@13の1 『象牙の塔』
「あ、どうも外崎さん」
「あ、どうもどうも猿ノバシ君」
「猿止です」
猿さすり君とばったり出会ったのは、以前に聞いた桃果会のたまり場『からぽねヤミー』へ足を運んでみようと思って、ちょうど店の前でのことであった。上階フロアが丸ごと店になってるという作りなので、入り口は一階にはなく、直接階段になっている。そこを猿タタリ君が降りてきた。
なぜそんな場所へ? もちろん桃様の力を借りるためである。善良な市民に罵声を浴びせ恫喝するという、権力の首座にあるものとしてあるまじき行為を唐牛新市長が連発しているとの情報を得たので、正義の人である桃様に退治していただけないかとお願いに行くのだ。
それによって唐牛市長がキャンとなって反省のあまり元の引きこもりに戻り、二度と夜の街をうろつかなくなって、はからずも鬼婆の依頼を完遂したことになり、俺の地下探索報酬が6倍になるということがあったとしてもそれはあくまで副産物にしか過ぎないのであり、俺が桃様を頼る本意とはまったく別のところにある単なる結果だということはお断りしておきたい。
「そんな私欲丸出しで行っても桃太郎さんは話も聞いてくんないと思うけど…」
何故か居るウラシマが突っ込みを入れてくる。なんで居る。
俺はウラシマ少年ボーイを完全にスルーしながら、猿なまり君に問いかけた。
「桃様は中に居るかね」
「今日は朝から見かけないですね。兄貴は自由な人だから、姿が見えないときどこ行ってるかなんて把握しきれるもんじゃないんですよ」
「ほう」
ところで、こいつは会ったその瞬間からずっと胸元に右手を突っ込んでいるのだけど、なぜだろうか。
「どこか具合でも悪くてらっしゃる?」
なんとなく、気になって聞いてみた。いや、こんなリーゼント小僧が急性アル中で倒れようが肺結核で血を吐こうがどうでもいいのだが。ほんとになんとなく気になって。
そしたらどうだ。この野郎、目をそらしてうつむきやがる。
「いや、これは、なんでもないんですけど、ただちょっと痒くて」
もう少しなんでもなさを装う努力をしろよといいたい。痒いのか。店から出てから今まで一切右手が掻く動作をしてないけどどこがどう痒いのか。
…まあ、人には誰でも秘密があるんだし、こんなに隠そうとしてるんだからそれをあえて暴こうとは思わないが。
でも、こう、なんつーかこれを見逃すと大変なことが起こりそうな予感もするんだよなあ…。
「うんまあなんでもないんならいいかな」
「はい。じゃあ、そういうことで俺は失礼します」
「おう」
すれ違いざま、ぺしっと猿語り君の右腕をぶってみた。
ゴトッ
するとどうでしょう! 重々しい音とともに、鈍色の穢れた光沢を放つ、斜めT字の形状を持つアイテムが!
「あ」
「あ」
「…」
一瞬、時間が止まった。いくら日中の歓楽街とはいえ、人通りがまったくないわけでもない。俺と、ウラシマと、猿踊り君以外に二、三人の目があった。
猿下り君が超反応でしゃがみこんで『ブツ』を覆い隠した。
「あ。あー。やべー腹痛くなってきた。これなかなか立ち上がれねーな。つらいなあ」
超棒読みで、突然の不審行動の理由を説明する。どう考えても逆に怪しい。その証拠に通行人が一斉に大声で妙なことを言い出した猿刺さり君を注視する。
「おい」
「あー。立ち上がり方忘れちまったー。えーと、どうやって立てばいいんだっけー。これは時間かかるわー。ゆっくり足元と胸元に注意しながら立たないと駄目だわー」
なんで胸元に注意が要るんだよ。不自然極まるポーズで、『何か』に覆いかぶさったまま手をごそごそやってる。おまわりさんがこのシーンを目撃したら、職務上の質問をせざるを得ない光景である。
「おい。もういいその芝居。お前それアレじゃねーか。ズドーン」
「ズドーンってなんですか! これはただのモデルガンなんですけど! そんな音出ないですよ!」
プラスチックの落下音でなかったことだけは断言していい。
つーか自分からモデルガンとか言ってんじゃねーよ。
「というか私たち二人ともゲンブツ見ちゃったから…」
そもそもモノを見てるので誤魔化しどうこうの段階の話ではない。
「そんなもん持ってどこに何しに行くつもりだよ」
「…別にどこにも何しにも行かないですが」
「…もしかして市長のところ?」
ウラシマが核心を突く。まあ、昨日の今日なわけだし、状況的にはそれ以外の推論が不可能ではある。
「…チガイマス」
「違わないんだね…」
「何が違うか、たわけが」
そのときである。路上コントを繰り広げる俺たちの後背から、艶めいたバリトンが響く。誰あろうあの人である。
相変わらず動きを感じさせないゆるゆるとした歩法の桃様は、そのままゆらりと地面に這い蹲る猿フライ君に歩み寄り、ゴツンと拳骨を落とした。
「ぐげべっ」
「俺の下について一日二日でもあるまいに、まだ破落戸のクセが抜けぬか。手のかかるやつじゃ」
「だ、だって兄貴! あの野郎兄貴の面子潰しやがって、許せねえ!」
「いくさして負けたわけでもなし。紙吹雪を浴びせられた程度で潰れる面子など犬にでも呉れておけ」
猿ドジリ君が大事に懐にしまってたブツを、桃様はあっさり取り上げ、そう諭した。
「許さねえ! 兄貴が許したって、絶対ぶっ殺してやる!」
桃様の懇切丁寧な説得も意味をなさない。男の目に涙どころか、マジ泣きしてキレているみっともなさすぎる男がそこに居た。
さすがに桃様も困った顔になり、頭痛を抑えるように額をトントンと叩く。大変珍しい桃様の困惑シーン。
「やれやれ。やむを得ぬな。タツオ、ウラシマ。よいところにおった、供をせよ」
「え? どこに? ちなみに拒否権は?」
「ない。今から市役所に参って唐牛めと談判をつける。うぬらはその証人じゃ」
ないんだ。わかってたが。
「兄貴、俺も! 俺も行きます!」
「うぬは参るな」
「なんでですか!」
「そののぼせた頭で話ができるか。大人しく上で待っておれ。万一にもついてなど来おったら、もはや弟とも子とも思わぬ」
このはっきりした拒絶を聞いて、猿選び君がショックで真っ青になった。そんなにか。まあヤクザの破門みたいなもんか。
あとは振り返りもせずスタスタ歩き出した桃様の後を、俺とウラシマで懸命に追ったのであるが。
猿お守り君はずっと地べたに伏せっぱなしであった。
※
高級クラブ、というのは銀座とか赤坂にしかないと思ってる人も居るだろうが、実は弘前にもある。
というか、下手に歴史のある街だけに、昔からの名士というか金持ちどものサロンというのが存在しており、そいつらが殿様気分でご利用になる反動的飲み屋がそれである。たかが東北の飲み屋の分際で黒服がドレスコードチェックなんてしていいと思ってるのだろうか。
そういう高級クラブのうちの一店に、なぜかその日俺とシンタが連れられてきているわけだが。そして、ファッションに疎い俺でもパッと見で上質と分かる生地のジャケットを羽織り、ベージュの落ち着いたネクタイさえ締めて、ばっちり決めてるにもホドがある桃様は完全にどっかの石油産出国の王子様のような風格だ。
で、ドレスコードがあるといったが、俺やシンタがこんなお高い店に立ち入りできるような服など持ってるわけもなく、せいぜいジーンズじゃなくてスラックスを履いてきたくらいのみすぼらしさなわけだが、桃様がチェック担当にひとつ頷いてみせるだけで俺たちも入っていいことになった。
いまさら桃様のご威光に関していちいちすげーとか驚いても疲れるので、さらっと流してそういうもんだと思って入店する俺とシンタだ。
生まれて初めてこんな店に入ったんだけど、案外家具類の配置とかはキャバクラとそんなに変わりない。
ただ、照明がシャンデリアで、床や柱が大理石で、ソファが明らかに合成皮革ではない自然な光沢の全面本皮張りであると見て取れるくらいだ。要するに調度のすべてが別世界だ。
市役所に向かったはずがなぜ高級クラブに来てるのか。そして、なぜウラシマはシンタに変身してるのか。
まず、市役所に市長はいなかった。そもそも会うのにアポとか要るんじゃ? と思ってたら、唐牛市長は就任挨拶以来一度も市庁舎に来たことがないという。クソみたいな話である。
が、そんならどこに居るんだ? という情報は非常につかみやすく、あっさりとヤサが割れた。なにせ向こうはにわかに弘前ナンバーワンの有名人になった男、引きこもり金持ち白髪ジジイの唐牛貴君である。桃様が2、3顔が広そうな人に聞いたらすぐわかった。
そしてなぜウラシマが消えたかといえば、夜間は奴のお仕事の時間だからである。ところで最近になって気づいた事実だが、飲み屋というのは基本的に休日がない商売なので、奴はこっちの世界に来てからというもの一日休んだってことがほぼないようだ。
未成年労働でポン引きで無休日労働である。すごい。労基に垂れ込んだら弘前が転覆しそうな話だ。もちろんそれを強いてるのは血縁および社会的に奴の姉ということになってる鬼婆である。
「ならお供は俺一人でも良かったんじゃねーかと思わなくもないんですが」
「なんすか! 呼び出しておいてその言い草!」
「うぬは些かでも具合や都合が悪くなると尻をまくる悪癖があるからのう」
反論したいが反論できない。だってそもそもあのイカれたおっさんの前に、わざわざ自分から顔を出すなんて。しかも桃様のお供として。栗拾うために火中に手を突っ込む真似にもホドがある。とめちゃくちゃ思ってるのは事実ではある。
しかし、こちらを振り向きもせず言い放った桃様の背が、『カネを返せとはいわんが借りた義理程度には働け』と語ってるように見えて仕方ないので逃げるにも逃げられないのだが。
「つまりあれっすね、トノは桃様と市長の会談の証人で、俺はトノの監視役ってわけっすね!」
嬉しそうだなこのクソ野郎。まあ、この馬鹿の前で醜態を晒すことだけはいかにプライドがないことに誇りを持ってる俺でも許せんので、そこらへんを桃様に完全に読まれてる人員配置なのは間違いない。
ないが、だからといってシンタに調子に乗られるのはこんなに腹立たしいことはない。
「いって! ちょっとトノなんで蹴るんすか! いってマジいって!」
「うるせえ」
「じゃれるのもその辺りにしておけ。唐牛めがあの方へおる」
居た。
店の一等奥まった場所、ひときわスペースが広く取られた席を、貸切状態で女の子を左右に侍らす白髪のオッサン。元引きこもりには見えない立派なガタイの唐牛貴くん50うん才だ。
早くもべろんべろんに出来上がりつつあり、酒臭さが距離を取っても匂ってきそうなほど顔が赤い。すでに正気でないことは明白な酔態である。
なんだかぶつぶつ言いながら下を向いてるため、こっちにはまるで気づく様子がない。
だから、先に女の子たちが反応した。
「え? あれ、桃様!? なんでここに!?」
「きゃーーーーーーっ! うそーっ! ほんとに桃様ーっ!?」
自分たちで挟み込んでるおっさんをそっちのけで、女の子たちはまっ黄色な歓声をあげる。
片手をあげてそれに応える桃様である。桃様にとって日常茶飯事だからな。弘前のアイドルの余裕だ。
「あ゛あ゛? ももだあ…? あんな素性の知れん浮浪者同然のやつがこの店に来れるわけ…」
ぐでんぐでんに頭を振りながら、貴くんが顔を上げる。その視界に桃様のイケメンフェイスが収まったと思わしき瞬間、ギョロリと目玉を剥いて、貴くんが叫ぶ。
「…なんでこの男がここに居るんだあー! ガードは何をやっとるんだこの店のガードはあ! 手抜きの仕事しおって、オーナーに言ってクビにしてやるぞ馬鹿もんがあー!」
「あまり無体を申すな。そのオーナーと俺が知己ゆえ入れただけじゃ。門番に咎はない」
まさに稲妻が落ちたような大渇に、貴くんの両隣の女の子がビクンとすくみあがったが、正直こいつの正体を知ってる俺やシンタとしては何も感じるところがない。
ましてや、桃様においておや。
「ふざ、ふざげるなあ! お前なんかがこの伝統ある店の敷居を跨ごうなんて思い上がるのもいい加減にしろお!」
「来てもよいと招待を受けただけなのだがな。なに、そんなことはよい」
貴くんのキレ芸を相手せず、桃様はそのテーブルの足元へゆらりと近づき、膝をついて頭を下げた。
「無礼と思われたならば平にご容赦願いたい。以後、俺もその郎党もそなたとは争わぬ。元より争うつもりはなかったが、その証に何せよどうせよというのであれば、俺以下一同、万難を排して証だてよう」
ええ、謝っちゃうん!?
他の面々に会ったことはないが、猿グリル君の反応を見る限り、桃果会というのは多かれ少なかれ今回の件における桃様の態度に不満を持ってそうなんだけど、ここでまるで桃様に非があるかのように謝るのって完全に逆効果なんじゃなかろうか。暴発の導火線に火をつけただけなのでなかろうか。
という俺の驚愕をよそに、事態はさらなる急展開を見せる。
貴くんが酒の入ったままのグラスを振った。
なんてことを、と思う間もなく、アルコールは桃様のピンクの頭髪に振りかかろうと飛んでいく。
それを、ひょいと頭を横にしてあっさり回避する桃様。
ええ、避けちゃうん!?
ここは誠意を見せるためにわざと当たって濡れてあげる的な場面じゃねーの!?
俺も別な意味で驚いたが、何より驚いてるのは誰あろう凶行に及んだ貴くんであった。
目をしばたかせて、何が起こったのか理解できないでいる。現実をたぐりよせるように頭を振って、空になったグラスにもう一度手酌で酒を注ぎ、ワンスモア桃様に向かって中身を振った。今度は体全体にかかるような直撃コースだ。
それを、今度は残像が残る高速移動でブンッつって避ける桃様である。貴くんの目ん玉が飛び出た。
その光景を見ていて、俺はひとつの確信を持った。
あ、このオッサン、自分がどんな生き物相手にしてるのかわかってねーんだ。死んだわこいつ。
「かような遊びはそなたの男を下げるぞ。くだらぬことはやめておくがいい」
ところでさっきから気になってるのだが、桃様が貴くんを『うぬ』じゃなくて『そなた』って二人称で呼んでるのはひょっとして尊称のつもりなのだろうか。そりゃ桃様は誰より上の人間かもしれないが、貴くんはそれではまったく尊重されてると感じないと思われるが、どうか。
俺が思ったとおり、というわけでもあるまいが、貴くんが顔を真っ赤にして、喉をガラガラにして叫ぶ。
「お、お前もお前の薄汚い手下も、全員この街に…いや、青森県に居られなくしてやる! 私は警察にもヤクザにも顔が利くんだ! 絶対に許さんからな下郎!」
絵に描いたような素晴らしい恫喝だ。
この街の警察は目の前の男に侵食されつつあるし、この街のヤクザは目の前の男に壊滅させられてると知らないんだろうか。知らないんだろうな。お坊ちゃまだからなあ。
「交渉決裂か」
いま俺の眼前で繰り広げられた光景に交渉と呼べる部分があったか大いに疑問ではあるが、桃様のなかでなんか納得いくものがあったならもうそれでいいと思う。
うなずきつつも立ち上がり、桃様は俺たちに目配せしてきた。話は終わりのようだ。
「では、俺たちは退散するといたそう。じゃがその前に」
振り向き、桃様が縦に手刀を一振り。
なんということでしょう。貴くんの前のテーブルが、その上にあったお酒の瓶や氷入れやグラスごと、絵をペーパーナイフで切り裂いたようにずるりといっぺんに切れてしまいました。まるで魔法です!
「俺相手にはいかようの仕儀でもいたせ。が、俺の郎党の誰一人に傷ひとつでも負わしてみよ、うぬの五体もこの机の如くにして呉れようぞ」
魔法を見せられて貴くんはちびった。50うん才男性の貴重な失禁シーン。
もちろんまったく嬉しくなく、俺たちは速やかにその場を去った。
帰り際、支配人っぽい人に後で弁償する旨告げる桃様はいちいちマメなお人である。




