婚約者が私だけ名字で呼ぶのですが、これはやはり脈なしということでしょうか
婚約して2年、アレクシス殿下は一度も私の名前を呼ばなかった。
「——レーヴェンハルト嬢」
今日もそう呼ばれて、私は完璧な微笑みを返す。
社交界では誰もが知っている。次期公爵アレクシス・ヴァイスフェルトは、令嬢だろうと使用人だろうと、すべての人間を名前で呼ぶ。
侍従のヨハンはヨハン。料理長のベルタはベルタ。幼馴染のセリーナ嬢は——リーナ。
なのに、婚約者である私だけが「レーヴェンハルト嬢」。
ずっと、姓のままだ。
脈なし、という言葉がある。
これはもはや脈なしを通り越して、脈が死んでいる。
「本日の晩餐会の席次案をお持ちしました。ご確認いただけますか」
「ああ、ありがとう、レーヴェンハルト嬢。助かる」
丁寧だ。礼儀正しい。他人行儀とも言う。
私はにっこりと笑って席次表を渡した。完璧な婚約者の完璧な対応。表情筋だけは2年間で相当鍛えられた。
部屋に戻ると、侍女のマルグリットが待ち構えていた。
「お嬢様、今日の呼称は」
「レーヴェンハルト嬢。いつも通り」
「記録しておきますわ。これで730日連続です」
マルグリットは本当に記録している。私は止めたほうがいいと思いつつ、止められなかった。だって気になるのだ。
「それで、本日の晩餐会で殿下がお呼びになった方の名前一覧ですが」
マルグリットが手帳を開いた。
「料理長のベルタ様、1回。侍従ヨハン様、3回。セリーナ嬢——リーナ、と5回。庭師のトーマス様、2回。あ、あとトーマス様の飼い犬のベル、1回」
「……犬」
「犬にもお名前でお呼びかけでした。お嬢様の序列、現在犬以下でございます」
知りたくなかった。
「マルグリット、その手帳を燃やして」
「事実の記録に感情は挟みません」
「それは私のセリフでは」
自分でも不思議だった。怒りはとっくに枯れていて、残っているのは、しんとした諦めだ。
だって2年も待ったのだ。2年間、毎日顔を合わせて、領地運営の書類を整え、晩餐会の席次を組み、客人の名簿を管理し——それで一度も「リディア」と呼ばれなかった。
これ以上の答え合わせはいらない。
……いま私、呼称問題について分析報告書を書きそうになっていた。職業病だ。いや職業ではない。婚約者業だ。婚約者業という職業はない。頭がおかしくなっている。
「お嬢様、泣いてらっしゃいます?」
「泣いていません。目が乾燥しただけ」
「左様ですか。では目薬をお持ちしますわ」
「……ありがとう」
翌日、私はアレクシス殿下に面会を申し入れた。
2年間、一度でいいから名前を呼んでほしかった。
それだけで、私はもう少し頑張れたのに。
その想いを飲み込んで、執務室の扉を叩く。
「——レーヴェンハルト嬢、どうした。席次の修正か」
「いいえ。本日は、婚約解消のご相談に参りました」
アレクシス殿下の手が止まった。
ペンが書類の上に落ちて、インクが滲んだ。
「……は?」
2年間、私はこの人の様々な表情を見てきた。政務に集中する真剣な顔、使用人に笑いかける穏やかな顔、幼馴染と話すときの砕けた顔。
けれど、こんなに間の抜けた顔は初めてだった。
「婚約の解消です。書類は3通ご用意しました。殿下のご署名と、公爵家の印をいただければ——」
「待ってくれ。なぜ」
なぜ。
この人は本気で言っている。
「……特に理由は」
「理由なく婚約を解消する人間がいるか」
「います。ここに」
沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、最悪のタイミングで執務室に入ってきたセリーナ嬢だった。
「アレクシス、お茶を——あら、レーヴェンハルト嬢。ごきげんよう」
「ごきげんよう、セリーナ嬢」
にっこり。完璧な微笑み。表情筋、2年の鍛錬。
「リーナ、少し席を外してくれないか」
「え? どうしたの、深刻な顔して」
セリーナ嬢がアレクシスと私を交互に見て、何かを察したらしい。
「……もしかして、呼び方のこと?」
「呼び方?」
アレクシスが首を傾げた。
セリーナ嬢が、困ったように笑う。
「アレクシス。あなた、リディア嬢のことだけ姓で呼んでるの、気づいてる?」
「当然だ。意図的にそうしている」
——意図的に。
意図的に、私だけ姓で呼んでいる。
つまり、意識して距離を置いているということだ。
わかっていたけれど、本人の口から聞くと、さすがに胸の奥がきしんだ。
「やはり、ご署名を」
「待て。なぜそうなる」
「意図的に姓で呼んでいるとおっしゃったではありませんか」
「そうだが」
「それは距離を置きたいという意味では」
「違う」
アレクシスの声が、珍しく大きくなった。
セリーナ嬢が、そっと執務室の扉を閉めて出ていった。気を遣ってくれたらしい。
「……レーヴェンハルト嬢」
「はい」
「母上に、聞いたことはあるか」
「何をですか」
「ヴァイスフェルト家の慣習を」
慣習。
聞いたことがない。首を横に振ると、アレクシスは額を押さえた。
「……俺の説明不足だな。いや、説明しなくても伝わると思っていた。傲慢だった」
彼が立ち上がり、窓辺に寄った。外を向いたまま話し始める。
「ヴァイスフェルト家では、生涯を共にすると決めた相手のことを、姓で呼ぶ」
——は?
「名前で呼ぶのは、他人だからだ。友人だからだ。姓で呼ぶのは、その姓をヴァイスフェルトに変えるつもりだから——つまり、家族にするという意思表示だ」
私の頭が真っ白になった。
「……それは」
「父上も母上を、結婚するまでずっと姓で呼んでいたらしい。母上は3年間、嫌われていると思っていたそうだ」
3年。私は2年。遺伝か。この不器用は遺伝なのか。
「結婚後も3年姓で呼んでいたと聞いたが」
「合計6年ですか」
「父上はかなり重症だった」
笑い話ではない。いや、笑い話かもしれない。私はいま笑っていいのかわからない。
「……殿下」
「なんだ」
「それは、先に言うべきことでは」
「言えなかった」
アレクシスが振り返った。
耳が赤い。
この人は——2年間、ずっと耳が赤かったのだろうか。私は、見ていなかっただけなのだろうか。
「最初に挨拶に来たとき、君は手が震えていた」
「……覚えていらっしゃるのですか」
「震えながら、完璧な挨拶をした。声は一度も揺れなかった。それ以来ずっと——君のことを、姓で呼びたかった。ヴァイスフェルトにしたかったから」
涙が出そうになった。
表情筋の鍛錬が、初めて役に立たなかった。
「君が毎日持ってくる席次表は、37回書き直した跡があった。客人同士の因縁まで全部調べてある。名簿の注記には、来客のアレルギーや好みの花まで書いてあった。——俺は全部読んでいた」
知らなかった。読んでいてくれたことも。気づいてくれていたことも。
「だから——」
アレクシスが一歩、近づいた。
「リディア、と呼んでいいか」
初めて聞く、私の名前。
この人の声で、私の名前。
「……いまさらですか」
「練習はした」
「練習」
「鏡の前で」
——2年間、鏡の前で。
「何回ですか」
「数えていない。マルグリットに聞け、あの侍女は何でも記録しているだろう」
「なぜマルグリットをご存じなのですか」
「君の周囲は全部見ている。当然だ」
当然。この人にとっては、当然。
私だけが、何も見えていなかった。
「……リディア」
名前を呼ばれた。
2年分の重さで、呼ばれた。
「婚約を解消しないでくれ。——俺は、君をヴァイスフェルトにしたい」
それは、この世界で最も不器用で、最も誠実なプロポーズだった。
「……条件が、あります」
「何でも」
「1日1回、名前で呼んでください」
「……善処する」
「善処では困ります。確約を」
「わかった。——リディア」
その声が震えていた。
私の手が震えていた、あの日と同じように。
翌日。
セリーナ嬢が私のところに来て、「ごめんなさい、私、ずっと無神経だったわ」と頭を下げた。事情を聞いたらしい。
名前で呼ばれていたのは、家族にする気がないという意味だったのだ——と知ったセリーナ嬢の顔は、なかなか見ものだった。
もちろん私は完璧な微笑みで「お気になさらず」と答えた。表情筋の鍛錬、2年。
マルグリットが手帳を閉じた。
「お嬢様。記録を更新いたします。レーヴェンハルト嬢の連続日数、730日で途絶。本日よりリディアに移行」
「……マルグリット」
「はい」
「新しい手帳を用意して」
「何を記録なさるのですか」
「リディアと呼ばれた回数」
マルグリットが、珍しく笑った。
「お嬢様。それは恋の記録ですわ」
恋の記録。
730日の姓と、これから始まる名前の記録。
夜、届いた手紙の末尾に、書き慣れない文字で——「リディアへ」と添えてあった。
少しだけ、インクが滲んでいた。
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