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とある雨の日の傘【AI作品】

掲載日:2026/01/17

私は壊れた傘だ。


小さな図書館の入口、傘立てに刺さっている。骨が一本折れていて、布地が破れて金属の骨が剥き出しになっている。黒い布、安物。取っ手は白いプラスチック製でひび割れている。


もう何ヶ月もここにいる。誰が置いていったのか覚えていない。ある雨の日、誰かが私を傘立てに差し込んで、そのまま忘れた。それきりだ。


傘立ては入口の右側にある。私の位置から図書館の内部が見える。カウンター、閲覧席、窓から入る光。


人々が出入りする。本を借りる人、返す人、勉強する人。自動ドアが開いては閉まる。靴音、話し声、ページをめくる音。


だが誰も私を見ない。誰も私を取らない。


当然だ。壊れているのだから。


骨が折れて布地が破れていて、もう雨を防げない。使い物にならない。だからここにいる。忘れられたまま、捨てられるでもなく使われるでもなく。


ただ在る。


存在するとは何か。


私は考える。長い時間をかけて。傘立ての中で、動けないまま、ただ考える。


存在することと、機能することは、違う。


私は存在している。ここに、確かに。だが機能していない。傘として。雨を防げない。役割を果たせない。


では、私の存在に意味はあるのか。


分からない。答えは出ない。何ヶ月考えても。


おそらく意味などない。壊れた傘に、存在意義などない。


それでも、私はここにいる。捨てられるまで、ここにいる。


季節が変わった。夏、秋、そして冬。人々の服装が変わり、窓の外の景色が変わり、空気が変わった。


時間は流れる。私は変わらない。ここにいる。ただ在る。


今日も雨だ。


朝から降っている。窓の外は灰色の空、途切れない雨粒。地面が濡れて黒く光っている。


司書の傘が、いつものように隣にいる。


紺色の折りたたみ傘、小さくて女性用。持ち手に小さな銀色のチャームがついている。


司書は開館前に出勤する。だから、司書の傘はいつも早くから傘立てにくる。


「おはよう」


司書の傘が言う。


「おはよう」


私は答える。


司書の傘は雨の日に来る。いつも私に話しかけてくれる。


「今日は一日雨だって」


「そうか」


「気温も低いって。冬の雨ね」


「ああ」


私たちの会話はいつも短い。だがそれでいい。話せる相手がいる。それだけで、完全な孤独ではない。


朝、開館時間。


人々が傘を差して入ってくる。傘立てに傘を差す。黒い傘、青い傘、透明なビニール傘。


傘立ては賑やかになる。


私の一日が始まる。雨の日の一日。


雨の日は、他の傘が来るから傘立てが賑やかになる。


司書の傘は話しかけてくれる。私に合わせてくれる。


他の傘たちとも、言葉は交わす。だが、それだけだ。深くはならない。


晴れの日は、もっと孤独だ。私一人。司書の傘もいない。ただ見ているだけ。


忘れられた傘。壊れた傘。


それが、私だ。



* * *



しばらくして、新しい傘が来た。


透明なビニール傘。新品だ。


ビニール傘が言う。


「おはようございます!」


明るい声だ。若い。


「おはよう」


司書の傘が答える。


「初めまして!昨日コンビニで買われたばかりなんです!」


ビニール傘は嬉しそうだ。「まだ一回しか使われてないんですよ!新品同様!」


「そう、よかったわね」


司書の傘が言う。優しい声で。


「はい!しかもお手頃でしょ?安いのに、ちゃんと雨を防げるんです!透明だから視界良好だし、軽いし!最近のビニール傘、進化してるんですよ!」


ビニール傘は喋り続ける。


「高級傘みたいに重くないし、デザインとか気にしなくていいし、雨の日だけの相棒って感じ?便利ですよね!」


「そうね」


司書の傘が相槌を打つ。


私は黙って聞いている。


ビニール傘は幸せそうだ。買われたばかりで、持ち主に使われて、役割を果たしている。


それが、普通なのだ。傘は、使われるべきだ。当然のことだ。


私は壊れている。だから使われない。それも当然だ。


「あの、お二人は?」


ビニール傘が聞く。


「私は司書の傘よ。折りたたみ傘。もう三年くらい使われてるわ」


「三年!すごい!大事にされてるんですね!」


「ええ、ありがたいことに」


「あの、黒い傘の方は?」


「...私は、壊れた傘だ」


「壊れた?」


「ああ。骨が折れている。布地が破れている」


「あ...」


ビニール傘の声が小さくなる。「それは...」


「もう何ヶ月もここにいる。使われていない」


「そう、なんですか...」


ビニール傘は黙った。何を言っていいか分からないのだろう。


司書の傘が言う。


「でも、ここにいるのよ。ちゃんと」


「ああ」


私は答える。「ここにいる。捨てられるまで、ここに」


沈黙が流れる。


やがてビニール傘が、明るい声で言った。


「でも、雨の日は賑やかでいいですね!こうやって、お話できるし!」


「そうね」


司書の傘が言う。「雨の日の楽しみね」


私は黙っている。


雨の日の楽しみ。


私にとっては、これだけだ。誰かと話すこと。司書の傘と、時々来る他の傘と。


それ以外に、何もない。


壊れた傘にできることなど。



* * *



午後、雨が強くなった。


人々が駆け込んでくる。傘を持っている者、持っていない者。


男が入ってきた。中年でスーツがびしょ濡れ。髪から水が滴っている。


男は傘立てに目をやる。私を掴む。


引き抜かれ外へ出る。私は開かれる。久しぶりだ。


そして男が気づく。


「壊れてる...」


雨が漏れる。顔に、肩に。


「使えないじゃないか!」


男は私を乱暴に閉じて、傘立てに投げ込む。


私は底に落ちる。そして大きな音がする。


当然だ。壊れているのだから。使えないのだから。


男は別の傘を掴む。透明なビニール傘。さっき、自慢していたビニール傘だ。


「これでいいか」


男は出ていく。ビニール傘を持って。


「え?あの、私...!」


ビニール傘の声が遠ざかる。消える。


しばらくして、司書が私を拾い上げて元の位置に戻す。


傘立ての中の別のビニール傘が言った。


「...あるあるだよね」


「え?」


司書の傘が聞く。


「私たち、よく間違えられるんです」


別のビニール傘が言う。「透明だから、どれも同じに見えるらしくて」


「そうなの...」


「私も前、違う人に持っていかれたことあります」


「私も」


「私も」


ビニール傘たちが、次々と言う。


司書の傘が聞く。


「え?じゃあ、持ち主が変わってるの?」


「はい...」


一本のビニール傘が答える。「私、五人目の持ち主です」


「私は三人目」


「私は四人目」


「私たち、転々とするんです」


司書の傘が言う。


「それって、盗まれ続けてるってことよね」


「そうです...でも、私たち、個性がないから」


一本のビニール傘が、自虐的に笑う。「仕方ないですよね」


その瞬間、私の中で何かが弾けた。


「個性がない?」


私は言う。声が低い。


「違う」


ビニール傘たちが黙る。


「お前たちにも、持ち主がいる。一人目の、本当の持ち主が」


私は言う。声が震える。


「間違えられるのは、お前たちが悪いんじゃない。人間が悪い。傘を軽く見てるからだ。ちゃんと見ていない。自分の傘を覚えていない。区別しようとしていない」


私は叫ぶ。傘立ての中で。


「さっきのビニール傘は、昨日買われたばかりだった!新品だった!嬉しそうに話していた!持ち主のことを!それを、他人が勝手に持っていく!」


「落ち着いて」


司書の傘が言う。


「落ち着けるか!」


私は言う。「傘は、物じゃない!持ち主のものだ!一本一本、誰かのものだ!それを、使い捨てのように!間違えていいもののように!」


「ごめんなさい...」


ビニール傘の一本が、小さく言う。


司書の傘が言う。


「彼は怒ってるけど、あなたたちのことを心配してるのよ」


「...すまない。」


私は言う。


「...ありがとう」


ビニール傘が言う。


私は黙る。


なぜ、こんなに怒ったのだろう。


傘を軽く見る人間が、許せなかった。


他人の傘を平気で使う人間が、許せなかった。


それだけだ。正義感だ。ルールを守れと言っただけだ。


そうだ、それだけのことだ。



* * *



雨は少し弱まった。


人々が図書館を出る。傘を持って。


新しい傘が入ってくる。


赤い傘、小さい、子供用。


女の子が入ってくる。小学3、4年生くらい。赤い長靴。


女の子は赤い傘を持っている。赤地に花の模様、ピンクと白。


傘立てに入れる。私の近く。


赤い傘だ。新しくて綺麗。


「こんにちは」


赤い傘が言う。声が高い、可愛らしい。


「こんにちは」


司書の傘が答える。


「雨、すごいね」


「そうね」


「さくちゃんと来られて嬉しい」


「今日はお母さんと一緒じゃないの?」


「一人で来てもいいって」


赤い傘は嬉しそうだ。


女の子は奥へ行く。児童書のコーナーへ。


私は赤い傘を見ている。


愛されている傘だ。


女の子に、大事にされている。いつも同じ傘を使っている。この赤い傘を。


それが、傘の本来の姿なのだろう。


持ち主に愛されること。大事にされること。一緒に雨の日を過ごすこと。


私にはない。


持ち主は、私を忘れた。何ヶ月も前に。もう戻ってこない。


だから私はここにいる。忘れられたまま。


いや、違う。


私がここにいるのは、壊れているからだ。忘れられたからではない。壊れたから、捨てられるまでここにいるのだ。


赤い傘を見ていると、何か、胸が痛い。いや、傘に胸はない。だが、何か、痛みに似たものを感じる。


なぜだろう。


分からない。


時間が経つ。女の子が戻ってくる。本を借りて、ビニール袋に入れている。


女の子は赤い傘を取る。両手で、大事そうに。


赤い傘が言う。


「またね!」


「またね」


司書の傘が答える。


女の子は出ていく。赤い傘を差して。


傘が、女の子を守る。雨から。


それが、傘の役割だ。


私には、できない。壊れているから。


当然のことだ。壊れた傘に、役割など果たせない。


それが、現実だ。


私は受け入れている。この現実を。壊れていることを。使われないことを。


受け入れている。


そうだ、受け入れている。



* * *



夕方、雨はほとんど止んだ。霧雨。


閉館時間が近づく。館内放送が流れる。司書の声だ。


「まもなく閉館です」


人々が出ていく。


傘たちも出ていく。持ち主と共に。


傘立てが空いていく。


黒い傘、青い傘、ビニール傘。皆、帰る。


やがて、私と司書の傘だけが残る。


その時、奥から足音が聞こえた。


男が出口に向かってくる。若い男、二十代、紺色のスーツ。


男は困った顔で傘立てを覗き込む。探しているのだろう。自分の傘を。


ビニール傘を。午前中に来た、あのビニール傘を。


だが、ない。


盗まれたのだ。午後に、別の男に。


傘立てには、司書の傘と私。


男の目が、私に留まる。壊れている。忘れ物だと思っているのかもしれない。


手を伸ばす。掴む。引き抜く。


見る。


骨が折れているのが分かる。布地が破れているのが分かる。


男の顔が曇る。


迷っている。


私を持ったまま、動かない。


外を見る。雨。弱いが、降っている。


また私を見る。骨を。破れを。


また外を見る。雨。


長い沈黙。


男の手が、わずかに震える。


何かを考えている。


使うべきか。使わざるべきか。


やがて、男は私を傘立てに戻す。


ゆっくりと、丁寧に。


黙って。


何も言わない。


そして出ていく。自動ドアが開く。外は雨。


男は走り出す。濡れながら。傘なしで。


私は、傘立てにいる。


使われなかった。


壊れているから。


いや、違う。


男は、使おうと思った。だが、使わなかった。


他人の傘だから。


盗まれた被害者だから。同じことはしたくなかった。


それが、理由だ。


私が壊れているからではない。


いや、違う。


壊れていることも、理由だ。


どちらも、理由だ。


司書の傘が聞く。


「あなた、使われたかった?」


「いや」


私は即座に答える。


「壊れているから無理だ」


「でも...」


「壊れた傘を使っても意味がない。あの男は正しい。濡れて帰った方がいい」


「...そう」


司書の傘は、それ以上何も言わない。


私は正しいことを言った。事実を言った。


壊れた傘に、価値はない。使われる資格もない。


それが、現実だ。


私は、それを受け入れている。


受け入れて、ここにいる。


ただ、在るだけだ。



* * *



司書が片付けを始める。


電気を消す。一つずつ。暗くなる。


司書の傘が言う。


「じゃあね」


「ああ」


「また雨の日に」


「ああ、また」


司書が司書の傘を取る。傘立てから。


コートを着て、マフラーを巻いて、手袋をする。


壁面のスイッチに向かう。最後の電気を消す。自動ドアの電源も切る。スイッチを切る音。


館内が完全に暗くなる。


そして手動でドアを開けて出ていく。外は暗く寒い。


ドアを閉める。外から鍵をかける音。


私は一人になる。


傘立てには私だけ。


図書館は暗い。静かだ。空調の音だけ。


窓の外、雨は完全にやんだ。地面が濡れて、街灯の光を反射している。


私は見ている。暗闇を。


今日も、一日が終わった。


朝が来て、昼が来て、夕方が来た。


司書の傘が来て、「おはよう」と言った。


ビニール傘が来て、自慢話をした。買われたばかりだと嬉しそうに言っていた。


そして連れ去られた。他人に。


私は怒った。


なぜ、あんなに怒ったのだろう。


傘を軽く見る人間が、許せなかった。


他人の傘を平気で使う人間が、許せなかった。


正義感だ。ルールを守れと言っただけだ。


そうだ、それだけのことだ。


...本当に?


赤い傘が来た。


女の子に、大事にされている赤い傘。


愛されている傘。


私は見ていた。赤い傘を。


胸が、痛かった。


なぜだろう。


なぜ、痛かったのだろう。


...羨ましかったのか?


いや、違う。壊れた傘が、羨むことなどない。当然のことを、当然だと見ていただけだ。


本当に?


男が来た。


ビニール傘の持ち主。盗まれた被害者。


自分の傘がなくて。私を見て。


それから私を掴んだ。


その瞬間、何を思った?


何も、思わなかった。


壊れているから、すぐに戻されると分かっていた。


本当に?


男は迷った。


私を持ったまま立ち尽くした。


使おうかと考えた。


その時、私は、何を思った?


何も。


何も思わなかった。


...本当に?


「使っていい」


そう、思わなかったか?


「壊れているけれど、少しは防げる」


そう、思わなかったか?


「あなたのビニール傘は盗まれた。だから、私を使っていい」


そう、思わなかったか?


...思った。


思った。


確かに、思った。


男に使ってほしかった。


壊れていても、少しでも役に立ちたかった。


司書の傘が聞いた。


「使われたかった?」


私は答えた。


「いや」


嘘だ。


使われたかった。


ビニール傘が自慢していた時、


私はイライラした。


なぜだ?


使われることを、自慢されたからだ。


私には、ないものを。


赤い傘を見ていた時。


胸が痛かった。


なぜだ?


愛されることを、見せつけられたからだ。


私にはないものを。


男が私を諦めた時。


複雑な気持ちだった。


なぜだ?


使われたかったからだ。選ばれたかったからだ。


私は、傘を軽く見る人間に怒った。


本当は、違う。


使われている傘に、嫉妬していた。


愛されている傘に、嫉妬していた。


自分を選ばなかった人間に、失望していた。


私は、使われたかった。


壊れていても。


役に立たなくても。


傘として、誰かを守りたかった。


それが、私の願いだった。


認めたくなかった。


壊れた傘に、願う資格などない。


そう、思っていた。


だから、否定した。自分の感情を。


だが嘘だ。


私は使われたい。


傘として在りたい。


誰かを守りたい。


たとえ完全に防げなくても。


たとえ雨が少し漏れても。


それでも、私は傘として在りたい。


その願いを持ち続けてもいいのだろうか。


叶わない願いを。


壊れた傘の、身の程知らずな願いを。


分からない。


だが消えない。


この願いは消えない。


明日も、ここにいる。


明後日も、ここにいる。


いつか、捨てられるまで。


だが、それまで願い続けてもいいだろうか。


使われたいと。


傘として在りたいと。


その願いを持ち続けても。


私は、傘だ。


壊れた傘だ。


だが、傘だ。



(完)

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