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婚約者が私だけ名字で呼ぶのですが、これはやはり脈なしということでしょうか

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/11

婚約して2年、アレクシス殿下は一度も私の名前を呼ばなかった。


「——レーヴェンハルト嬢」


 今日もそう呼ばれて、私は完璧な微笑みを返す。

 社交界では誰もが知っている。次期公爵アレクシス・ヴァイスフェルトは、令嬢だろうと使用人だろうと、すべての人間を名前で呼ぶ。

 侍従のヨハンはヨハン。料理長のベルタはベルタ。幼馴染のセリーナ嬢は——リーナ。

 なのに、婚約者である私だけが「レーヴェンハルト嬢」。

 ずっと、姓のままだ。


 脈なし、という言葉がある。

 これはもはや脈なしを通り越して、脈が死んでいる。


「本日の晩餐会の席次案をお持ちしました。ご確認いただけますか」

「ああ、ありがとう、レーヴェンハルト嬢。助かる」


 丁寧だ。礼儀正しい。他人行儀とも言う。

 私はにっこりと笑って席次表を渡した。完璧な婚約者の完璧な対応。表情筋だけは2年間で相当鍛えられた。


 部屋に戻ると、侍女のマルグリットが待ち構えていた。


「お嬢様、今日の呼称は」

「レーヴェンハルト嬢。いつも通り」

「記録しておきますわ。これで730日連続です」


 マルグリットは本当に記録している。私は止めたほうがいいと思いつつ、止められなかった。だって気になるのだ。


「それで、本日の晩餐会で殿下がお呼びになった方の名前一覧ですが」


 マルグリットが手帳を開いた。


「料理長のベルタ様、1回。侍従ヨハン様、3回。セリーナ嬢——リーナ、と5回。庭師のトーマス様、2回。あ、あとトーマス様の飼い犬のベル、1回」

「……犬」

「犬にもお名前でお呼びかけでした。お嬢様の序列、現在犬以下でございます」


 知りたくなかった。


「マルグリット、その手帳を燃やして」

「事実の記録に感情は挟みません」

「それは私のセリフでは」


 自分でも不思議だった。怒りはとっくに枯れていて、残っているのは、しんとした諦めだ。

 だって2年も待ったのだ。2年間、毎日顔を合わせて、領地運営の書類を整え、晩餐会の席次を組み、客人の名簿を管理し——それで一度も「リディア」と呼ばれなかった。

 これ以上の答え合わせはいらない。


 ……いま私、呼称問題について分析報告書を書きそうになっていた。職業病だ。いや職業ではない。婚約者業だ。婚約者業という職業はない。頭がおかしくなっている。


「お嬢様、泣いてらっしゃいます?」

「泣いていません。目が乾燥しただけ」

「左様ですか。では目薬をお持ちしますわ」

「……ありがとう」


 翌日、私はアレクシス殿下に面会を申し入れた。


 2年間、一度でいいから名前を呼んでほしかった。

 それだけで、私はもう少し頑張れたのに。


 その想いを飲み込んで、執務室の扉を叩く。


「——レーヴェンハルト嬢、どうした。席次の修正か」

「いいえ。本日は、婚約解消のご相談に参りました」


 アレクシス殿下の手が止まった。

 ペンが書類の上に落ちて、インクが滲んだ。


「……は?」


 2年間、私はこの人の様々な表情を見てきた。政務に集中する真剣な顔、使用人に笑いかける穏やかな顔、幼馴染と話すときの砕けた顔。

 けれど、こんなに間の抜けた顔は初めてだった。


「婚約の解消です。書類は3通ご用意しました。殿下のご署名と、公爵家の印をいただければ——」

「待ってくれ。なぜ」


 なぜ。

 この人は本気で言っている。


「……特に理由は」

「理由なく婚約を解消する人間がいるか」

「います。ここに」


 沈黙が落ちた。

 その沈黙を破ったのは、最悪のタイミングで執務室に入ってきたセリーナ嬢だった。


「アレクシス、お茶を——あら、レーヴェンハルト嬢。ごきげんよう」

「ごきげんよう、セリーナ嬢」


 にっこり。完璧な微笑み。表情筋、2年の鍛錬。


「リーナ、少し席を外してくれないか」

「え? どうしたの、深刻な顔して」


 セリーナ嬢がアレクシスと私を交互に見て、何かを察したらしい。


「……もしかして、呼び方のこと?」

「呼び方?」


 アレクシスが首を傾げた。

 セリーナ嬢が、困ったように笑う。


「アレクシス。あなた、リディア嬢のことだけ姓で呼んでるの、気づいてる?」

「当然だ。意図的にそうしている」


 ——意図的に。

 意図的に、私だけ姓で呼んでいる。

 つまり、意識して距離を置いているということだ。

 わかっていたけれど、本人の口から聞くと、さすがに胸の奥がきしんだ。


「やはり、ご署名を」

「待て。なぜそうなる」

「意図的に姓で呼んでいるとおっしゃったではありませんか」

「そうだが」

「それは距離を置きたいという意味では」

「違う」


 アレクシスの声が、珍しく大きくなった。

 セリーナ嬢が、そっと執務室の扉を閉めて出ていった。気を遣ってくれたらしい。


「……レーヴェンハルト嬢」

「はい」

「母上に、聞いたことはあるか」

「何をですか」

「ヴァイスフェルト家の慣習を」


 慣習。

 聞いたことがない。首を横に振ると、アレクシスは額を押さえた。


「……俺の説明不足だな。いや、説明しなくても伝わると思っていた。傲慢だった」


 彼が立ち上がり、窓辺に寄った。外を向いたまま話し始める。


「ヴァイスフェルト家では、生涯を共にすると決めた相手のことを、姓で呼ぶ」


 ——は?


「名前で呼ぶのは、他人だからだ。友人だからだ。姓で呼ぶのは、その姓をヴァイスフェルトに変えるつもりだから——つまり、家族にするという意思表示だ」


 私の頭が真っ白になった。


「……それは」

「父上も母上を、結婚するまでずっと姓で呼んでいたらしい。母上は3年間、嫌われていると思っていたそうだ」


 3年。私は2年。遺伝か。この不器用は遺伝なのか。


「結婚後も3年姓で呼んでいたと聞いたが」

「合計6年ですか」

「父上はかなり重症だった」


 笑い話ではない。いや、笑い話かもしれない。私はいま笑っていいのかわからない。


「……殿下」

「なんだ」

「それは、先に言うべきことでは」

「言えなかった」


 アレクシスが振り返った。

 耳が赤い。

 この人は——2年間、ずっと耳が赤かったのだろうか。私は、見ていなかっただけなのだろうか。


「最初に挨拶に来たとき、君は手が震えていた」

「……覚えていらっしゃるのですか」

「震えながら、完璧な挨拶をした。声は一度も揺れなかった。それ以来ずっと——君のことを、姓で呼びたかった。ヴァイスフェルトにしたかったから」


 涙が出そうになった。

 表情筋の鍛錬が、初めて役に立たなかった。


「君が毎日持ってくる席次表は、37回書き直した跡があった。客人同士の因縁まで全部調べてある。名簿の注記には、来客のアレルギーや好みの花まで書いてあった。——俺は全部読んでいた」


 知らなかった。読んでいてくれたことも。気づいてくれていたことも。


「だから——」


 アレクシスが一歩、近づいた。


「リディア、と呼んでいいか」


 初めて聞く、私の名前。

 この人の声で、私の名前。


「……いまさらですか」

「練習はした」

「練習」

「鏡の前で」


 ——2年間、鏡の前で。


「何回ですか」

「数えていない。マルグリットに聞け、あの侍女は何でも記録しているだろう」

「なぜマルグリットをご存じなのですか」

「君の周囲は全部見ている。当然だ」


 当然。この人にとっては、当然。

 私だけが、何も見えていなかった。


「……リディア」


 名前を呼ばれた。

 2年分の重さで、呼ばれた。


「婚約を解消しないでくれ。——俺は、君をヴァイスフェルトにしたい」


 それは、この世界で最も不器用で、最も誠実なプロポーズだった。


「……条件が、あります」

「何でも」

「1日1回、名前で呼んでください」

「……善処する」

「善処では困ります。確約を」

「わかった。——リディア」


 その声が震えていた。

 私の手が震えていた、あの日と同じように。


 翌日。

 セリーナ嬢が私のところに来て、「ごめんなさい、私、ずっと無神経だったわ」と頭を下げた。事情を聞いたらしい。

 名前で呼ばれていたのは、家族にする気がないという意味だったのだ——と知ったセリーナ嬢の顔は、なかなか見ものだった。

 もちろん私は完璧な微笑みで「お気になさらず」と答えた。表情筋の鍛錬、2年。


 マルグリットが手帳を閉じた。


「お嬢様。記録を更新いたします。レーヴェンハルト嬢の連続日数、730日で途絶。本日よりリディアに移行」

「……マルグリット」

「はい」

「新しい手帳を用意して」

「何を記録なさるのですか」

「リディアと呼ばれた回数」


 マルグリットが、珍しく笑った。


「お嬢様。それは恋の記録ですわ」


 恋の記録。

 730日の姓と、これから始まる名前の記録。


 夜、届いた手紙の末尾に、書き慣れない文字で——「リディアへ」と添えてあった。

 少しだけ、インクが滲んでいた。

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