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須佐妖戦帖 第5章「幕末逢魔乱」  作者: 蚰蜒(ゲジゲジ)
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其の25. 官軍と朝敵

慶応4年(1868年)1月3日、 鳥羽・伏見の戦い。戊辰戦争始まる。

1月4日、朝廷、仁和寺宮嘉彰親王に錦旗・節刀を与える。薩長軍、官軍となる。

1月6日、徳川慶喜、大坂城を脱出。

船は開陽丸、船長・榎本武揚えのもとたけあき

側近や妾、老中の板倉勝静と酒井忠惇、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬らと共に開陽丸で江戸に退却した[。榎本には江戸への退却を伝えず、彼は戦地に置き去りにされた。

勝利の可能性が十分あったにも関わらず、敵前逃亡にも等しい行動をとった動機は今も謎である。

1月15日、江戸に到着。

1月23日、海軍副総裁に任ぜられた榎本は徹底抗戦を主張したが、恭順姿勢の慶喜は採り上げず、海軍総裁の矢田堀も慶喜の意向に従い、榎本派が旧幕府艦隊を支配した。


江戸に着いた慶喜は謹慎する。しかし、慶喜を朝敵とする追討令が正式に下り、東征大総督・有栖川宮熾仁親王率いる新政府軍が東征を開始する。慶喜は、朝廷への恭順を主張。勝海舟が官軍の間に入り、事態を収拾した。

慶喜は、其の後、上野・寛永寺大慈院、水戸・弘道館と謹慎を続け、7月に徳川家が駿府に移封されると、慶喜も駿河・宝台院にて隠居した。此処に徳川政権は幕を閉じた。


しかし、此れだけでは幕末は終わらない。

江戸に逃亡した新撰組・土方歳三は、近藤勇らと幾度も官軍と戦うも全戦全敗。「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を帯び槍を執り、一も用うるところなし」と語ったと云う。洋式軍備の必要性を痛感したのである。


4月3日、千葉流山にて新政府軍に包囲され、近藤が投降。

4月25日、近藤は板橋刑場(現板橋駅前に墓所有り)にて処刑(斬首)される。

土方は其の後、会津に向かい、大鳥圭介ら旧幕府軍と合流。悲惨な会津戦争が激化する。会津藩は全滅。藩主松平容保は拘束される。会津では女も長刀で奮戦した。少年兵は殺され、ドブに投げ捨てられて、性器を切り取られ、口の中に突っ込まれ、其のまま半年間放置された。


8月19日、榎本は抗戦派の旧幕臣と共に開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦、旧幕府艦隊で江戸を脱出。


更に土方は仙台・庄内藩に逃げた。此処で榎本 武揚たちと合流し、桑名藩士らを加えて、蝦夷地(えぞちー北海道)五稜郭ごりょうかくに艦で向かい、独立國「蝦夷共和国」を訴える。しかし、圧倒的な官軍の武力、そして陳腐としか云いようの無い、砦・五稜郭は敗北する。土方は一人、官軍に突撃し、銃弾の嵐に会い、戦死。墓は無い。遺体も見付かっていない。


武角たちは出雲でこれらの話を聞いた。

「此の大きな歴史の渦の中で、俺たちの役目は何だったのか?何も意味は無い・・・皆、死んでしまったが、俺は彼等の息吹を記憶している。此れからもまた新たな戦争が起きるだろうな。なあ、若日子よ、人間の方が魍魎なのではないかな?」


坂本家は兄の権平が死去すると、龍馬も死んでしまったので家督を継ぐ男衆が居なくなった。龍馬の姉の息子(甥)が海援隊に居たが、其の彼が坂本家を継ぎ、今も続いております。

龍馬は大政奉還案によって、幕府側からも志士側からも恨みをかった。暗殺者が特定出来なかったのには、そういう背景があったのです。


新撰組副長・土方歳三ひじかたとしぞうの有名な軍服写真は蝦夷地で撮ったものであろう。彼には幼い従者がいた。幼い彼を此の勝ち目の無い戦争の犠牲者にはしたくなかった。そして使いに出した。歳三の髪の毛と写真を実家(多摩)に届けさしたのです。歳三の骨は今も五稜郭側の何処かの土の下であります。


会津藩主・松平容保まつだいらかたもり・・・元は保科ほしなと云う姓です。保科は信濃高遠藩しなのたかとうはんの藩主名。其の始祖会津藩主・保科正之ほしなまさゆきは、3代将軍徳川家光の異母弟であった。正之は保科家の養子に出された。後、家光が松平の姓を与え、会津の地を授けたのです。保科家は代々神道の家柄。容保が天皇を特別に敬った経緯は其処にある。しかし、徳川にも代々の恩義がある。容保の幕末の行動は、天皇と徳川との狭間で悩み抜いたのです。容保は孝明天皇から秘密裏に手紙を貰っていた実話があります。其れは今も現存していて内容は、天皇が「志士は嫌いだ」と述べている。此の手紙を公表していれば、会津の悲劇は無かったかもしれないが、容保はしなかった。其れが彼の武士としての風儀だったのでありましょう。


さて、此の小説には西郷や桂、勝、高杉と云った、幕末物語には必ず出て来る者達はあまり出て来ない。此の小説は歴史小説ではない。須佐の物語であり、若日子の反乱が中心であります。

天若日子は古事記に描かれている天孫です。


○天若日子 (あめのわかひこ)または、天稚彦あめわかひこ

記紀の神。

高天原たかまがはらから葦原中国あしはらのなかつくにに派遣された2番目の神。葦原中国を平定するに当たり、遣わされた天穂日命あめのほひが3年たっても戻らないので、次に天若日子が遣わされた。しかし、若日子は大国主おおくにぬし娘下照姫したてるひめと結婚し、8年間復命をしなかった。理由を問うため、遣わされた雉鳴女きじのなきめを、若日子は高皇産霊神たかみむすびかみら与えられた弓矢(天羽々矢と天鹿児弓)で、射抜いた。其の矢が高天原に届き、手にした高皇産霊神は「悪神が射た矢なら天若日子には当たらぬが、天若日子に悪い心があるなら当たる」と言挙げし、矢を投げ返すと、其の矢は天若日子の胸を貫き(これを「還矢かえしや」と呼ぶ)死んでしまった。

天若日子をそそのかした天探女あめのさぐめが、天邪鬼あまのじゃくの元となったとする説がある。アメノワカヒコの「天若」が「アマノジャク」とも読めることから、天若日子がアマノジャクだとする説もある。

穀物神として安孫子神社(滋賀県愛知郡秦荘町)などに祀られるが、祀る神社は少ない。


此の物語での天孫降臨、国譲りは、大国主命一派、出雲族が八岐大蛇の呪術に掛かり、(実際、大国主には蛇伝説が付き纏う。注連縄は雄雌の蛇が絡まった様子だと云われる)しいては魔が出雲を占領していたのだとしている。危険を感じた高天原が尊たちを派遣し、潰そうと企てた。天若日子は2番目に派遣されたが、反対に呪術に掛かってしまった・・・と云う背景をモチーフにしている。


幸明天皇は毒殺された・・・と云う説がある。岩倉具視いわくらともみは優れた政治家で、宮廷の人間であるが、龍馬などはうわべだけで彼を信用していなかった。油断成らない人物であったらしい。毒殺したのは岩倉具視・・・などと云う説もあるが、本来、現実的では無い。


佐助が皇宮警察の中の特殊機関に明治時代から天皇の側近として配慮された経緯は、このようなことであります。魔物に狙われていた孝明天皇の思慮から護衛として生まれたのですが、時、遅し・・・だった。


古代から生きる、忍者の始祖・志能備しのびの須佐一族と須佐之男の物語は此処で一旦終わります。

さて、最後まで読んでくれて感謝のいたりです。

またいつか。

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