序〜春に鳴く鶯、水に住む蛙、そして恋に咲く華〜
雰囲気で読んで下さい。時代考証とかよく分からなかったので。気長に気楽に書くので、頑張って読んで下さい!
やまと歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞなれりける。
人の心を種と喩えるなら、和歌は心から生まれ、口から出た葉であろう。
古今和歌集の撰者の紀貫之はそう言っています。
先人はうまいこと言いますねぇ。
人の心を種に和歌が生まれるなんて。
素敵な表現!
それでね、私が思うに人の心を種に育っていくのって、和歌だけじゃないんですよね。
例えば、琴とか笛とか、お習字とか。
そういうのも心の種が成長すると同じく、うまくなっていくものだと思うんです。
心を磨き、音を磨き、 自分を磨いていく。
これって、とても素敵なことだと思いません?
でも、でもね、人の心を種として成長していくの一番はやっぱりあれですよね。
恋!
そう恋です。愛し合う二人が出会い、心の種ができる。
その種が心の成長と共に育ち、やがて優美な花を咲かせる。
なんてロマンティックなんでしょう。
紀貫之さんも意外にそんなことを考えて、古今和歌集の仮名序で、人の心を種として…なんて書いたのかもしれませんね。
だって今の時代、愛を囁くために和歌があるって言っても過言じゃないしね。
ちょっと想像してみてください。
悠久の時の狭間に咲く無数の恋の花。
どれ一つ同じじゃなく、どれも一つ綺麗で…。
あの中の一つは私の花なのかな?
きっとまだ、蕾のままなのかな?
それとも、一人悲しく片思いの花を咲かせているのかな?
なんて思っちゃだめですよ。
それでね、この悠久の時の花園に一際大きく、そして素晴しいほど鮮やかな紅い花を見つけてみてください。
見つかりましたか?
その花はまだ片思い、いや、まだこの花の主は恋する相手に出会っていないんです。
運命というのか、前世からの浅からぬ契りっていうのか、恋が生まれる前から結ばれる縁の花。
本当なら、咲くはずのない恋の花。
でも花は他の花に劣らぬほどにその花弁を広げ、咲き誇っています。
この花の主はまだ恋の相手と出会っていないといいましたけれど、その通り、二人が運命の恋に出会うのはまだ先の話。
運命って、動き出すまで時間がかかって、人をやきもきさせるものなんです。
だから、いまだ運命の恋に出会っていないあなた!安心なさい。ずばりこれからですよ!
なんて、話が違うほうに進んでいる間に、ほら。
今、運命が廻り始めましたよ。
まるで、二人の赤い糸を紡ぐがごとく。ゆっくり、少しずつ。
う〜ん。でも、この二人が出会うのはもっと先のはずなんだけどな?
どうやら、当事者たちの手で始められちゃったみたいです。
ある姫君に恋をした男君。
彼は姫に会えないことを日々もんもんと悩み続け、悩み続けて、そして開き直った。
「出会わない運命とか、先のこととか、そんなこと知るか。なりふり構ってられない。恋は勝ち取るものだ。」
と、こう来たものだから運命もビックリ。
つい動き出してしまったんです。
運命の輪ってものが。
げに恐ろしきは男の執念。運命さえも変えてしまう。
それに引き換え、相手の君は日々のんびり。
恋だの愛だの、そういうことは一つも考えていないみたい。
これは、男君が可哀想。
わたし少し、男君に同情しちゃいました。
でも、運命は動き出した。
さまざまな恋物語の舞台となったこの平安の都で、新たに生まれいずった小さな恋に耳を傾けてみて下さい。
さあ、まずは舞台を移して。
そうですね。平安の都の、しんしんと雪の降る大きなお屋敷。
何か、聞こえてきませんか?
ほら、内大臣家の中の君を呼ぶ声が…。
人の心を種として、今、物語が幕を開ける。
花に鳴く鶯、水に住む蛙、恋に咲く花ー
生きとし生けるもの
いずれか歌を詠まざりける。