プロローグ「月の下の歌声」
――音が、夜に溶けていく。
海の向こうから風が吹き、波が細く砂をさらう。
月は、雲の切れ間から顔を出し、誰もいない防波堤を青く染めていた。
その真ん中に、ひとりの少女が座っていた。
白いワンピースの裾が風に揺れ、指先が小さなギターの弦を弾く。
――紬。
十七歳。
夜になると、決まってこの場所で歌う少女。
彼女の歌声は、不思議だった。
誰もいないのに、誰かを探すようで。
届かないはずの空に、何かを託すようで。
波と一緒に流れて、やがて夜の果てに消えていく。
「音ってね、死なないんだよ」
ある夜、彼女はそう呟いた。
「消えたように見えても、空のどこかでまだ響いてる。
だから、ちゃんと届くんだ。たとえ誰も聴いてなくても――」
その声を、遠く離れたアパートの一室で聴いていた男がいた。
蒼真。二十一歳。
夜中の作曲が日課の、無名の作曲家。
イヤホン越しに流れる彼女の歌声を、息を殺して聴いていた。
片耳しか聴こえない。
だからこそ、彼は音を“見る”ように感じていた。
彼女の声が届くたびに、脳裏に月が浮かぶ。
淡くて、冷たくて、なのに優しい光。
――この声は、誰だ。
その夜から、蒼真の作曲は止まった。
どんな旋律を紡いでも、あの歌声の後ではすべてが嘘に思えた。
静寂だけが、彼の中に残る。
そして数日後、画面越しに初めて彼女の顔を見たとき、
彼は思った。
「この子は、光の中で生きてる」
彼女の名は紬。
歌う理由も、誰に向けて歌っているのかも、誰も知らない。
ただ、夜ごとに海辺で流れるその歌声が、
世界のどこかで確かに誰かを繋いでいた。
――音が届くまで。
それが、二人の始まりだった。
 




