SOFA! ~Ⅰ~
時系列:楓→中学三年生。新→中学二年生。本編最新話まで読後推奨。
曇天が、降るぞ降るぞと急き立てる。心なし早足で家に駆け込み着替えを済ます頃には、予測通り小さな雫が点々と窓を打ちつけ始めていた。
雨は嫌いじゃない。土砂降りや嵐は好きではないけれど、しとしとと窓を濡らす静かな雨は、うちに居る分には疎ましくも感じない。
部屋着に身を包みリビングへと下りてきた楓は、その静まり返った空間に、今この家には自身しかいないのだと悟る。一条さんは言わずもがな、新はきっとまだ学校で、お母さんは大方夕ご飯の買出しにでも出かけているのかもしれない。ということは、今は楓しかいない、ということだ。つまり、そういうこと。
広いリビングを一望し満足げな笑みを口元に湛えた彼女はそのままダイニングへと向かうと、逸る気持ちで温かい飲み物の準備へと取り掛かったのだった。
――以前の家では、ありえなかったもの。そして密かに楓の憧れであったもの。それはただでさえ広くないそのスペースの半分を取ってしまいかねないからと購入できず、友人の家か家具屋か学校の応接室でしか望めなかったもの。それ、が今ここに、ある。
両手に抱えるココアの入ったコップをそっと手前のテーブルに置くと、楓はここぞというポイントに移り、少し勢いをつけてそこに腰を落ち着けた。弾力があり、けれど沈みすぎず硬くもなく、程よい柔らかさで全身を支えてくれるソレ。
――ソファ。ザ・ソファ。イッツ・ア・ソファ。
成金の重役よろしくソファの背に両手を広げ、その真ん中に陣取った楓は、満ち足りたため息をぬふーっと吐いた。次いで足を組み、ちょっと身体を伸ばしてカップを取りまた背を預け、誰もいないのにどや顔で気取りながらココアを啜る。上品ぶって逆に下品なことこの上ないが、誰も見ていないこと前提でやっていることなので存分に悦に浸った。
――ああ、ソファ。ふかふかしてて、ゆったりできて、程よくフィットする。なんて素敵な家具なのだろう、ソファ。
いつもは一条さんの定位置のそこは、楓の密かな憧れでもあった。いつか思いっきりそこに身を沈めて、あんなことやこんなことがしたい。お行儀良くそのソファの一端に座りながら、夢想したものだ。
それが今、叶う時! 躊躇などしていられるものか。まごまごしていたら誰かが帰ってくるかもしれない。存分にその心地に浸りきった楓は幾分落ち着いた様子で再びカップをテーブルに戻すと、いそいそとばかりに体勢を変えた。
「うひゅふふふふふふふ。うひゅっ、むぎゅっ、うぶぶぶぶぶぶ」
今しがた腰を落ち着けていたそこに寝転がり思いっきり足を伸ばすと、うつ伏せで半回転したり戻ったりを繰り返しながら奇怪な笑い声を上げた。誰かに見られたらそれこそ噴死できる。けれど誰もいないからこそ、おもいっきりできる。ごろごろ回転したり足をばたつかせたり頭をぐりぐり摺り寄せたりして、思い残す事は無いとばかりにその夢心地を堪能した。
――ああソファ。ありがとうソファ……
「……なにしてんの」
死刑宣告の声が聞こえた。
いや、違う。消え入りそうな、新の低い声がリビングにぽつねんと転がった。片足を上げたままの状態で、楓の身体がぴしりと凍りつく。
「なに、してたの」
無情な声が楓を追い込む。うつ伏せたまま、楓は声を絞り出すようにして呟いた。
「……いつからいたの」
哀れなほど無感情なその小さな声に問われ、暫し沈黙が降りる。雨が窓を打ちつける音だけが、間を繋ぐ。そして同じく新の無感情な声は、答えた。
「楓がどや顔でふんぞり返って小指立てながらココアを啜るところk」
「わーーーー! うわーーーー! わーーーーっ」
彼の答えを皆まで待たず突如奇声を発した楓は素早く起き上がると、新の横をすり抜け怒涛の勢いでリビングから脱出した。後には呆気にとられたように立ち尽くす新と、誰ぞを哀れむかのような雨音が、ぱたぱたとリビングを埋め尽くしていった。
その後、楓は夕食を断り、リビングに近寄らず、新を避け、徹底して不干渉を貫き、最終的には何故か新が楓に謝罪することで事態は収束した。
一条家でこの話を蒸し返すことは、ご法度とされている――らしい。