其の14 龍馬の思案
「孝明天皇が崩御した!!」
慶喜は喜んだ。
「尊王攘夷の強健だった孝明天皇が居なくなった」
須佐たちは自責の念に叩き潰されていた。
「1200年前、皇子(聖徳太子)を殺され、今度は天子を殺された・・・・我らの甘さだ」
須佐たちは、一度、出雲部落に戻ることにした。
「須佐殿、そんな!我々はどうしたら善いのですか?!魔物がまた襲ってきたら」
「当分は無いでしょう。奴は1つ計画を叶えた。慶喜公を動きやすくしたはず。その経過を視るでしょう」
「どういうことですか?」
「開国です」
神戸港を開き、洋式軍艦を多数、手にする。薩摩は既に手にしていた。長州も海援隊を経て、薩摩から軍艦を手にしていた。彼らより上回る艦数と武器を計画していた。「奴らに対抗出来る・・・」慶喜はそう思った。「最新の銃だ!機関砲だ!農民の寄せ集めの奇兵隊なんぞに負けては武士の恥ぞ!」
「あなた方は?」
「長州にも赴いてきます」
そういうと須佐たちは京を発った。
慶応3年(1867年)1月9日(1867年2月13日) 明治天皇即位
1月11日(1867年2月15日) 徳川昭武、パリ万博のため出発
2月6日(1867年3月11日) 徳川慶喜、大坂城でロッシュと会見
3月25日(1867年4月29日) 徳川慶喜、各国公使を謁見(~29日)。兵庫開港を確約する。
4月14日(1867年5月17日) 高杉晋作死去
5月4日(1867年6月6日) 四侯会議(松平慶永、島津久光、山内豊信、伊達宗城)
5月24日(1867年6月26日) 徳川慶喜、四侯会議を制し、兵庫開港の勅許を得る。会議側の敗北を受け、薩摩藩は武力倒幕の方針を固める。
其の間、須佐は長州、薩摩にも赴き、情報を得ていた。そして京に舞い戻った。
「若日子は、やはり動かなかった。そして高杉が死んだ・・・長州はどうなるだろう」
「薩長連合ですよ。幕府と全面戦争です」
「もはや、我らの出る幕じゃない」
「土佐の人斬りの情報を得たではないですか」
「うむ、長州の預かり知らぬ処と云っていた」
「土佐は・・・・」
「土佐者たちは奴を無視していたのだろう?」
「そう、視得ました」
「思うに、催眠術のようなものだ。土佐者を装って京で情報を得ていたのだ」
「何をする気ですかね」
「わからん、確かなことは幕府が血気盛んにさせたことは云える」
「慶喜公に何か進言したのでしょうか」
「・・・・・坂本は・・・」
「はい?」
「坂本はどうしているのか?かんぱにぃは、どうなったのか?」
其の頃、土佐藩参政・後藤象二郎は、藁をも掴む気で長崎を訪れ、龍馬に会談を申し込んでいた。
土佐は脱藩浪人衆の海援隊をよく思っていなかったが、時代の流れである。土佐は時代に出遅れた。土佐藩主・山内容堂は佐幕、勤王と揺れていたのである。時代はどうみても勤王派だ。
「坂本さん、止めなさいよ」
「沢村、何故じゃ?」
「あんな奴ら!斬り捨て御免などと云って、我々郷士を遊びで斬り殺してきた連中です。武市さんだって・・・土佐勤王党の悲惨さを思うと・・・許せません!」
○沢村惣之丞1843年0月0日-1868年2月18日。満25歳没。
海援隊隊士。浪人の子として生まれ間崎哲馬から学問を学ぶ。土佐では、武市半平太の土佐勤王党に入党。其の後、吉村虎太郎と共に脱藩した。一時帰国したが、坂本龍馬と再び脱藩し、勝海舟の門下生となる。神戸海軍塾、神戸海軍操練所に入る。
神戸海軍操練所では、後の海援隊の同志らと英語・数学・航海術などを学んだ。沢村の学力は抜きんでていた。特に英語が堪能で、海援隊では外人応接掛の重要ポストを担当していた。
1968年、混乱により無人状態の長崎奉行所に自主で入居し、治安維持に勤めた。
ある日、酒帯びで抜刀している暴漢を射殺したが、後、薩摩藩士・川端平助だった。 沢村は薩摩・土佐間を悪化させぬため、自刃して果てた。
沢村は龍馬をとても慕っていた。
○土佐勤王党
幕末の土佐藩において、尊王攘夷を掲げて結成された結社。武市瑞山(ずいざん〜半平太)らによって結成された。一言で云えば、土佐閣僚などを暗殺する殺人結社だ。その先方が岡田以蔵である。京都でも暗殺を繰り返した。其の後、党の者は、次々と土佐藩に捕われて獄死、切腹、斬首とあいなった。
「半平太・・・・」龍馬は、幼なじみの無念さを思った。
「沢村、皆、死んじまったな。無念だったろう。・・・だが、俺は後藤と会うぞ」
「坂本さん!」
「会談はする。それで話がこじれた時は・・・」
「其の時は?」
「斬り殺してやる」




