@2の2 『異世界からの追撃(下)』
そんなことがあって、何日かたった。
それ以降はイベントもなく、異世界姉妹との邂逅もなく、疲れ知らずをセーブしきれずぽんぽん仕事をこなしてしまうことで、じわじわと仕事量を増やされつつも平穏に時は過ぎ。
俺が自慢の原付でテケテケと岩木川沿いを走行しているとき、それは見えた。
ちなみに岩木川というのは一級河川でかなりでかい川であり、そのためそこにかかる橋も当然に巨大化し、なんとなればその橋を屋根としてちょっとした運動場を作れるほどのスペースと高さが生まれるわけだが、そんな橋の下。
ダンボールハウスだ。一瞬、目を疑った。30年前ならいざ知らず、いまどき仮住居提供とか就職支援でホームレスなど全国的に絶滅危惧種であろう。ましてこれから秋が深まるという東北最北端の弘前においておや。
続いて、そこから出てきた人を見たとき、俺の目じりにぶわりと涙が盛り上がる。
オトヒメさんであった。
…そうだよなあ。こっちの戸籍すらないし、いざとなれば市役所に助けを求めるようなこっちの常識も持ち合わせないもんなあ。こっちの金も持ってないしなあ。さもあらん…。
いや、ていうかよもやあっちに帰ってなかったとは。こんなことなら無碍に追い出したりしなかったのに。ごめんそれは嘘だ。なんで友達ですらない赤の他人泊めないといけないの?
まあ、いずれは通報されて官憲なり役所の世話になることだろうが、それまで彼女たちはこのクソ冷え込んできた秋の深まりに、ダンボールの中で寒風に吹かれ続けるのでしょうか。
…さすがに俺も、知り合いにそうまでの仕打ちをするほど鬼ではない。
※
「あ、ありがとうございまずう」
先日会ったときの瀟洒かつオリエンタルな居住まいはどこへやら、鼻水を啜り上げるオトヒメさんは、安心のあまり泣きが入ってるどころかすがりついて泣きじゃくるウラシマ少年を傍らにひっつけて、俺に頭を下げる。ウラシマ少年は鼻水を垂れ流しである。
その姿は数日のうちに泥はねや雨を受けて襤褸切れのようになっており、肌は見るからに垢にまみれているのだった。
あのあと、原付をアパートに置いてタクシーを呼び出し、彼女たちを迎えに行って後部座席に乗せようとしたら運ちゃんにめっっっっっっっっっちゃくちゃ渋い顔をされたので、通常の運行料金の倍額払うからつってようやく承諾してもらった。当たり前だ。
念のため個人タクシーを呼んでよかった。俺が運ちゃんの立場で車が会社のものなら300%乗車拒否してるところだ。
「まあ、あれよ。とりあえず、お風呂入ってくださいな。沸かしといたんで」
「お世話になりまずう」
ズズズゾゾゾっと鼻音が一際高く轟いた。
で、二人をユニットバスに追い込んで、そこで俺は考え込まざるを得ない。
引き取ってきたはいいけど、この狭い部屋で彼女でもない女二人と暮らすなど不可能な話だ。プライベートも何もあったもんじゃねえ。仏心を出したとはいっても、自分の生活を引き換えにするつもりなど毛頭ない。
だいたい、あんな髪の色からして現実から乖離したコスプレ外人二人を泊めてます、なんつーのを大家に見咎められたとしたら、彼女らがどこの何者であり、なぜうちに泊めないといかんのかってことについて、整合性があり大家が納得しそうな説明をせんとならんが、そんなもんは完全なる無理筋である。
赤と緑だぞ。赤と緑。コミケでも少数派じゃねーのそんなの。いにしえの配管工かよ。
じゃあ市役所のお世話になろうかなつっても、日本国籍どころかこの地球世界のいずれの地域にも籍が存在してない人間の扱いってどうなんの? ふつうの外人なら元の国に強制送還なんだろうが、一応は市が持ってる宿泊施設とかを貸し出す感じになるのかな。
それならそれでいいんだけど、問題は彼女らを役所に紹介した俺の立場はどうなるのかってことだ。最終的な責任を持って俺が面倒見ろっつわれたら結局大家に説明しなきゃいけなくなって、彼女らごと俺がアパート追い出されてジ・エンドだし、オトヒメさんはともかくウラシマ少年はどっからどう見ても完全なる未成年の外人のガキなので、最悪の場合は未成年者略取とかに問われるのではなかろうか…。警察沙汰である。
一番いいのは、彼女らが自発的に自分たちの世界に帰還してくれることだが、この寒空にホームレス生活を敢行してまで帰らなかった人らが、いまさら意志を曲げるとも考えられない。詰みである。
「なぜ俺がこんな悩み苦しみを抱えることに…? いったいなんの罰で…」
天を仰ぎ、父なる主を呪わずにはいられない。試練とかいらねえから。
そんな感じで俺が神に向け悪態をついていると、オトヒメさんたちが風呂から上がった。
湯上りの卵肌がほかほかと湯気をあげて桃色に息づく姿も色っぽい。
すっかり生気を取り戻したほっぺも色づいて健康的なオトヒメさんの服装は、いわゆる裸Yシャツである。
ちなみにウラシマ少年のほうも裸Yシャツである。これにはギリギリまで悩んだ。少年のはだワイなどまったく見たくはないが、かといって少年のためにズボンだの短パンを用意しようものならオトヒメさんがそっちを選択してウラシマ少年だけがはだワイと化す、という未曾有の悲劇が巻き起こりかねない。やむを得ぬ苦渋の決断といえる。
「あの…穿きものがないようなのですが…」
「いや、すいません。ズボンはちょっといま洗濯したばっかで俺が履いてる一本しかないんですよ。ほんと申し訳ない。あ、聞きにくいんですけどパンツは大丈夫ですよね? あの手のひらくらいの大きさのひらひらした布地なんですけど」
「え、ええそちらは私たちの世界でも一般に下着として流通しているものと同じでしたので…」
顔を赤らめて恥らうオトヒメさんの姿は可憐な鉢植えの花のようだ。品種名とか全然知らんが。
ちなみになぜ一人暮らしの男の部屋に女性用のパンツなどあるのかというと、昔の彼女の忘れ物である。後々で「気持ち悪いから捨てて」と連絡が来たのだが、この部屋で女が暮らしてたという事実を忘れがたく、タンスの奥に突っ込んであったものがこのたび日の目を見た形である。ほら、男の子ってそういうとこあるじゃん?
そんな、俺の昔の彼女の忘れ形見を腰につけたはだワイで恥らうオトヒメさんと、きょとんとした様子で姉の様子も意味もわからなさげなウラシマ少年の姿は実に対照的であったが。
こういう降って湧いたような幸運に対して、ちょっとした役得を願っても許されるとおじさんは思うのだ。眼福である。
「昨晩の残りものですけど、いちおー暖かいご飯に鶏肉サラダとコーンポタージュもあるんで、いまから食べてくださいよ」
「はい…あの、え? このまま座るんですか…? この格好で…?」
「大丈夫です、俺は後ろを向いてますから。大丈夫です」
ときどき運命のいたずらによって、昨日の方向へ振り返ったりすることもあるかもしれないが、それは中年に訪れる人生の荒波が引き起こすバタフライ効果的なアレなので勘弁してほしい。
俺がこれから自分を襲うであろう人生の悲喜こもごもという名の太ももパンツに思いを馳せていると、ガツガツという咀嚼音が部屋に響く。
格好にこだわらずおパンツ丸出しで猛然と飯をかっこんでいるのは、誰あろうウラシマ少年であった。色気もクソもありはしない。
テーブル上にあった皿を、自分の分のみならずオトヒメさんの分までたいらげ始めたかと思うと、パタリとその手が止まって、ポトリとその頬を涙が一筋伝った。
「もう、がえ゛る゛う゛」
食ったものでぐっちゃぐっちゃになった口を全開にして放つ、万感のこもった泣き言であった。
数日のホームレス暮らしは、世間を知らん少年のヤワなハートをへし折るに十二分だったのだ。
※
「まあお名残惜しいことですが」
「はい、ご迷惑かけどおしでしたのに、本当にお世話になりました」
「いやこちらこそ、お役に立てず心苦しいです」
通り一遍の社交辞令的挨拶を交わし、お互いに頭を下げる。駅なんかでよく見かけるお別れの光景である。
ウラシマ少年はぷいっと横を向いたままだが。最後の最後までクソガキだったなこいつ。
「せっかく弘前に来られたのにろくなご案内もできずじまいで」
とか言うが、別に彼女らは観光に来たわけでもないのに、おかしな口上だと我ながらに思う。
「ええ、その点は本当に残念に思います。オトギキングダムよりずっと進んだこの世界のことをもっと知りたかった。そんな余裕さえあれば得がたい体験ができたでしょうに」
おお。別に俺の力で作った世界でもないが、自分の生まれ故郷をそうまで手放しに褒められるとやっぱりうれしいもんだなあ。
なんだか、このままさよならするのもつれない話な気がしてきたぞ。
別に彼女らは電車や飛行機の時間があるわけでもないし、今すぐ帰らなきゃいけないってわけでもない。多少の夜更かしで街をぶらつくくらいは許容範囲ってものだろう。
「うーん。じゃあ、せっかくだし、一箇所遊びに行ってみません?」
軽い提案のつもりだったのだ。
まさかあんなことになるとは思わなかったのだ。思いもしなかったのだ。思ってたらあんな遊びは教えなかったのだ。
だから俺は悪くないんじゃないカナ?
※
それからさらに二週間がたった。
季節はいっそう冬に向けて歩みを進め、そろそろ初雪の気配がしはじめる、鼻腔に感じる呼気も清冽な時期である。
あのふしぎないきものたちがどうなったかというと、じつはまだここにいるのです。
…ナンデ?
今日も鍛治町には元気な少年の呼び込みの声が響く。
いやいやいやいや。いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや。
いかんでしょ。それは。ポン引きつーだけで、おまわりさんの温情で目をつむってもらってるだけであってほんとはバリバリ違法だというのに、ましてやお前、未成年のポン引きってお前。
もちろん、その少年というのは誰あろうウラシマ少年です。
保護者は何してんのかって? 保護者は今頃、少年がお客を案内するお店のなかでおっさんの相手をしてるんじゃないかな…。
どうしてこうなったのかな…。人生一寸先は闇っていうけど、俺はそんな、いたいけな姉弟を苦界に叩き込む気などまるでなかったんだけど…。マジどうしてこんなことに…。
鍛治町に連れてったのが悪かったのか。
シンタに電話して、鍛治町に詳しい信用できるポン引きを紹介してもらったのが悪かったのか。
そいつに女性でも絶対楽しめるトコっていう超ざっくりしたオファーをしたのが悪かったのか。
そのオファーに「それならやっぱホストクラブっしょー!」とかアンサーしやがったポン引きが悪いのか。
なるほどそいつは目から鱗だわ、女はなんだかんだホスト系の男が大好きだもんな。つって納得した俺が悪いのか。
一晩遊ぶだけなら良心的な価格で大丈夫って聞いて、おごりでその店に連れてく気になったのが悪いのか。
最初は警戒心丸出しでおとなしくしていたオトヒメさんを、プロだけあって話術達者なホストと飲むのが面白すぎて、馬鹿騒ぎして炊きつけた俺が悪いのか。
警戒心はあっても、経験もなければ耐性もなかったオトヒメさんが、悪いのか。
わからない。なにもわからない。いまとなってはすべてが過ぎ去った暗い暗い過去である。
こんにち、われわれの前にある現実は、一晩明けていたいけな乙女であったオトヒメさんが寝ても覚めてもシュウヤさんとかいうホストらしき男の源氏名を唱えはじめたことと、ホストクラブで遊ぶ金欲しさに住居紹介込みでそういうお店に勤めだしたこと、たぶん頭文字Yな自由業が経営者であるその店では目先の変わった美人を店で使うために多少の法を曲げたこと、それに付随してウラシマ少年が姫巫女召喚師というファンタジーな職業から未成年ポン引きというハードボイルドすぎる最悪にドブくさい仕事へ華麗なるジョブチェンジを果たしたこと。以上のようなものですべてである。
だが考えてみてほしい。これは誰かの悪意が誰かを不幸に貶めようとした画策の結果ではないということを。
地獄への道は善意で舗装されている、とはよく聞く言い回しだが、なるほどここに至るすべては善意であった。
俺はオトヒメさんに楽しんでほしかった。
シンタもポン引きも、そうだった。
そしてオトヒメさんは俺たちの期待通りに楽しんだ。そう、楽しんだのだ。
いま現在だって、楽しんでる。楽しみ続けてる。なら、それでいいんじゃないかと俺は思うのだ。
今日も夜の鍛治町には少年の元気な声が響く。それは、弘前の新しい風物詩となっていくに違いない。
フォーエバーヒロサキ。フォーエバーオトギキングダム。
あらゆる世界のすべての人に笑顔と幸あれ。