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第5章 月の音が消える夜に

 秋の風が冷たくなりはじめたころ、

 蒼真は紬の部屋でギターを調整していた。


 窓際のカーテンが風に揺れ、

 淡い月光が床を撫でている。

 机の上には作りかけの歌詞ノート。

 “光でできた記憶”――

 あの日、紬が言った言葉がタイトルとして記されていた。


「紬、ここのフレーズ、“届かない夜でも、声を残す”ってどう思う?」

「うん……いいと思う。でも――“届く”にしよう。」

「届く?」

「うん、届くって言葉、好きなの。

 誰かの心に、ほんの少しでも触れる気がするから。」


 蒼真は笑いながら頷いた。

「じゃあ、“届く”にしよう。」


 その瞬間、

 月の光が二人の手元を優しく照らした。

 まるで、その選んだ言葉を祝福するように。


 数日後、紬の体は少しずつ弱っていった。

 階段を上がるだけで息が上がり、

 笑顔の裏で痛みを隠すことが増えた。


 それでも、彼女はスタジオに通い続けた。

 マイクの前に立つと、

 不思議と声が澄んでいく。


 その歌声には、命の光が宿っていた。

 それを誰よりも強く感じていたのは、

 隣でギターを弾く蒼真だった。


「紬の声ってさ……なんか、月みたいだな。」

「え?」

「いつも静かで、でもどこまでも届く。」

 紬は一瞬だけ俯いて、

 小さく笑った。

「じゃあ、蒼真は夜空だね。」

「俺が?」

「うん。月が浮かぶ場所。」


 その会話が、

 ふたりが穏やかに笑い合えた最後の夜になった。


 数週間後。

 完成した「光でできた記憶」を披露するライブが決まった。

 小さなホールだったが、

 そこには紬と蒼真を見守ってきた人たちの笑顔が集まっていた。


 紬は控室で鏡を見つめていた。

 顔色は少し青白い。

 けれど、瞳はいつもよりも輝いていた。


「大丈夫?」と蒼真が尋ねると、

 紬は首を横に振って笑った。

「ううん、大丈夫じゃない。でも、今日だけは歌いたい。」


 蒼真は言葉を失った。

 ただ、その手をそっと握る。

 細く冷たい手だった。

 彼はまだ、その意味を知らない。


 ステージの照明が落ち、

 観客のざわめきが静まる。

 青いスポットライトがふたりを照らす。


 イントロが流れ、

 紬の声が響いた。


 ――

 “光でできた あなたの記憶

 触れられない夜でも 届いてる”

 ――


 会場の誰もが息をのんだ。

 その歌声はまるで、

 月の光が涙に変わったようだった。


 蒼真はギターを弾きながら、

 何度も紬を見つめた。

 その横顔が、あまりに綺麗で、

 どこか遠くへ行ってしまいそうで、胸が痛んだ。


 最後のサビを歌い終えた瞬間、

 紬の手がわずかに震えた。

 彼女は笑って、観客へ深く頭を下げた。


 そのまま――音もなく、倒れた。


「紬っ!」


 蒼真の声が会場に響いた。

 スタッフが駆け寄り、観客がざわめく。

 しかし紬の瞳は静かに閉じられ、

 唇には、ほんの少しの笑みが残っていた。


 あの夜、月は丸く輝いていた。

 病室の窓から差し込む光が、

 彼女の枕元をやさしく照らしている。


 蒼真は手を握りしめ、

 声にならない言葉を落とした。

「まだ、一緒に……歌いたかった。」


 そのとき、紬の指が微かに動いた。

 そして、かすれた声が聞こえた。


「……届くよ。

 蒼真の音は、これからも――ずっと。」


 その言葉を最後に、

 紬の呼吸が静かに止まった。


 数年後。

 蒼真はひとりでギターを抱え、同じ夜空を見上げていた。

 街の灯が眠る屋上で、

 静かに紬の曲を奏でる。


 夜風に乗って、音が空に昇っていく。

 その先には、あの日と同じ月があった。


 “光でできた記憶”

 ――それは、紬が残した永遠の歌。


 蒼真は目を閉じ、微笑んだ。

「なあ、紬。……届いてるよ。」


 その瞬間、月がわずかに揺れた。

 まるで、彼女が笑っているかのように。

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