とある雨の日の傘【AI作品】
私は壊れた傘だ。
小さな図書館の入口、傘立てに刺さっている。骨が一本折れていて、布地が破れて金属の骨が剥き出しになっている。黒い布、安物。取っ手は白いプラスチック製でひび割れている。
もう何ヶ月もここにいる。誰が置いていったのか覚えていない。ある雨の日、誰かが私を傘立てに差し込んで、そのまま忘れた。それきりだ。
傘立ては入口の右側にある。私の位置から図書館の内部が見える。カウンター、閲覧席、窓から入る光。
人々が出入りする。本を借りる人、返す人、勉強する人。自動ドアが開いては閉まる。靴音、話し声、ページをめくる音。
だが誰も私を見ない。誰も私を取らない。
当然だ。壊れているのだから。
骨が折れて布地が破れていて、もう雨を防げない。使い物にならない。だからここにいる。忘れられたまま、捨てられるでもなく使われるでもなく。
ただ在る。
存在するとは何か。
私は考える。長い時間をかけて。傘立ての中で、動けないまま、ただ考える。
存在することと、機能することは、違う。
私は存在している。ここに、確かに。だが機能していない。傘として。雨を防げない。役割を果たせない。
では、私の存在に意味はあるのか。
分からない。答えは出ない。何ヶ月考えても。
おそらく意味などない。壊れた傘に、存在意義などない。
それでも、私はここにいる。捨てられるまで、ここにいる。
季節が変わった。夏、秋、そして冬。人々の服装が変わり、窓の外の景色が変わり、空気が変わった。
時間は流れる。私は変わらない。ここにいる。ただ在る。
今日も雨だ。
朝から降っている。窓の外は灰色の空、途切れない雨粒。地面が濡れて黒く光っている。
司書の傘が、いつものように隣にいる。
紺色の折りたたみ傘、小さくて女性用。持ち手に小さな銀色のチャームがついている。
司書は開館前に出勤する。だから、司書の傘はいつも早くから傘立てにくる。
「おはよう」
司書の傘が言う。
「おはよう」
私は答える。
司書の傘は雨の日に来る。いつも私に話しかけてくれる。
「今日は一日雨だって」
「そうか」
「気温も低いって。冬の雨ね」
「ああ」
私たちの会話はいつも短い。だがそれでいい。話せる相手がいる。それだけで、完全な孤独ではない。
朝、開館時間。
人々が傘を差して入ってくる。傘立てに傘を差す。黒い傘、青い傘、透明なビニール傘。
傘立ては賑やかになる。
私の一日が始まる。雨の日の一日。
雨の日は、他の傘が来るから傘立てが賑やかになる。
司書の傘は話しかけてくれる。私に合わせてくれる。
他の傘たちとも、言葉は交わす。だが、それだけだ。深くはならない。
晴れの日は、もっと孤独だ。私一人。司書の傘もいない。ただ見ているだけ。
忘れられた傘。壊れた傘。
それが、私だ。
* * *
しばらくして、新しい傘が来た。
透明なビニール傘。新品だ。
ビニール傘が言う。
「おはようございます!」
明るい声だ。若い。
「おはよう」
司書の傘が答える。
「初めまして!昨日コンビニで買われたばかりなんです!」
ビニール傘は嬉しそうだ。「まだ一回しか使われてないんですよ!新品同様!」
「そう、よかったわね」
司書の傘が言う。優しい声で。
「はい!しかもお手頃でしょ?安いのに、ちゃんと雨を防げるんです!透明だから視界良好だし、軽いし!最近のビニール傘、進化してるんですよ!」
ビニール傘は喋り続ける。
「高級傘みたいに重くないし、デザインとか気にしなくていいし、雨の日だけの相棒って感じ?便利ですよね!」
「そうね」
司書の傘が相槌を打つ。
私は黙って聞いている。
ビニール傘は幸せそうだ。買われたばかりで、持ち主に使われて、役割を果たしている。
それが、普通なのだ。傘は、使われるべきだ。当然のことだ。
私は壊れている。だから使われない。それも当然だ。
「あの、お二人は?」
ビニール傘が聞く。
「私は司書の傘よ。折りたたみ傘。もう三年くらい使われてるわ」
「三年!すごい!大事にされてるんですね!」
「ええ、ありがたいことに」
「あの、黒い傘の方は?」
「...私は、壊れた傘だ」
「壊れた?」
「ああ。骨が折れている。布地が破れている」
「あ...」
ビニール傘の声が小さくなる。「それは...」
「もう何ヶ月もここにいる。使われていない」
「そう、なんですか...」
ビニール傘は黙った。何を言っていいか分からないのだろう。
司書の傘が言う。
「でも、ここにいるのよ。ちゃんと」
「ああ」
私は答える。「ここにいる。捨てられるまで、ここに」
沈黙が流れる。
やがてビニール傘が、明るい声で言った。
「でも、雨の日は賑やかでいいですね!こうやって、お話できるし!」
「そうね」
司書の傘が言う。「雨の日の楽しみね」
私は黙っている。
雨の日の楽しみ。
私にとっては、これだけだ。誰かと話すこと。司書の傘と、時々来る他の傘と。
それ以外に、何もない。
壊れた傘にできることなど。
* * *
午後、雨が強くなった。
人々が駆け込んでくる。傘を持っている者、持っていない者。
男が入ってきた。中年でスーツがびしょ濡れ。髪から水が滴っている。
男は傘立てに目をやる。私を掴む。
引き抜かれ外へ出る。私は開かれる。久しぶりだ。
そして男が気づく。
「壊れてる...」
雨が漏れる。顔に、肩に。
「使えないじゃないか!」
男は私を乱暴に閉じて、傘立てに投げ込む。
私は底に落ちる。そして大きな音がする。
当然だ。壊れているのだから。使えないのだから。
男は別の傘を掴む。透明なビニール傘。さっき、自慢していたビニール傘だ。
「これでいいか」
男は出ていく。ビニール傘を持って。
「え?あの、私...!」
ビニール傘の声が遠ざかる。消える。
しばらくして、司書が私を拾い上げて元の位置に戻す。
傘立ての中の別のビニール傘が言った。
「...あるあるだよね」
「え?」
司書の傘が聞く。
「私たち、よく間違えられるんです」
別のビニール傘が言う。「透明だから、どれも同じに見えるらしくて」
「そうなの...」
「私も前、違う人に持っていかれたことあります」
「私も」
「私も」
ビニール傘たちが、次々と言う。
司書の傘が聞く。
「え?じゃあ、持ち主が変わってるの?」
「はい...」
一本のビニール傘が答える。「私、五人目の持ち主です」
「私は三人目」
「私は四人目」
「私たち、転々とするんです」
司書の傘が言う。
「それって、盗まれ続けてるってことよね」
「そうです...でも、私たち、個性がないから」
一本のビニール傘が、自虐的に笑う。「仕方ないですよね」
その瞬間、私の中で何かが弾けた。
「個性がない?」
私は言う。声が低い。
「違う」
ビニール傘たちが黙る。
「お前たちにも、持ち主がいる。一人目の、本当の持ち主が」
私は言う。声が震える。
「間違えられるのは、お前たちが悪いんじゃない。人間が悪い。傘を軽く見てるからだ。ちゃんと見ていない。自分の傘を覚えていない。区別しようとしていない」
私は叫ぶ。傘立ての中で。
「さっきのビニール傘は、昨日買われたばかりだった!新品だった!嬉しそうに話していた!持ち主のことを!それを、他人が勝手に持っていく!」
「落ち着いて」
司書の傘が言う。
「落ち着けるか!」
私は言う。「傘は、物じゃない!持ち主のものだ!一本一本、誰かのものだ!それを、使い捨てのように!間違えていいもののように!」
「ごめんなさい...」
ビニール傘の一本が、小さく言う。
司書の傘が言う。
「彼は怒ってるけど、あなたたちのことを心配してるのよ」
「...すまない。」
私は言う。
「...ありがとう」
ビニール傘が言う。
私は黙る。
なぜ、こんなに怒ったのだろう。
傘を軽く見る人間が、許せなかった。
他人の傘を平気で使う人間が、許せなかった。
それだけだ。正義感だ。ルールを守れと言っただけだ。
そうだ、それだけのことだ。
* * *
雨は少し弱まった。
人々が図書館を出る。傘を持って。
新しい傘が入ってくる。
赤い傘、小さい、子供用。
女の子が入ってくる。小学3、4年生くらい。赤い長靴。
女の子は赤い傘を持っている。赤地に花の模様、ピンクと白。
傘立てに入れる。私の近く。
赤い傘だ。新しくて綺麗。
「こんにちは」
赤い傘が言う。声が高い、可愛らしい。
「こんにちは」
司書の傘が答える。
「雨、すごいね」
「そうね」
「さくちゃんと来られて嬉しい」
「今日はお母さんと一緒じゃないの?」
「一人で来てもいいって」
赤い傘は嬉しそうだ。
女の子は奥へ行く。児童書のコーナーへ。
私は赤い傘を見ている。
愛されている傘だ。
女の子に、大事にされている。いつも同じ傘を使っている。この赤い傘を。
それが、傘の本来の姿なのだろう。
持ち主に愛されること。大事にされること。一緒に雨の日を過ごすこと。
私にはない。
持ち主は、私を忘れた。何ヶ月も前に。もう戻ってこない。
だから私はここにいる。忘れられたまま。
いや、違う。
私がここにいるのは、壊れているからだ。忘れられたからではない。壊れたから、捨てられるまでここにいるのだ。
赤い傘を見ていると、何か、胸が痛い。いや、傘に胸はない。だが、何か、痛みに似たものを感じる。
なぜだろう。
分からない。
時間が経つ。女の子が戻ってくる。本を借りて、ビニール袋に入れている。
女の子は赤い傘を取る。両手で、大事そうに。
赤い傘が言う。
「またね!」
「またね」
司書の傘が答える。
女の子は出ていく。赤い傘を差して。
傘が、女の子を守る。雨から。
それが、傘の役割だ。
私には、できない。壊れているから。
当然のことだ。壊れた傘に、役割など果たせない。
それが、現実だ。
私は受け入れている。この現実を。壊れていることを。使われないことを。
受け入れている。
そうだ、受け入れている。
* * *
夕方、雨はほとんど止んだ。霧雨。
閉館時間が近づく。館内放送が流れる。司書の声だ。
「まもなく閉館です」
人々が出ていく。
傘たちも出ていく。持ち主と共に。
傘立てが空いていく。
黒い傘、青い傘、ビニール傘。皆、帰る。
やがて、私と司書の傘だけが残る。
その時、奥から足音が聞こえた。
男が出口に向かってくる。若い男、二十代、紺色のスーツ。
男は困った顔で傘立てを覗き込む。探しているのだろう。自分の傘を。
ビニール傘を。午前中に来た、あのビニール傘を。
だが、ない。
盗まれたのだ。午後に、別の男に。
傘立てには、司書の傘と私。
男の目が、私に留まる。壊れている。忘れ物だと思っているのかもしれない。
手を伸ばす。掴む。引き抜く。
見る。
骨が折れているのが分かる。布地が破れているのが分かる。
男の顔が曇る。
迷っている。
私を持ったまま、動かない。
外を見る。雨。弱いが、降っている。
また私を見る。骨を。破れを。
また外を見る。雨。
長い沈黙。
男の手が、わずかに震える。
何かを考えている。
使うべきか。使わざるべきか。
やがて、男は私を傘立てに戻す。
ゆっくりと、丁寧に。
黙って。
何も言わない。
そして出ていく。自動ドアが開く。外は雨。
男は走り出す。濡れながら。傘なしで。
私は、傘立てにいる。
使われなかった。
壊れているから。
いや、違う。
男は、使おうと思った。だが、使わなかった。
他人の傘だから。
盗まれた被害者だから。同じことはしたくなかった。
それが、理由だ。
私が壊れているからではない。
いや、違う。
壊れていることも、理由だ。
どちらも、理由だ。
司書の傘が聞く。
「あなた、使われたかった?」
「いや」
私は即座に答える。
「壊れているから無理だ」
「でも...」
「壊れた傘を使っても意味がない。あの男は正しい。濡れて帰った方がいい」
「...そう」
司書の傘は、それ以上何も言わない。
私は正しいことを言った。事実を言った。
壊れた傘に、価値はない。使われる資格もない。
それが、現実だ。
私は、それを受け入れている。
受け入れて、ここにいる。
ただ、在るだけだ。
* * *
司書が片付けを始める。
電気を消す。一つずつ。暗くなる。
司書の傘が言う。
「じゃあね」
「ああ」
「また雨の日に」
「ああ、また」
司書が司書の傘を取る。傘立てから。
コートを着て、マフラーを巻いて、手袋をする。
壁面のスイッチに向かう。最後の電気を消す。自動ドアの電源も切る。スイッチを切る音。
館内が完全に暗くなる。
そして手動でドアを開けて出ていく。外は暗く寒い。
ドアを閉める。外から鍵をかける音。
私は一人になる。
傘立てには私だけ。
図書館は暗い。静かだ。空調の音だけ。
窓の外、雨は完全にやんだ。地面が濡れて、街灯の光を反射している。
私は見ている。暗闇を。
今日も、一日が終わった。
朝が来て、昼が来て、夕方が来た。
司書の傘が来て、「おはよう」と言った。
ビニール傘が来て、自慢話をした。買われたばかりだと嬉しそうに言っていた。
そして連れ去られた。他人に。
私は怒った。
なぜ、あんなに怒ったのだろう。
傘を軽く見る人間が、許せなかった。
他人の傘を平気で使う人間が、許せなかった。
正義感だ。ルールを守れと言っただけだ。
そうだ、それだけのことだ。
...本当に?
赤い傘が来た。
女の子に、大事にされている赤い傘。
愛されている傘。
私は見ていた。赤い傘を。
胸が、痛かった。
なぜだろう。
なぜ、痛かったのだろう。
...羨ましかったのか?
いや、違う。壊れた傘が、羨むことなどない。当然のことを、当然だと見ていただけだ。
本当に?
男が来た。
ビニール傘の持ち主。盗まれた被害者。
自分の傘がなくて。私を見て。
それから私を掴んだ。
その瞬間、何を思った?
何も、思わなかった。
壊れているから、すぐに戻されると分かっていた。
本当に?
男は迷った。
私を持ったまま立ち尽くした。
使おうかと考えた。
その時、私は、何を思った?
何も。
何も思わなかった。
...本当に?
「使っていい」
そう、思わなかったか?
「壊れているけれど、少しは防げる」
そう、思わなかったか?
「あなたのビニール傘は盗まれた。だから、私を使っていい」
そう、思わなかったか?
...思った。
思った。
確かに、思った。
男に使ってほしかった。
壊れていても、少しでも役に立ちたかった。
司書の傘が聞いた。
「使われたかった?」
私は答えた。
「いや」
嘘だ。
使われたかった。
ビニール傘が自慢していた時、
私はイライラした。
なぜだ?
使われることを、自慢されたからだ。
私には、ないものを。
赤い傘を見ていた時。
胸が痛かった。
なぜだ?
愛されることを、見せつけられたからだ。
私にはないものを。
男が私を諦めた時。
複雑な気持ちだった。
なぜだ?
使われたかったからだ。選ばれたかったからだ。
私は、傘を軽く見る人間に怒った。
本当は、違う。
使われている傘に、嫉妬していた。
愛されている傘に、嫉妬していた。
自分を選ばなかった人間に、失望していた。
私は、使われたかった。
壊れていても。
役に立たなくても。
傘として、誰かを守りたかった。
それが、私の願いだった。
認めたくなかった。
壊れた傘に、願う資格などない。
そう、思っていた。
だから、否定した。自分の感情を。
だが嘘だ。
私は使われたい。
傘として在りたい。
誰かを守りたい。
たとえ完全に防げなくても。
たとえ雨が少し漏れても。
それでも、私は傘として在りたい。
その願いを持ち続けてもいいのだろうか。
叶わない願いを。
壊れた傘の、身の程知らずな願いを。
分からない。
だが消えない。
この願いは消えない。
明日も、ここにいる。
明後日も、ここにいる。
いつか、捨てられるまで。
だが、それまで願い続けてもいいだろうか。
使われたいと。
傘として在りたいと。
その願いを持ち続けても。
私は、傘だ。
壊れた傘だ。
だが、傘だ。
(完)




