第五話 ダンドレジー領のクラリース嬢 前編
短めですがお楽しみください
「クラリース、貴女は自分の愛する人々を信じて真っ直ぐに進みなさい」
王立学院で過ごす最後の日、私ことクラリース・ダンドレジーは恩師である数学者ジョゼフィーヌ教授の私室に呼ばれエールの言葉を送られていた。
教授はまだ三十代前半と若い女性だが国内で随一の数学者である。彼女の持つ成熟した美貌とは裏腹にあまり着飾らず地味な配色の服を好んで着用している。私はその事をいつも残念に思っていた。どうしてこの人はこう印象に残りにくい格好をしているのだろう?と、一度尋ねたこともあったが、「自分には似合わない」だの「そんな暇が無い」だのと適当な理由ではぐらかされてしまった。
「先生に教わった知識を活かしお父様の支えに・・・そして領地を豊かにしてみせます」
その言葉を聞くと教授は満足そうな笑みを浮かべて「うんうん」と頷いた。
私は、この人から数学意外にも多くの事を学んだ。経済・文化・魔法、その日々が終わりいよいよ自分の実力を発揮する時が、学んだ知識を実践する日が来るのだと胸が高鳴った。
学院を出て領地へ戻る道中で事件は起きた。街まであと少しという山中にて凶暴なゴブリンの群れに襲われたのだ。雇った護衛達は壊滅し私は命からがらその場から逃げ出したが連中は執拗に追いかけてきた。
「ギィギィ」と不快な鳴き声を発しながら追いかけるゴブリン達に囲まれ私は自身の不幸を呪った。
(私はこんなところで死んでしまうの?私はまだ何もしていない、先生から学んだ事は何一つ実践できていないのに)
私には水属性の魔法を身につけていたが才能はあまり無かった。せいぜい水流を飛ばす程度である。これでは護衛を倒した群れを退けられない。山壁に追い詰められ天に祈るように上を見上げると崖に大きな岩が出ているのが見えた。
(死なばもろともです!)
私は今までの人生で初めてとも言える程の勢いで上の岩に向かって水流を発射した。すると岩を支えていた崖の出っ張りが脆く崩れ大岩が彼女の前方に落下し転がってゴブリン達を跳ね飛ばした。
私は心の中で喝采を上げたが直ぐに絶望に顔を歪めた。
あれだけ岩に巻き込まれ数を減らしても総数の3割も倒せていなかったのである。結局無駄な足掻きでしかなかったのか?そう思った時、そいつは現れた。
全身を漆黒の衣で包んだ影の様な人間、手には見たことのない形の刃が握られている。そいつは嬉しそうにクラリースに語りかけた。
「無茶なことをするね」
どこまでも可笑しそうに、嬉しそうに優しく語りかける男の声。
「護衛隊の生き残りは助けておいた。後は君だけだ」
言うが早いか黒い影はゴブリンの群れに駆け出した。手に持った刃で踊るようにゴブリンの首を刎ね時には火炎魔法の一種なのか群れを爆発させ又は見えない何かを投げつけゴブリンの体に穴を開けていく、腕の立つ護衛でも壊滅まで追い込まれたゴブリンの群れがたった一人の人間に逆に追い込まれていた。
「ふんっ!」
最後の一匹の首を刎ねて影人間は私に向き直る。
「護衛達も体勢を立て直したみたいだし君の屋敷まであと少しだ。魔物の気配も感じられないしもう安全だろう」
そう言うと出てきた時と同じように、最初から誰もいなかったかの様に消えてしまった。
ゴブリンの死体が残っているので幻ではないと思う。私は体を震わせ瞳を輝かせた。追い詰められ死を覚悟した時に現れた漆黒の男、まさしくおとぎ話の英雄そのものの登場に魂が震えたかのような感覚を覚えた。
護衛の生き残りと合流し人の行き来がある場所入ってからもその興奮は冷めなかった。興奮が冷めてしまったのは屋敷に到着して“あの”男と出会ってからだった。
「只今戻りました。お父様」
白髪まじりの髪を整えた背の高い紳士、クラリースの父であるコロジョン・ダンドレジー男爵は帰ってきた娘をにこやかに出迎えた。
「おお、クラリースよ、よくぞ帰ってきたな。ゴブリンの群れに襲われたと聞いた時は冷や汗を流したぞ」
母を病で亡くしてからもしっかりと私を育ててくれた父、その深い愛情を受けた自身は父の為、父の治める領地の為に勉学に励みここまで帰ってきたのだ。
ふと、庭の方に目を向けるとそこには異様な風体の男が薪を運んでいた。
猫背で肌は浅黒く黄ばんだ衣類を身に付けて顔はイボだらけで下品に笑っている。はっきり言って近寄りたく無い類の男だった。私が山中で助けられた興奮も一気に覚めてしまった。
「お・・・お父様そちらの方は?」
学院に入る前にはこのような使用人は雇っていなかったはずだが私が家を出ている間に新しく雇ったのだろうか?父もあまりいい気分がしないのか眉をひそめて答えた。
「ああ、数日前から庭師として雇っているサブロだ。ああ見えて植物の知識が豊富で仕事も早くて丁寧で力もあるのだが、見ての通り変わった男だ。あまりお前が気にする事では無いよ」
そんな事よりも、と父は優しく微笑み娘を屋敷へ招き入れた。
「今日はお前が帰って来たのだから料理長にはいつもより豪勢な夕食を用意するよう命じてある。学院での話も聞きたいし早く中に入りなさい」
屋敷の玄関に入る直前サブロが私と父をじっと見ているのが見えて背筋が寒くなった。
夜、美味しい食事に家族との語らいと満足な一日を過ごし明日からは父の手助けになるように領地の事を学ばなければならない、そろそろ眠らなければと思うが頭に二つの事柄が浮かんで中々眠れない、一つは道中に死を覚悟したとき救ってくれた黒衣の方、見た事の無い刃と魔法でゴブリン達を圧倒し私と護衛隊を助けた圧倒的な実力は思い出すだけでも胸が熱くなった。一方でその真逆あの不快な庭師の男サブロ、思い出したくもないがあまりに印象的すぎて頭から離れない、住み込みで働いているので嫌でも顔を合わせる機会があると思うと憂鬱だ。
ベッドに入りそんな事を考えていると自室の扉をコンコン・コンコンとノックする音が聞こえる。こんな夜中に誰だろう?と、ドアに近づき開けようとして少し躊躇った。あの怪しげなサブロだったら恐ろしいと、それでも最大限の警戒をしてドアを開けるとそこには誰もいなかった・・・いや、廊下に一枚の紙が落ちていた。見た事もないような真っ白で質の良い紙には綺麗な字で短くこう書かれていた。
『サブロの動きを監視せよ』
後編もできれば早めに