の間では何時までも立ち止まれない。
二人はすぐ傍の渡殿の局に身を隠すように入った。
趣味の良い几帳の影にもみじ姫を置くと、春香は白い衣をもみじ姫の頭から取った。
そして、今だもみじ姫の目頭に溢れる涙に口を付ける。
思いもよらないことに、もみじ姫の涙はぴたりとやむ。
「ふ、拭けばいいんだから、舐めなくていいの!」
「俺がしたいの!」
いつもの春香らしくない、感情のままの余裕のない強引さにもみじ姫は驚いたように春香を見詰める。
「春香君。」
「お願いだから、もみじ。もう二度と俺の目の前であんな変な男に手を握られるなよ。俺の前でなくても、絶対だ。襲われるなんて論外!」
そう言ってもみじ姫を抱きしめた春香が少し震えているように感じたのはもみじ姫の気のせいだったのだろうか。
言葉を硬くして、力一杯自分を抱きしめてくる春香が年相応に見え、愛らしく、思わずもみじ姫は微笑んでしまう。
―大の大人を相手にわたしを守ってくれた。
怖くないはずないのに。
胸にほんのり甘酸っぱい感情がこみ上げてくる。
「春香君…。」
もみじ姫は思い切って、春香の背に手を伸ばしてみた。
抱きつかれるのは毎度のことだが、抱きしめ合うのは初めて。
どきどきしながら、ゆっくり手を伸ばす。
細い背は、思いの他しっかりしていて。
「あんの、変態左馬の頭が!」
ぼそりと呟いた春香の言葉にもみじ姫ははたと止まった。
恐怖に震えているというより、怒りに震えているという表現が似合う。
―あれ?
自分の勘違いに手を引こうとしたもみじ姫の手を春香がそっと押さえた。
「だめ。もっとしっかり抱きしめて。じゃないと、僕安心できない。」
甘えた声で、もみじ姫の耳元をくすぐる。
「近いよ、春香君。」
「いいじゃない。気持ちいいでしょ?こうやって抱きしめあうの。」
―確かに…。
と思いつつ、恥ずかしさからもみじ姫は顔を真っ赤にした。
「素直になりなよ。僕は気持ちいい。」
そういって春香は今までのしっとりした雰囲気をかき消すように明るい声を出し、もみじ姫の胸元に顔を埋めた。
「柔らかい。」
「ええっ!」
春香の新しい技にもみじ姫は頭まで真っ赤にする。
「このまま衣を剥いて、お互い身一つで抱きしめあうともっと気持ちいいと思うんだけどな。」
「またそうやって、人をからかって!」
にまりと艶やかに笑う春香に、動揺しまくりのもみじ姫は春香の背に回していた手をぱっと離し、春香の頬をむにっと掴んだ。
愛らしい顔を精一杯強張らせ、もみじ姫は怒りを表現する。
そんな顔さえも愛しいとばかりに春香は嬉しそうに微笑み、自分の頬に添えられた手を掴んだ。
いつも通りのもみじ姫であると確認すると、甘えた声でじっともみじ姫を見詰める。
「さっきの男に掴まれて痛かった?」
「う、うん。ちょっと。でも、わたし丈夫だから大丈夫よ。」
うるうるした大きな瞳に、もみじ姫の心の臓は早鐘を打つ。
「でも、僕は大丈夫じゃない。」
「な、なんで?」
「僕のもみじが、あんな変な男に汚されるなんて。」
「ちょっと握られただけ…。」
もみじ姫の言葉を待たず、春香はもみじ姫の手首をそっと舐めた。
「ちょっとでも嫌なんだ。だから、僕が清めてあげる。あんな男の感触も香りももみじには残さない。」
「春香君。」
「嫌とは言わさないよ。」
有無を言わさない強い瞳。
思わず吸い込まれそうになる。
冷たい手が春香の熱い吐息を受け、春の息吹を受けたかのように熱く、色めき立つ。
寄せられる口付けに抗えず、もみじ姫は自分の手に口を寄せる春香から目が離せない。
もみじ姫の心を読んでいるかのように春香は満足げに微笑むと、次はもみじ姫の瞼に口を寄せる。
「あいつを見た瞳も、あいつの記憶を残す頭も、余すことなく全部。」
熱い口付けに、熱に浮かされたようにもみじ姫は酔った心地になる。
「もちろん、心も。」
春香は優雅に、しかし素早くもみじ姫の胸元の袿を開くと、衣に隠された白い肌に口を寄せた。
「春香君、ダメよ!」
「ダメ、じゃないでしょ?だって、もみじの心はこんなに激しく僕を求めているのに。」
胸から広がる甘い痺れに、このまま酔い続けるとどうなるのだろうという好奇心が生まれる。
でも…。
必死に抵抗するもみじ姫を抱き寄せ、春香はその耳を甘く噛んだ。
「正直になりなよ。」
「あっ。」
「何をしているのですか!」
二人の間に割って入った厳しい声に、もみじ姫はぎょっと振り向く。
素早く春香から離れようとするが、春香はもみじ姫の手を離さない。
「姫!これはどういうことですか?」
御簾を捲り、几帳の向うで驚きの表情の綾乃が二人を見下ろす。
「あ、あの、綾乃。こ、これはね。」
驚愕の表情の綾乃に、もみじ姫はしどろもどろに言い訳しようとするが、うまい言葉が見つからない。
綾乃に春香自身を、見せて紹介するつもりが見せる場面が全然違う。
顔を青くするもみじ姫に対し、綾乃はすっと冷めたような顔になる。
「まさか。幼い童が姫の対にこっそり来ていることは知っていましたが、こんなこととは。誰もいないはずの局から声がするから覗いてみれば…。」
「ち、違うの。綾乃!」
「何が違うのですか!童といえど男。簡単に顔を見せるからこういう風に付け込まれるのです。」
素早くもみじ姫を自分の方へと引き寄せると、綾乃は春香を睨んだ。
「あのね、綾乃。」
「何もおっしゃらなくて結構。さあ、早くここを出て行きなさい。童といえど、この方はそう簡単に会える方ではないのです。今見たことは忘れましょう。しかし、あなたも姫のことを忘れ、二度とここには訪れぬことです。どうせ、どこかの知恵の廻る男君に入れ知恵されてきたのでしょう。」
美人な綾乃が怒ると、いつもの数倍恐ろしく見える。
対する春香は美しい顔を無表情のままに、じっと綾乃を見詰める。
どの間、その沈黙が続いたか。
春香はくすりと笑うと、立ち上がった。
「やっぱり、鈴虫、松虫の言うようにもみじ姫の一の女房は厳しいな。」
そして、二人の間をすっと通り過ぎ、御簾を潜った。
「もっと噛み付かれる前に退散するか。」
もみじ姫の引き止める声も聞かず、春香は優雅な物腰で二人に背を向け遠ざかる。
数歩歩き、何かに気付いたようにゆっくりと振り向くと、艶やかで好戦的な笑みを浮かべた。
「ねえ、もみじ姫。あの歌は貴方が持っておいて。あの歌も、送られた人の近くにあるならそれが本望だと思うから。たとえどんな悲しい歌でも。」
そして、そのまま春香は去っていった。
小さく歌を口ずさみながら…。
「花散れじれに、見る影もなし…。か。」
動揺し呆然と春香を見詰めるもみじ姫を綾乃はぎゅっと抱きしめ、去り行く春の香りを見続けていた。