第10章 あやめも知らぬ恋
その日から3日と空けず、春香はもみじ姫の下に通った。
夜半ではなく、明るい日の下での逢瀬。
春香が無理やり唇を奪うことはなかったが、時々意味深なことを言ってはもみじ姫をどぎまぎさせる。
「ねぇ?もみじ、次僕が来るまでにこの歌集を覚えておいてね?ちゃんと覚えたか試すから、出来なかったら、お仕置きね?」
彼が何かよからぬことを考えている時にする、魅惑的で偽善的な麗しい笑顔に、もみじ姫は春香の思惑を感じずにはいられない。
でも、だからと春香を無碍にも出来ず、結果、もみじ姫は春香が去ってから懸命に歌を覚えて頑張るのだから、どこまでも素直な姫というもの。
勘の良い綾乃がこんなもみじ姫の姿を変に思わないわけなく、また小君をあのもみじ姫が歌のお返しでやり込めたとの噂も綾乃の耳に入っている。
怪しいと思いつつもバレバレな態度で素知らぬふりをするもみじ姫可愛さに何も言えない。
どこぞの使い童と仲良くなり、隠れ鬼でもしているのだろうとぐらいに思っているよう。
しかし綾乃の予想を遥かに超える、甘い恋愛ごっこ中のもみじ姫は切欠が得られないまま春香のことを綾乃に切り出せず、綾乃に気後れしつつ、春香にも手を焼いているという風。
そんなもみじ姫の気持ちを知ってか知らずか、相も変わらずの春香。
「はぁい、もみじあ〜ん?」
鈴虫たちが用意した唐菓子を春香はもみじ姫の口に運んでみた。
もみじ姫の対屋の庇の間にはたくさんの歌集や巻物が置かれ、二人はそれに埋もれるように歌を読みあっている。
春香が出した和歌の上の句にもみじ姫が答え、答えられなかったら一つ口づけをするのが決まり事だとか。
歌集片手に真剣なもみじ姫はいきなりのことに思わず言葉通り口を開けた。
ぱくっ。
真剣に覚えていた所為か口に入って、もみじ姫は初めて甘い菓子であると気づいた。
「ふふっ。一休み。」
目を丸くするもみじ姫を愛しげに春香が見つめる。
あ〜んと言われて簡単に口を開ける、単純な自分を恥ずかしく思い、もみじ姫は赤くなる。
「あ、ありがひょう。」
口に物をいれたまま、とりあえず礼を述べてみた。
しかし礼を言ってからはたと口に物を入れながら喋るなどはしたなく感じられ、もみじ姫はさらに赤く頬を染め、慌てて歌集を置いて、口から半分出ている唐菓子を取ろうとした。
だが、それより早く春香が動く。
「大きくて食べれない?じゃあ半分こ。」
口づけするように、もみじ姫の愛らしい口から唐菓子を半分千切った。
「!」
思いもしない行動に思わず身を引くもみじ姫。
「甘い。」
もみじ姫の許容範囲なんてお構いなしに春香は自分の口元を舐めた。
「は、春香君!」
「なに?もっとほしい?」
口をはくはくと意味なく開け閉めし、言葉の紡げないもみじ姫と何一つ悪びれない春香。
「な、なんでそんな…。」
「ん?おいしそうだったから、つい、ね。」
片目を瞑ってみせる春香。
「そんな…お菓子はいっぱいあるのに、あえてわたし口から取らなくても…。お腹すいてるの?」
春香に振り回されつつも、そこはやっぱりもみじ姫。
一本も二本もずれている。
「ふふっ。お腹すいてると言うより、飢えていると言ったほうがいいかな?」
もみじ姫のボケにへこたれない強者春香はもみじ姫の頬に手をあてる。
「もみじが満たして?余すとこなく、全部。」
そう言うと、もみじ姫の唇についた唐菓子の欠片を舐めてとる。
「うにゃあ!」
春香の意外な行動に、思わず奇声をあげ、もみじ姫は素早く春香に背を向けた。
―口づけされるのかと思った。
高鳴る鼓動を落ち着かせようと、もみじ姫は息を大きく吸うが、緊張してなかなかうまくいかない。
一度唇を合わせたことはあったが、その時よりいけないことをしている気になるのは何故だろう。
はやる動悸に、未だ名のない気持ちが疼く。
「もう!言ってくれたら、自分で取ります!」
「口づけじゃなくて、残念だった?」
「残念じゃない!」
「じゃあなんでそんなに真っ赤なの?」
「こ、これは…。」
もみじ姫の赤く、熱を帯びる頬に手をやり言いよどむ様が、まるで意に反して図星を指されたように見える。
「ふふっ。まるで恋に頬を染めているように見えるよ。」
「人をからかって!悪い子!」
もみじ姫はからかわれすぎて、目にうっすらと涙が浮かんでいる。
いっぱいいっぱいになりすぎて、言葉にできない感情がもみじ姫の瞳を潤す。
「あははっ。ごめん、ごめん。もみじのあまりに反応がいいから。」
うまく感情を押さえられないもみじ姫の顔を見て、春香は思わず声を上げて笑った。
日の下がよく似合う少年らしい屈託のない笑顔。
もみじ姫はその顔を見て、やっと解放されたと胸をなで下ろす。
「もう、春香君がこういうことに慣れてるのは分かったから!でもあまり冗談は言わないでほしいわ。わたしはその、こういうの苦手で。」
「冗談じゃなくて、ホ・ン・キ!」
「うっ。」
「俺が十一でよかったね、もみじ。元服するまで間があってさ。俺が大人の男なら、待ってあげられないからね。今すぐもみじを俺のものにするのに。」
子どもらしい爽やかな笑みを浮かべつつ、あまりに子どもらしくない言葉を口にする春香。
「だから、今は懸命に恋愛ごっこに励んでよ。もみじが大人の女になるまで、俺も元服せずに待っていてあげるから。だから早く大人になってね、もみじ?俺はもみじさえその気なら、いつでも甘くとろけそうな感覚を教えてあげる。」
春香は歌集を持つもみじ姫の手からそれを取ると、指先に軽く口づけをした。
もみじ姫は頬を赤くするしかできず、ただただ春香を見つめる。
自分のことをこんなにも求めてくれる晴香にもみじ姫も好意を持たずにはいられない。
しかしそれを恋と呼んでいいものか。
心をときめかせつつも、心から春香の気持ちを受け止められないのは年のせいだけなのか。
甘酸っぱく、どこか切ない初めての感覚に戸惑いつつも酔ってしまいそうになる。
「今日はいっぱい歌を覚えたね。根気詰めて覚えたから疲れたでしょ?後一首で終わりにしようか。」
もみじ姫の心を知らず、晴香は優しく笑った。
―こういうところ、優しいのよね。
強引で、わがままでいつももみじ姫を振り回すのに、ふとした瞬間にさり気なく優しさを見せる。
―歌の暗記に疲れたと思ったから、あんな振る舞いをしたんでしょ?わたしが心おきなく休めるように。
もみじ姫は詰め込みすぎた頭がすっと軽くなり、肩の力が抜けているのに気づいた。
―本当に、何者なのかしらね、春香君は。
たどたどしい少年の優しさに触れ、もみじ姫は心ならずも微笑んでしまう。
「じゃあ最後ね。」
春香はもみじ姫の手を引き、強引に自分の方へと寄せると、もみじ姫の黒い髪をかき分け、その耳に囁く。
冷たい冬の気に冷やされた耳を熱い吐息がくすぐる。
「ほととぎす鳴くや五月のあやめぐさ。下の句はなんた?十数える間に答えられなかったら、そうだな。大人の口づけをするってのはどう?」
春香はニヤリと、例の笑みを浮かべる。
―や、やっぱり思い違いかしら?
もみじ姫は泣きそうになりながら、懸命に歌を思い出す。
大人の口づけがいかなものか分からないが、これ以上何かされたら、心の臓がもたない。
「はぁい、数えるよ。十、九、八、七。」
早口で楽しそうに数える春香は、数えながらもみじ姫の口に近付いていく。
「ちょ、ちょっと待って。」
「待たない。四、三、二、一。」
「あ、あやめも知らぬ恋もするかな!」
「ちっ!」
間一髪で叫ぶように答えたもみじ姫に春香は忌々しげに舌打ちをした。
「残念。正解。」
「またいじわるして。」
一気に答えたからか、息を切らしながらもみじ姫は渋い顔で春香を睨んだ。
しかし春香はどこ吹く風。
高慢な顔に自信満々な笑みを浮かべ、いけしゃあさゃあとしている。
そしてもみじ姫の間近でにまりと笑うと、春香は素早くもみじ姫の額に口づけをする。
「じゃあ次来るときまでにもう少し上手に愛を囁けるようになってね。あなたの心が色づくのをこんなに恋い焦がれて待っているのに。愛しい人。」
まるで春の嵐のよう。
魅惑的な笑みを残し、春香は素早く去っていった。
残されたもみじ姫は、一人ぽかんと春香の去った方を見つめている。
―やっぱり春香君が分からないわ。
優しいと見せかけて、油断ならない。
恋の道理も知らない、子どもの、心のままの恋愛ごっこ。
道理を知らないから、大人の恋より危うい。
心の赴くまま、その心を愛しむ。
「分からない。」
熱におかされたように赤らむ頬を抑え、もみじ姫は潤む瞳を伏せた。
ただ麗らかに降り注ぐ日差しは、冬ながら暖かくて―。
今はこの暖かさの所為だと自分に言い繕って。
用事を済ませ、もみじ姫の傍に戻ろうとした綾乃は、渡殿の向こうから来る人影に気付き振り返った。
「やあ、綾乃。」
「お帰りなさいませ、中将様。」
屈託のない、誠実な笑みを浮かべ、ゆっくり歩んでくるのは西の対屋の中将、もみじ姫の二番目の兄であった。
濃紺の直衣が若々しい中将の雰囲気を引き締め、落ち着いた殿上人の雰囲気を醸し出している。
「もみじのところに行くのかい?」
「ええ、このところ色々用向きがありまして、あまりお傍使えしておりませんの。」
「ははっ。父上は家令より綾乃の方が優秀と日頃から口にしているよ。正月も近いし、何かと用意が大変なんだ。俺からもよろしく頼むよ。」
「まぁ、中将様にそう言われると私が断れないことを知っていらっしゃってのお言葉ですか。」
袖で顔を隠しつつ、綾乃はそっぽを向く。
「いやいや、頭の良い綾乃を頼りにしてるのさ。頼むよ、そんなつれないことを言ってくれるな。」
飾りのない、真面目な顔で言う中将に、綾乃はもみじ姫に近いものを感じずにはいられない。
思わず微笑んでしまい、それと気付かれないようにそっと扇で口元を隠した。
「そうだ。うちの可愛い姫はどうしている?物語に夢中かな?」
この話題じゃ綾乃に言い負かされると思ったのか、中将は頭を掻きつつ、無難な話題を探す。
「え…ええ。」
綾乃らしくない言いよどみに、中将は首を傾げた。
「あまり、なのかな?」
「いいえ、大変お喜びでいらっしゃいました。畏れながら申し上げますが、姫は贈り物をお喜びになったというよりご姉弟から贈り物をされたことが嬉しいのですわ。」
にこりと笑い、綾乃は中将の不安を拭い去る。
本当は色々思うところがあるのだが、あえて言う必要はない。
「そういう子だね。わがままをあまり言わない子だから、姉や兄は嬉しくてつい甘やかしてしまう。それでも変わらず笑ってくれる姿に我々は心癒されるんだ。」
「姫自身は気づかれていらっしゃいませんが。」
綾乃の言葉に中将も如何にもその通りと頷き、二人は顔を見合わせて笑った。
「最近ご機嫌伺いに行っていないな。このまま向かったら迷惑だろうか。」
「あら?中将様の妹姫はそんなことを気になさる方でしたの?」
「そうだね。普通じゃない姫と言われるが、この時ばかりは感謝しないとね。」
嬉しそうに笑い、綾乃の案内に中将は笑った。
西の対から渡殿を渡ってすぐ、綺紅殿は柴垣の向こうに夕日を受けて佇んでいる。
「時に綾乃、もみじのことなのだが…。」
もみじ姫の部屋の手前まで来たところで、中将がふと足を止めた。
言うか言うまいか迷っている風に困り顔し、扇を広げる。
「通う男などはいるのだろうか?」
「はい?」
思いもしない質問に流石の綾乃も表情を崩す。
「あっいや、特に他意があるわけではないよ。もみじも年頃だからね。」
顔を真っ赤に中将はしどろもどろに言葉を濁す。
「今のところは存じませんか゛…。」
「そうだね。唐突に悪かった。」
中将は微妙な空気に顔を背けるように、もみじ姫の部屋へと向かった。
「たた゛…あの子宛ての文には、少し気をつけてほしい。」
綾乃の側を通り過ぎる時、中将はこれほどなく真剣な表情でそう囁いた。
「あっお兄様!」
手に持った歌集を置き、もみじ姫は思わぬ来客に笑顔を向けた。
「やあ、お元気だったかな?もみじ。」
屈託のない笑みを浮かべ、談笑を始めた二人を見やり綾乃は漠然とした不安を感じた。
何か、思いもしないことがもみじ姫の身に降りかかっているのだろうかと、何も知らず笑うもみじ姫に切なげな顔を向けた。