帰省
いつかこの家に「ただいま」と言えなくなる日が来ることを、私はまだ知らないふりをして帰省する。
年末になると、私は決まっておばあちゃんの家に帰った。帰る、というより「戻る」という言葉のほうが近い気がする。あの家には、私がまだ言葉を上手に使えなかった頃の私も、うまく笑えなかった頃の私も、全部そのまま置いてあるからだ。まだ幼い私を母方の祖父母が引き取ってくれた。
玄関の引き戸は相変わらず重くて、ぎい、と音を立てる。その音を聞くだけで、胸の奥がゆるむのが分かる。
「ただいま」
そう言うと、少し遅れて「おかえり」と返ってくる。返事をするのはおばあちゃんだけど、声は家全体から返ってくるみたいだった。
おばあちゃんは、いつも台所にいる。
年末だというのに、特別な料理をしているわけでもなく、ただ大根を刻んだり、鍋の中を静かにかき混ぜていたりする。その背中は小さくて、でも妙に安心する形をしている。
「寒かったでしょう」
「うん、ちょっとね」
「こたつが出してあるから中に入りなさい」
その言葉を聞くたびに、私は子どもに戻る。もうとっくに大人なのに、おばあちゃんの前だと、体のどこかが勝手に幼くなる。
居間のこたつは、あの頃と同じだった。天板の端が少し欠けていて、布団には小さな焦げ跡がある。
「これ、まだ使ってるんだ」
「使えるうちは使うのよ。物はね、使ってあげないと拗ねるから」
おばあちゃんはそう言って笑った。
私はその言葉が好きだった。拗ねる、という言い方が優しくて、世界全体が少しだけ生き物みたいに感じられるから。
夕方になると、外は急に静かになる。遠くで除夜の鐘の準備をしている音が、風に乗ってかすかに届く。
おばあちゃんは押し入れから、古い箱を取り出した。
「これ、あんたにあげようと思って」
中に入っていたのは、少しくたびれたマフラーだった。色も曖昧で、端はほつれている。
「おじいちゃんがね、昔くれたの」
それは、おじいちゃんが亡くなる前からずっと使われていたものだった。
私は何度もそれを見てきたけれど、手に取るのは初めてだった。
「いいの?」
「いいのよ。持ってる人が変わるだけ。思い出はなくならない」
マフラーを首に当てると、少しだけおばあちゃんの匂いがした。洗剤と、日向と、時間が混ざった匂い。
胸の奥が、きゅっと縮む。
「おばあちゃん、ずっと元気でいてね」
私がそう言うと、おばあちゃんは少し困った顔をした。
「それは約束できないわ」
にんまりと笑いながら。
すぐに、優しく続ける。
「でもね、あんたの中には残るから」
その言葉が、なぜかとてもあたたかかった。
死の話なのに、怖くなかった。消える話じゃなくて、移る話みたいだったから。
夜になって、二人でこたつに入りながらテレビを見る。内容は頭に入ってこない。ただ、同じ空間にいることが大事だった。
おばあちゃんは、途中でうとうとし始める。私はその寝顔を見ながら、時間がゆっくり進めばいいのにと思った。
年が明ける少し前、私は外に出た。空気は冷たくて、でも澄んでいる。
首には、あのマフラーが巻かれている。
鐘の音が響く。
一つ鳴るたびに、何かが終わって、何かが始まる。
ふと、将来の自分を想像した。
このマフラーを、誰かに渡す日が来るのだろうか。
「これはね」と、誰かに話す日が。
おばあちゃんの言っていた物は使えるうちに使うのよという言葉は私に託されてもしかしたら私から誰かへとまた託されるのかもしれない。
家に戻ると、おばあちゃんは起きていた。
「寒かったでしょう」
その言葉を聞いて、私は笑った。
今年も無事年をこせた。
来年も元気にこせるといいな。




